続く短編 続続ぬかるみ

阿賀沢 周子

第1話

 スニーカーを履いた美也は、さっきとは打って変わってすたすたと歩いている。竹村は後ろをついていきながら、何でここにいるのか自問していた。まあ腹が減っているから流れとしては仕方がない、ということにしよう。美也から付き合うのを断ってくるということもあり得るし。とりあえず、食べることが優先。この間にまた何やらわめかれても我慢して、帰る前に「あらためて小林に返事をする」と伝えて別れよう。


 7時過ぎ、真っ暗になる手前の時間。美也の住宅から歩くこと5,6分で、にぎやかな通りに出た。北24通と樽川通が交差する角に二階建ての店舗ビルがあった。ビルの中は4軒とも飲食店だ。一階の角側にイルミネーションに囲まれて”基本の薬膳カレー”と書かれた看板が見えている。にぎやかな場所のわりに小さなカレー屋だ。

「”基本の薬膳カレー”というのが店の名前なのか」

「そう。オーナーがいろいろ考えたけどいい案が浮かばなかったらしいの。それでそのままを店名にしたようよ。基本というのは、薬膳と言いながらヘルシーでないスープカレー店が増えていることへのささやかな反抗らしい」

 普通に話す美也は、魅力的に見えた。着替えた美也はストレートのジーンズに黒い細身のTシャツ、グレーのダウンベスト姿だ。かえって色白を際立たせて、先刻触れた胸のふくらみは小さくてきれいな弧を描いている。

 戸口のドアを開けると店内は、オレンジ色のLEDスタンドランプが何個かあるだけの薄暗い店だった。カウンターが5席、テーブル席が二つで、カウンターの中の厨房には男が一人いるだけだ。客の姿はない。

「いらっしゃい。美也ちゃん、久しぶりですね」

「ずっと忙しくしていたから、食べたくても来られなかった。今日は腹ペコ状態」

 美也がカウンター席の奥から2番目に座ったので竹村は並んで腰かけた。

「初めてだよね。人、連れてくるの」

 オーナーがまじまじと竹村を見詰めて言う。頭に黒いバンダナを撒き、痩せた顔に無精ひげが目立つ。ハスキーな声は、なにか歌ってほしいくらい魅力的だった。

「そうだった? 初めてかな」

「そして初めての連れが、男性だ」

 二人でまじめな顔つきで会話しているのがなぜか不思議だった。初めての連れがいて、その連れが男だというのが話題になるほど珍しいのだ。が、美也だと無理もないか。不思議とか珍しいとかを超えて、宝くじに当たるような確率ものなのだ。きっと。

 気心が知れている様子で、美也は淡々と返事をしている。調理に手を動かしながら美也と会話しているオーナーも声以外は至って普通だ。

「美也ちゃんはいつもの薬膳でいい? こちらさんはなににします?」

「研一お勧めのでいいよ。基本の薬膳でね」

 竹村は、会話が成り立っていないということより、美也に呼び捨てにされたのに驚いた。

「健一お勧めって。僕は何もおすすめしていない。そちらのおすすめの基本の薬膳でいいです」

「へっ。何それ。研一はいつも初めてのお客さんには基本の薬膳をおすすめしているんだよ」

 へって何だ、またはじまったかと思いながら、気づく。

「もしかしてオーナーさんはケンイチという名前なんですか」

「そうよ。もしかして、竹村さんもケンイチだったっけ? そうそう、この話が来た時、竹村健一って、どこかで聞いたことあって覚えやすいって思ったの、思い出した」

 それはよく言われる。特に年配の人が言う。あんなに優秀な学者さんと同姓同名なんだから、あやかりなさいとまで言われることもある。影響力が強い政治学者の竹村氏は少し前に亡くなった。

「どう見たって美也さんよりオーナーさんのほうが年上じゃないですか。なぜ呼び捨てにするんですか?」

「まずそのオーナーさんっていう言い方やめて。舌嚙みそう。オーナーでいいでしょ。それと私はあっちの研一には貸しがあるから、貸しを回収するまではさん付けにしないということになっているの」

 レンジに向かって仕事をしている研一さんがこっちを振り向いてうなづいて返した。苦笑いが浮かんでいる。


 竹村の前に基本の薬膳カレーが置かれた。大鉢のカレーは、中央に鶏モモの骨付きが鎮座して、周りに煮込まれたピーマンと人参、しめじ、蒸したカボチャやブロッコリーなどが並んでいた。スープは半透明でカレー色。スパイスが浮かんでいるのが見える。中皿の飯には薄ピンクと緑のピクルスが載っていた。

