盲目の少女は蛇神様と恋に落ちる。

碧野葉菜

プロローグ

プロローグ

 人間の目には映ることなく、認識されることすらない山頂のはるか彼方、そのまたさらに奥。

 下界よりずいぶん冷たく澄みきった空気の中、二人の神と呼ばれる存在がいた。

 一人はやや段の高い柔らかな緑の苔の生えた土肌に座っており、もう一人はそれを少し見上げるように、平らな地面に胡座をかいていた。位の高い神が上座、低い神が下座に腰を据えるのがこの世界のならわしであった。

「どうした、今日も不機嫌であるな」

 そう尋ねた上座の神は、見る者を圧倒する美貌の持ち主である。足元まである、流れるように繊細な琥珀色の髪と瞳、涼しげな目鼻立ち。人で例えるなら二十代後半といったところだろう。

 うっかり神力じんりきを抑制せずに下界に降りようものなら、目にした人間の息の根を止めてしまうほどの神々しさを放つ上流神じょうりゅうしんである。

 一方、その神に問われた神は、まだ垢抜けぬ小僧くささが残っており、白銀色のふわりとした髪は腰までしかなく、大きな翡翠色の瞳をしていた。人で例えるなら十五、六歳といったところだ。

 上座の神はすみれ色の、下座の神は若草色の狩衣を羽織り、白の袴という神職服に似た衣類を身に纏っていた。

「別に。本当に人間はくだらねえなって思ってただけだ」

 吐き捨てるように言う幼なげな神に、上座の神は余裕を持った心で答える。

「またそなたが願いを叶えた人間がいらぬことをしたか、蛇珀じゃはくよ」

「そうだ。せっかく俺が政治家になるって夢を叶えてやったのに、罪を犯して刑務所行きだ。この間の奴も、その前の奴だって、ろくなことをしやがらねえ」

 この神々たちは、人の寿命をもらうことで生きながらえている。それと引き換えに一つだけ願いを叶えてやるわけだが、もちろん叶えた後のことまで面倒を見るわけではない。

 その後は各自の生き方によるわけだが、願いを叶えた後、堕落する人間があまりに多いことに蛇珀はうんざりしていたのだ。

「まあそう言うな。そなたはまだ若いから人間というものをよくわかっていないのだ。無論、大半が欲望に負け闇に堕ちるのは間違いではない。が、皆がそうだというわけではない」

「……そりゃあ千年以上生きてる狐神きつねがみ狐雲こううん様にとっちゃ俺はお子様かもしれねえけどな。これでももう三百歳だ。人間がどの程度の生き物かくらい、俺にだって判断できるぜ」

 蛇珀が嫌みたらしく言うと、狐雲は少し困ったように微笑んだ。その背後には千年という時を越えてきた証とも言える豊かな尻尾が十は生えて見えた。

 蛇珀はこの神が嫌いだった。なんせ大昔、人間の女と恋に落ちたことがあるとかないとか噂がある。事実かどうかは定かではないが、蛇珀は興味がないため本人に確認したこともない。

 それでも狐雲と会うのは、人間界に降りる際、上流神の許可がいるからである。

「俺も早く上流神になりてえ。そうしたらお前に会わなくても好きな時に下界に降りられる」

「ならば早く私に追いつくのだな」

「けっ、上流神になる条件は教えねえくせに」

「それは自らが経験し知ることで意味を成す。精進せよ」

 からかうように薄笑いする狐雲に、苛立った蛇珀は乱暴に腰を上げると背を向けて歩き始めた。

「蛇珀、あまり不必要に寿命を取り立ててはならぬぞ。仙界せんかいの規律が乱れる」

 通常、下流神かりゅうしんは力が弱いため、人の寿命を一度に引き受けるにはせいぜい十から二十年が限度である。

 しかし蛇珀は下流であるにも関わらず神力が強いためその気になれば平気で百年など、寿命の残りすべてを取り立てることも可能であった。

 当然そこまではしないものの、それに近いことは多々あったため、狐雲が手を焼いていたのは事実である。

 しかし狐雲は蛇珀を好きであった。はねっかえりの小生意気が自身の幼い頃に重なり、なんとも憎めず、いつか人間嫌いが治りはしないかと願っていた。

 そんな狐雲の気持ちなど知る由もなく、蛇珀は返事すらせずに霞の中に姿を消した。

「そなたを御してくれる人間と出会えればよいのだがな。なかなか現れぬ。いやしかし、蛇珀はまだ若い故、焦ることはない。いつか、必ずや……」

 今日こそその日かもしれぬ。

 いつも蛇珀を見送る度、狐雲はそう期待を込め、祈っていた。

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