小説「皮」

藤想

 「首の皮一枚繋がった」という言葉がある。間一髪の所でなんとかその危機的状況を切り抜けた、という意味だ。この場合、より大切なのは首という部位がギリギリその体裁を保っていることなのだろうが、私にとっては寧ろ、皮が繋がっていることに意味がある。


 私は「皮」である。


 私は元々キャサリー・マクレガーという人物の皮膚だったが、マクレガーは死んだ。代わりに私の中に詰め込まれたのはお粗末な演算装置や想像力を可能にする巨大なスクリーン・メモリーや、疑似的血管や筋肉やセラミックの骨子や、とにかく皮膚以外に人間の生存に必要なものを闇鍋のように何でもぶち込まれ、お陰で私は性格以外は生前のキャサリー・マクレガーと同じ振舞いを出来るようになった。

 私のような人間(もし私を人間と呼称してもいいのなら)を、中身がニセモノではない本来的な人間達は「皮(スキン)」と呼ぶ。


 猛烈な吹雪の勢いが収まる頃、まだ空は真っ暗で陽も出ていないが、私は宿を出ることにした。虫も居付かない穴だらけのベッドから起き上がり、エスキモーのように分厚い第二の皮膚、上着をガバッと羽織る。上着のチャックを占めると、上着は私の全身をすっぽりと覆う。そしてはみ出したチューブから冷気を吹き出す巨大な鉄の箱を背負う。宿にはドアが無く、扉枠から外を見渡すと、微かに赤い光が、吹雪の隙間から見え隠れして点滅している。

 ずしりと雪を踏みしめ、生命力溢れる名もなき雑草に一礼し、宿に別れを告げる。


 雪道を一歩一歩慎重に下っていくと、赤い光はどんどん強くなる。その下に、人工的で幾何学的な建造物のシルエットも見え始め、それは一層険しく眼前に立ち上がってくる。

 この建造物の中に次のお客がいる。

 建造物の周囲を暫く迂回して、入口があるはずの壁面をなぞっていくと、壁の質感がコントロール・パネルを埋め込むための柔い材料に切り変わる継ぎ目が分かる。暫く柔い壁の表面をなぞり、自分の指の金属の磁気に反応してヒクヒクと動くゴム蓋を見つける。ゴム蓋の端を叩き、開閉回路に接続。壁面が真っ二つに裂けていく。


 中は温かい湿気が充満しており、私は上着のチャックを少し開けて顔を覗かせる。オレンジ色の温かな光に足場を照らされた真っ直ぐな鉄橋が出迎えてくれる。

 

 暫く鉄橋を歩いていくと、遠くから獣の鳴き声のようなものが聞こえた気がした。獣。犬やオオカミや、その類の……。もし飼っているとしたらこの食糧難の時代に大した余裕だ。

 鉄橋の向こう側から、やはりさっきの鳴き声は本物だったのだ、大型の犬のような生き物がこちらに向けて走ってくる。口からは涎が溢れ、全身から血を流して。


 私は大型の獣がこちらに飛び掛かってくるのを誘うように身体を引き、その獣の噛みつきを受け流すようにして右へと身体をずらして側面から思いっきり蹴りを入れる。病原菌を警戒し、獣の血飛沫も即座にかわす。獣の歯は折れ、身体は左側へ吹き飛び、鉄橋の下へと落下する。落花する途中に下層の別の鉄柱に体を打ち付けながら、獣は底の見えない更なる下層の闇の中へ消えていった。

 獣を蹴った衝撃で足の骨がやや痛んだが、この身体に痛覚は無い。演算装置が五感の情報から適当にでっち上げた偽物の痛みであることが分かる。

 私の皮、つまりそれは私自身だが、食い破られて皮がちぎれでもしたら堪ったものではない。この出来事は厳重に受け止め、建造物の主にその責任の所在を問おう。


***


 暫く歩いていると、鉄橋を歩き終え、屋内に入り、床の材質がより弾性のある素材に変わって、壁も安心感のある暖色に染められていた。そのうち中世の宮殿の回廊のような空間へと辿り着いた。そして柱の陰からローブを着た女が現れた。


