『Sapporo1972』

@kitamitio

第1話  「札幌へ」



2022年。二度目の冬季オリンピックを目指している札幌には逆風が吹いていた。オリンピック開催への市民の支持が得られないのだ。札幌市民がオリンピックを嫌いになってしまったのだ。それは他でもない、コロナウイルス蔓延の中で強硬開催してしまった二度目の東京オリンピックが、組織委員会による一大汚職にまみれたものだったことが大きな原因であった。マラソンの開催地となった札幌があたかも片棒を担いだような言われ方をしたことに私たちはもう嫌気がさしていた。そんなことばっかりがクローズアップされてしまったあの東京オリンピック……。日本人として最も恥ずべき行為は日本人の心を傷つけるとともに、日本人としての私たちのプライドをも汚してしまった……。


一度目の札幌オリンピックは今から50年前。札幌がアジアで初めての冬季オリンピックを開催した。

そして、まさにその年の四月に私は札幌市民の一人として加わることになった。


「1992年札幌へ」


 トワ・エ・モアの歌う「虹と雪のバラード」が毎日のようにテレビやラジオから、そして街頭放送からも聞こえていた。1972年2月。サッポロ冬季オリンピックはこの街を大きく変えた。

1964年の東京オリンピックが敗戦からの復興を高らかに宣言し、その6年後の大阪万国博で名実ともに日本が世界の国々と肩を並べる存在として認められることになった。その後も経済的に右肩上がりの成長を続ける日本の中で、北の中心都市として札幌はその存在感を高め、このオリンピックでついに世界に名前を知らしめることになった。

それまで札幌は道都と呼ばれはしても、北海道の中心地は北のはずれの地方都市にすぎなかった。一極集中となる人口流入で、日本の中心地として巨大な都市へと膨れ上がった東京にも似て、北海道でも札幌への人口流入が続き、ついに100万都市となった。そして、オリンピックは、この北の街を国際的なネームバリューにふさわしいものへと変えようとしていた。

雪の影響を受けない地下鉄が開通し、高速道路が札幌へ札幌へと人々を呼び込み、郊外へと広がり続ける住宅建設はさらに人口の流入に拍車をかけた。私が海沿いの田舎町からやって来たのは、こうして札幌が大きく転換する節目の年だった。


 私の住んでいた町には高校が一つしかなかった。いや、高校のある町だったといった方がいいだろうか。中学を卒業するとそのうちの半分は地元の高校へ通い、就職する者も多く、地元の水産加工場などが受け入れ先になっていた。そして、ほんの一部だけが小樽、札幌、函館の高校へと進学していたが、進学希望者のほとんどはこの町の高校へと進んだ。

高校入試が大きな人生の分岐点になることもなく、普通の生活をしていれば何となく高校生になることはできた。7年間この町に暮らした私もそんなふうにみんなと同じく何となくこの地元の高校へ通うはずだった。


 中学3年生の後半になっても受験生という意識はあまりなく、当時夢中になっていた陸上競技の解説書を読みあさっていた。速く走るための足の着地の仕方は、高く跳ぶための両腕の使い方は……、そんなことばかりを考えて暮らしていた。年も明け、いよいよ入学願書を出そうかという時期になって、突然父親の転勤が決まった。田舎まわりの公務員には今時の父親のように単身赴任など考えられるはずもなく、この地での仲間と一緒の高校生活は実現しなかった。

「転勤すると親元から通える高校はないから、姉もいることだし、札幌の高校にしなさい。」

という父の言葉ですべてが決まった。春から私は仲間と別れ札幌で高校生活を始めることになってしまった。もう明日にもオリンピックが開幕しようかという頃だった。


 70m級ジャンプの宮の森シャンチェでは日の丸飛行隊が表彰台を独占し、真駒内アイスアリーナではフィギュアスケートのジャネットリンが尻もちをつきながら笑っていた。そんな華やかな札幌冬季オリンピックが終わり、選手村に残された「love and peace」の落書きとともに札幌は念願の国際都市に仲間入りした。そして、私の高校受験の日もやってきた。

生まれも育ちも由緒正しい田舎ものの私は勉強で競争するという意識がないままに育ってしまった。札幌で育った同い年の競争相手になるには甘すぎる受験生だった。試験の間の休み時間に彼らが開く参考書や問題集を見ただけで、私はもう負けだということを悟ってしまった。彼らの会話の内容は全く私の理解の範囲を超えていた。住むことになったアパートから一番近いという理由だけで受験した高校が、実は自分のレベルの遙か上にあったのだということは、合格者名を発表する掲示板に自分の番号がないのを見るまでもなくわかっていた。

受験当日は、高台にある高校の窓から見える札幌の街並みが、雪に包まれえらくひっそりとしていたことを覚えている。人口2万人そこそこの海沿いの町は私にとっては素晴らしく豊かな町であったが、100万都市の一員として勝負するには私は田舎者すぎた。いや現実を知らな過ぎた。勉強で人との競争に打ち勝つための方法など考えることもなく生きてきたのだ。

 そんなわけで、結局私立高校に拾われたわけだが、私のボケぶりもたいしたもので、入学式に集まった500人の男の集団を目にして初めて、自分の母校となったマリアの学校が男子校であることに気づくありさまであった。


「虹の地平を歩み出て~……」というトア・エ・モアの歌がまだ耳に残る1972年4月。とにかくこうして私は札幌市民の一人となった。朝6時起きで路面電車を待ち。バスへ乗り継いで通学する日々が始まった。街中にはまだオリンピックの余韻が色濃く残っていた。

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