顔面喪失

湖ノ上茶屋(コノウエサヤ)

第1話


「じゃあ、俺の顔が黒く塗りつぶされて見えるってこと?」

 ごく自然な、「次って美術だったよね?」と問うような響きだった。

「そういうこと、かもしれない」

「へぇ」

「ごめん」

 佐藤くんは、まだ謎を抱えているような、納得がいかない気配とともに、いつものメンバーのもとへと戻っていった。


 私には、人の顔がよくわからない。

 ちゃんと見えてはいる。でも、その人が視界から消えた途端、どんな顔だったかわからなくなってしまうんだ。

 そんなだから、私は街中で誰かと会っても、見たことがあるような気がするってくらいしか認識できない。

 親だって、家族だって同じだ。

「なんだ、声かけてくれればいいのに」

 そう、何回言われたことだろう。

 私は、自分の顔もよくわからない。

 鏡に映して何度も見ているはずなのに、鏡を失うと頭の中にある顔面が崩壊する。

 私の頭の中には、人の顔がひとつもまともな形を成して記憶されていないのだ。

 普通の人は、ちゃんと顔を覚えることができるらしい。

 街中で知り合いに会ったなら、面倒がって気づかないふりをする場合を除いては、あいさつをしたり、雑談を始めたりしている。

 そんな楽しげなことを、私はできない。

 普通の人は、知り合いとコミュニケーションを取り合って生きている。そして、片方ばかりが声をかけるようになるとか、コミュニケーションのバランスが崩れ始めると、関係の糸をどんどんと長くして、そうして目が届かなくなったころにチョキン、と幻の音とともに切断する。

 普通の人は、声をかけ、声をかけられの関係を維持できるから、そう簡単には糸は切れない。

 だけど、私は普通じゃない。

 誰かに声をかけられるばかりで、こちらから声をかけることはない。

 崩れたバランスの修正方法なんてわからないし、相手に甘えること以外に維持する方法なんて存在しないから、だんだんと糸は長くなり、幻の音が響く。

 幻の音は、私の頭の中では確かに響く。

 ――チョキン。

 これまでの人生で、いったい何回あの音を聞いただろう。


 何十億という人間が存在するこの地球上には、私と同じ悩みを持つ人が存在していると信じている。

 私はたった一人の欠陥品ではないと思い込まないと、生きていること自体がつらいから、強引にでもそう信じている。

 けれど、信じれば生きやすくなるわけではない。だから、私はずっと、人生に希望を持てないまま、コミュニティに紛れたふりをして生きている。


 コミュニティの中に入ると、はじめは皆が糸を繋ぎたがる。そうして、望んでもいないのに繋がれた糸を、皆はチョキンと切断する。

 繋がれ、切断されるその時と、その後しばらくは心が荒れる。そんなことをするなら、そもそも繋いでくれるなと、心の中でひっそりと八つ当たりをする。

 繋がれた糸があらかた切断されると、誰も私に話しかけなくなる。

 誰も私を気にしなくなる。

 すると、私は一人になれる。

 一人はとても気が楽だった。

 それぞれの人とのつながりは切られても、コミュニティから追い出されるわけではない、普通のふりをすることだけは許される環境は、私の人生に存在する唯一といっていい救いだった。

 時々、罰ゲームなのか何なのか、私のもとに誰かがやってきて、そして他愛のないことを話しかけてくる。

 話しかけてきた人は、ひとつの質問を終えると去っていく。佐藤くんもそうだ。佐藤くんがいつものメンバーのもとへ帰った後の盛り上がりを見ればわかる。

 私に興味があったから問いかけに来たわけではなく、致し方がなく声をかけたのだとわかる。


 父や母は、たぶん、私が〝顔を認識できない人間〟だとは思っていないと思う。だから、「いつもぼーっとして!」と、私にシャキッとするようにと、口酸っぱく言い続けるのは、仕方のないことなのだと思う。

 このことをカミングアウトしようかと、過去本気で悩んだ。でも、できなかった。

 そんなことを言って、信じてもらえるだろうか。そんなことを言って、悲しませないだろうか。

 そんなことを言ったら、どんな反応をするだろうか。そんなことを言ったら、泣かれたりしないだろうか。

 人間の脳みそは、意識しないとポジティブにはならない。ネガティブが大好きな脳みそは、私からポジティブな選択肢を、薄ら笑いを浮かべながら奪っていく。

 私はそれに抗わない。だから、延々闇の中を彷徨うばかりだ。

 普通のふりをしながら、コミュニティに紛れこみながら、心をびくびくと震わせながら生きるのは、容易なことではない。

 父と母の心の中に渦巻く「うちの子はなんでこんなに引っ込み思案なんだろう」という疑問が、彼らの口から吐き出されるほうが、私のカミングアウトよりも早かった。

 後ろめたいからだろうか。私は二人の顔をよく見ることができなかった。

 怯えながらちらり、と見た顔は、黒で乱雑に塗りつぶした写真のように見えた。笑った。わたしの目は、脳は、いよいよ本当に人の顔を塗りつぶしだしたことを嗤った。

「ねぇ。お父さんとお母さんは今、真面目な話をしているんだよ?」

 声音にわずかに怒りの響きを感じる。けれど、眉間にしわがあるのかはわからない。だって、塗りつぶされているから。



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