「キャサリー・マクレガーさんですね」

女は私の顔を検索したようだ。

「ええ、そうです」

「途中で犬に会いましたか。逃がしてしまったんですよ」

「飼い犬ですか?」

「いえ、先日入り込んできました。感染していたので処分したかったのですが」

「良かった、蹴り殺してしまったので」


私は担いできた鉄の箱をその場に置いた。「ここで、品物を見せましょうか?」

「食堂に案内します。そこで」


 二人の足音が広々とした空間に反響し、この回廊の外側の闇へと消えていく。巨大な建造物だが、システムはその薄い壁面の内部に格納されて、それ以外は全て空洞だった。食堂に着くと、小さい男の子と女の子が数人、テーブルに着いていた。


「この子たちに食べさせてあげたいんでね」ローブの女は言った。


 私は入口付近に鉄の箱を置いて箱を開封した。中から冷凍された羊のすじ肉や、豚足や、海豚の脂などを取り出して、テーブルに置かれた大きな皿の上にゴロゴロと乗せた。

「普段何を食べているの?顔色が良いね」私は尋ねた

「燃料」

 人が食べれるように加工した油のことだろうか。どう加工しているのか知らないが、それだけでも肌がこれ程健康的なのは自分の存在意義を否定される気がした。


「これ全部でいくらになりますか」ローブの女が決済端末を袖から取り出す。

「126ルーブルです」

「あら、結構取るんですね。まあ当然か、ここまで運んでくるんだから…」

「前に来た人は良心的でしたか。でもごめんなさい。私も生きなくちゃ」


 これだけの設備があるんだから、やろうと思えば家畜なんていくらでも自分たちで飼えるはずなのだ。それを自分の勝手な産業倫理とか、もしくは手間暇掛かるからこうして私にデリバリーを頼むんだから、126ルーブルくらい払ってもらう。

 因みに、贅沢しなければ一か月の食費は42ルーブル程。この女は丁度三カ月分の肉をこの子たちのスキンケアに使っていることになる。


「折角ですからマクレガーさん、ちょっとそこでお茶でもどうですか?」

「ええ、構いませんよ」

 私は上着を脱ぎ、女もローブを脱いで繋ぎ目のない曲線的な美しい民族衣装に身を包んだ。女は自らを『クレー』と名乗り、私に知らない葉っぱで入れたお茶を御馳走してくれた。


「気楽ですね、人間的な生命維持活動を何もしないのって」クレーがお茶をかき混ぜながら言った。

「一応食べたり寝たりするんですけどね。でもスキンケアこそ、人間性の最大の維持でしょう」

「私にとっては違う」

「というと」

「私は獣に肌をいくら食い破られようとも、人間性を失うとは思わない。あの子たちはそれがまだ分かってない。だから肉を買う。食べさせる」

「人間性が、皮には宿ってないというんですね」

「そういうわけでもない、今は、そうかもしれない」


 クレーは壁を指し示した。

「かつてシステムは壁の外側に置かれていた。しかし今は、あの壁の中に、ここのシステムは全て閉じこもっている。そして私はそのうち、それすらも、壁の己の中に閉じこもって、無くなってしまうと思う。内側へと逃げることを繰り返して、何処かへ行ってしまうでしょう。

 皮も同じこと。中身を失って、外見を失って、皮さえも失っても尚、私たちは新たなものに執着して、人間であり続けるでしょう」


***


 クレーと子供たちに見送られながら、私は回廊を出た。


 ここで一つだけ告白することがある。さっき私は、獣に襲われた時に冷静に身体を動かして、獣を蹴り殺した。そしてそれを事後平然と、クレーに報告した。


 しかし、私は恐かったのだ。


 獣に皮を食い破られることも怖く、もしも私が生身の人間だったならば、身体は恐怖に支配されて動かなかったはずだし、皮膚を食い破られると同時に痛覚によって恐怖はより一層、厳しさを増しただろう。私は恐怖に打ち負けて死んでいたかもしれない。その可能性はとても大きい。

 恐怖心が無かったのは、単に演算装置が恐怖をシャットアウトしていただけだ。そして今、これを考えいる間も、私の意識は私のものではない。


 クレーは、壁を指し示した。私は何処へ行くのだろうか。


 建造物の裂け目から身体を乗り出して雪の中へ足を突っ込む。私を吐き出すようにして壁面の裂け目は閉じて、繋ぎ目は見えなくなった。吹雪はさっきよりも強くなっている。


 私は新たな赤い光を目指した。

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小説「皮」 藤想 @fujisou

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