 美也の前に運ばれたものを見ると、骨付き鶏ではなく、小さな骨の付いたラムと肉団子が入っている。それ以外は竹村のものと同じだ。

「この肉団子が生姜が効いて美味しいのよ。今度来たら是非これを食べてね。基本の薬膳は、ここの始まりの味だから最初は……」

 竹村は、スプーンで冷ましスープに口を付けた。一口目は何やら薬っぽい。えっ、と思いもう一口飲むと薬っぽさの中の辛みを感じた。辛いので少し口を開けて呼吸をして休む。美也が何か言っているが耳に入らない。三口目はどうだ。好みでないかも、と思いながらすする。舌が受け入れる。次を欲しがる。ああ、これは、はまる味だ。辛みは丁度よい。コクがあるがくどくない。

 蒸すか煮込むかした野菜はそれぞれにうまみが引き出されている。スプーンを止めるのは飯や野菜をフォークで口に入れる時だけだ。


「私の話を聞いていないのね。何よ、そのがっついた食べ方」

 大方食べ終わった段階で、美也の声が耳に入ってきた。美也は食べ終わって紙ナプキンで口の周りを丁寧に拭いている。

「うまかったです。こんなカレー食べたことない。オーナーさん、一人で全部やっているんですか?」

 厨房で片づけをしていた研一が、手を拭きながらそばまで来た。

「仕込みは全部自分でやっている。ランチは場所がらお客さんが多いのでバイトが二人はいっているけど、夜は酒出さないから、一人でも対応できるんだ。仕込んだカレーが無くなったら店仕舞い。今夜はあと3,4人で終わりかな」

「研一さんの基本の薬膳は、今まで食べた中で一番おいしいスープカレーです。美也さんのおかげです」

 何気に美也を見ると、うれしそうな顔だった。カレーのせいか笑う頬がつやつや光っている。笑顔も奇麗だ。なんか惹きつけられる、と素直に考えている自分がいた。

「ああ、よかった。そんなに喜ぶってことは、私に借りができたという事?」

「まあ、そうとも言える」

 オーナーが残念な顔つきで首を横に振っている。自分、何かまずいことでも言ったか。

「健一。そう呼ばせてね。同じくらいの喜びを返してくれるまでは」

 そういって、美也は化粧室へ行った。

「竹村さん、もう洗礼は受けたんですか?」

 オーナーの研一がカウンター越しに、顔を近づけて来て言う。

「僕は仏教系だから」

「それでなく、これ」

 研一は自分の口を指さす。

「こっちの洗礼です。もうやられました?」

「ああ、もしかしてあの罵詈雑言のこと?」

 研一が慌てて唇に指を立てる。化粧室の方を窺がってさらに竹村に近づいた。

「あからさまに言ったら、美也ちゃんに聞こえた場合のお返しがすごいですから…”洗礼”です。受けたみたいですね」

「研一さんもやられたことあるんですか?」

「研一でいいよ。僕も健一って呼ぶから。ややこしいけど簡単で楽でしょ。洗礼は、最初のころの話。ここにもう5年は来てくれているからね。こっちもそれなりに慣れて、”引き金”を引かない方法もなんとなくわかってきたしね。今の”借り”のことだけどやばいんじゃないかな。美也ちゃん、結構シビアだから。僕なんて永久に借りは返せないと思っている。まあ、僕の場合はペット並みの呼び捨てだけだからいいけど」

静かに話すハスキーな声が不安を掻き立てる。

「僕は家内がいるからよかったけど、健一は独身だろ。やばいかも」

化粧室のドアが開く音がする。

「一人で来た時話すから」

 オーナーの研一は急いで厨房の片づけに戻った。美也は化粧を直してきた。形の良い唇がピンクに濡れていた。健一を見てほほ笑む。旨いものを食べて満足し、優しげなほほえみを見ていると、今日は良い一日だったような気がしてくるが、研一の言葉が釘をさす。

 「同じくらいの喜びを返して」と美也が言った言葉の意味合いと、研一が急いで口にした独身だからやばいという内容だ。美也に聞くのはやめた方がよさそうだ。

 支払いは竹村だ。同士のように研一に黙礼して、ポイントカードをもらって店を出た。美也もついてくる。すぐの交差点で竹村は立ち止った。

「僕はここで失礼します。気をつけて帰ってください。では」

 信号が青になるのを待って頭を下げた。渡ろうとしたがリュックを引っ張られた。振り向くと美也の口がとんがっている。

「借りを返してもらうわよ」

「今度にします」

 負けてたまるかとリュックを引っ張り取り、点滅し始めた信号へ足を向け、走り出した。信号を渡り切っても、振り返らず走り続けた。腹がくちいが、負けるもんかと走る。運よく信号がつながり一度も立ち止まらずに済んだ。

 創成川通りの交差点で立ち止まった。信号が長いので、後ろが気になった。振り返るのが怖くて前を向いたまま、じりじりと青信号を待った。

 思い出した。インゲルだ。パンを踏んだ娘の名前。美しい少女。最後にどうなったんだっけ。

 


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