ハンターと犬と兎とジュンちゃんと

塩田千代子

狛兎

 ざわざわガヤガヤ噂話うわさばなしう。祖母の三回忌さんかいき

 おばあちゃん、薄情な孫でごめんなさい。僕は今すぐ帰りたい。読経、焼香、説法せっぽうが終わって、さぁ帰ろうと思ったら、会食があった。「帰る?」とささやいたジュンちゃんに、「いや、出るよ」と答えたことを今とても後悔している。後の祭り。

「おっ、食べてるか? 若いんだから、どんどん食べろ」

 陽気な伯父さんがやってきて、僕の肩をバンバン叩く。僕たちの顔をしげしげと見比べて、うーんとうなった。

「どっちがじゅんちゃんで、どっちが雄一ゆういちくんか、顔を見ただけじゃぁわからんなぁ。双子の美人姉弟だな。二人とも何センチあるんだ? 176? 7か? でっかくなったなぁ。背はお父さんを超えちゃったか」

 伯父さんがガハハと笑う。僕も調子を合わせてアハハと笑う。

 そこへ母親がやってきて、僕の背中をつついた。

「雄一、ちょっと」

 親となるべく話したくなかったから、わざと離れて座ったのになぁ。向こうからやってきた。

 しかたなく立ち上がって、母親の後について行く。ジュンちゃんが一緒についてきてくれた。心強い。ありがたい。

 廊下に出ると、父親がいた。難しい顔をしている。……嫌な予感がする。

「雄一」

 父親が声を抑えて聞いてきた。

真弓まゆみさんと別れて会社も辞めたといううわさを聞いたんだが、本当なのか?」

 あーあ。バレたか。……あの会社は父親の会社とも母親の会社とも取引があったからなぁ。まぁそのうち耳に入るかもとは思ってたけど……今かぁ。

うそよね。真弓さんとは結婚の約束をしてたんでしょう? 会社だって入社して一年ちょっとしかたってないし、これからって時じゃないの。あんないいところを、辞めるわけないわよね?」

 いいところ? 僕にとっては地獄だったけどね。うつ寸前で辞めた。

 息子が一流大学を出て一流企業に就職して財閥ざいばつ令嬢れいじょうと結婚間近だ、と両親はまわりに自慢していた。馬鹿だな、と思う。

 ジュンちゃんにそっと背中を押され、僕は勇気をふりしぼる。いつ言うの? 今でしょ!

「真弓さんとは別れた。会社も辞めた」

「辞めただと⁉」

「別れたの⁉」

 両親が大声を出した。

 しゃべり声がピタリと止んだ。障子しょうじの向こうで親戚一同が、何事だろう? と耳をそばだてているのがひしひしと伝わってくる。両親は知らずに声が大きくなっている。

「どういう事だ? 三年もたたずに辞めるなど。なぜなのか説明しなさい」

「何したの? 雄一の方からあやまって許してもらいなさい。仲直りしなさいよ。逆玉の輿こしよ。もったいないじゃないの」

 親の言い方にカチンときた。僕は怒鳴りたいのを抑えて答える。

「会社を辞めたのは、シンプルに仕事ができなかったから」

 そして上司がパワハラで、さらに同僚とも先輩ともうまくいかなかった。と心の中で付け加える。職場も仕事も僕には合わなかった。

 何か言おうとする両親に僕はたたみかけて言った。とどめを刺した。

「真弓さんと別れたのは、検査の結果、僕が不妊だとわかったから。彼女は子供を欲しがっていたからね」

 シーンと静まり返った。

「ふ、不妊⁉ そ、それはつまり、雄一が……」

「種なしってことなの⁉」

 響き渡る親の声。

「そういうこと」

 親の顔に失望が広がってゆく……。真弓さんの時もそうだった。潮が引くように離れていった。すうーっと心が離れていった。恋人も親も、僕を見る目が変わった。

「それじゃあ、僕は帰るから」

 僕はクルリと親に背を向けて、逃げるように寺を飛び出した。

 運転席に飛び乗ると、助手席にジュンちゃんがすべり込んできた。僕は無言で車を出した。ジュンちゃんだけが、僕を見る目が変わらない。


 車一台通らない人っ子一人いない田舎道。前方には真っ直ぐ伸びた車道、上には白い雲と青い空、左右には田んぼが広がっている。

「伯父さんたちに挨拶もなしで勝手に出てきちゃったけど、まずかったかな?」

「いいんじゃない」

 ジュンちゃんはあっさりと言った。

「話は全部、筒抜つつぬけだったんだから。あの場にいた全員わかってるって」

「あれで親戚中に知れ渡っちゃったね。僕は別にいいけど。言ってすっきりしたけど。親はどうだろうね? 後で何か言ってくるかな?」

「ユウちゃんがスッキリしたなら、それでいいんじゃない? 何か言ってきたら、その時に考えよう」

「そだね。……医者に不妊を告げられた時さ」

「うん?」

「僕は何とも思わなかったんだよね。あぁそうなんだって、あっさり受け入れた」

「うん」

「真弓さんに、子供が欲しいから結婚できないって言われた時も、あぁそうなんだって、あっさり別れた」

「そっか」

 のどかな景色が視界を通り過ぎてゆく……。


「……ねぇ、ユウちゃん」

「うん?」

「今どこ走ってるかわかる?」

「え? えっと……」

 いつのまにか車は山の中を走っていた。

「この車はカーナビないし、私のスマホは圏外になってる。この道に見おぼえある?」

 ジュンちゃんが手にしたスマホをおろした。言われてみれば……来る時にこんな道を通ったっけ? こんな山道は記憶にないぞ。でもずっと一本道だった……。僕のスマホも圏外になっていた。現在地がわからない。ここ、どこだ?

「……迷った。ジュンちゃん、標識ひょうしきを探して」

 行けども探せども何もない。どんなに目を凝らしても、標識も車も人も見当たらない。店も家も看板もない。

 日が傾いてきた頃、細い階段を見つけた。車を止めておりてみる。……どうやら上に神社があるっぽい。

「行ってみよう。誰か人がいるかもしれない。道がわかるかも」

 不安そうなジュンちゃんの手をつないで、僕たちは石の階段をのぼった。草むらで鳴く虫の声が、だんだんと小さくなってゆく。階段をのぼりきると、虫の声が止んだ。

「ねぇユウちゃん。これ、狛犬こまいぬ?」

 僕も初めて見た。唐獅子からじしはよく見るけど、これは。

「兎だね。狛兎こまうさぎ?」

きつねは聞いたことあるけど、兎もあるんだ。かわいい。何の神社だろ? あれ、神社の名前かな?」

 ジュンちゃんが指さす。

「……読めないや。ユウちゃん、読める?」

 古い板に書かれた流れるようなかすれ文字。

「……無理。わかんない。……誰もいなさそうだし、案内図とかもないね」

 さびれた小さな神社だった。夕日があたりを茜色あかねいろに染めている。

「おまいりして帰ろっか」

 そう言ってジュンちゃんが手を合わせる。僕も隣に並んで手を合わせた。……何の願いも浮かばなかった。形だけまねておく。

 足に何かれた。見ると、白い兎が僕の横を走り抜けていった。

「ジュンちゃん! 兎だ!」

「えっ?」

 僕はジュンちゃんの手を引っ張って、兎の後を追いかけた。白い兎が木のうろに飛び込んだ。僕とジュンちゃんは木の洞をのぞき込む……。くらりとまいがした。僕たちはそのまま暗い洞の中へ落ちていった。





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