「Kiss me again」1


 ――某日、ルナリ某所にて


 ヴァイ・モンタドールは囚われていた。


 手枷に足枷、壁に繋がれて動くことはできない。猿轡がないだけまだましか。


 ここは一体どこなのか。部屋には窓がなく時間さえも不明だ。


 しかし誰のせいでこうなっているかは分かっている。


 “魔女”。


 すなわち教区長カサンドラだ。


 カサンドラこそが魔女であると知った時、ヴァイは大して驚きはしなかった。むしろなぜ気付けなかったのかと悔しさを覚えたのだ。


 自警団が機能不全に陥ったことについても、教会の穏健調和派が壊滅したことについても、一番得をしたのはカサンドラだ。教会の人間が魔女を名乗るわけがないと考えてしまっていた。


 それでもルナリに病をばら撒いた”魔女”が本物の魔女ではないと確信できたことは収穫だ。


 もしも本物の魔女ならば抵抗など意味はなかったが、カサンドラは聖書原典を悪用するだけのただの人だ。


 毒を飲ませれば死ぬし、毒を塗っても死ぬし、毒を吸わせるだけでも死ぬ。


 そのためにもどうにかこの部屋から抜け出さなければ。ヴァイは周囲を見渡した。


 捕えられているのはヴァイだけではない。自警団員、無辜の市民、痛めつけられた亜人たち。繋がれた人々に共通点は見当たらなかった。


 隣に座り込む見覚えのある顔に声をかける。


 そいつは自警団の隊服を着た白い犬の亜人。長い毛が床に散らばっている。


「おい、ムム」


 返事がない。


 ムムは舟を漕ぐように頭を揺らしながら、部屋中に響くいびきをかいた。


 まさか眠っているのか? こんな状況で? いびきをかくほど熟睡している?


 犬の亜人はこれだから頼れないのだ。知性が原始的な欲求にだいたい敗北する。


 ヴァイは腕を振りかぶった。なんとか動かせる範囲を最大限使って、渾身のビンタをムムの側頭部に叩き込む。


 なかなか様になった一撃だったが、ムムの首は丸太並に太いのでびくともしない。


 しょうがない。


 ヴァイは最後の手段を使うことに決めた。


 ヴァイは薬師だ。毎日たくさんの薬液を扱っている。その指先にはそれが染み込んでいるのだ。人の何十倍も優れた犬の亜人の嗅覚であれば……


 ムムのひくつく穴の中に、えいやっと指を突っ込んだ。


「――ブハッ! ゲホッ、オエエッ」


 いびきが苦しそうなえずきに変わり、つぶらな瞳が見開かれた。


「くせえ! し、しぬぅっ!」


「失礼なやつだな。私の指はくさくない。今度本物の刺激臭というものを嗅がせてやろうか」


「お断りだ、鼻が潰れちまうよ」


 ヴァイは指を鼻から引き抜いた。ムムが激しくくしゃみを繰り返す。


「――お前ほどの戦士がどうして捕らえられたんだ?」


「ああそれは――」


 ムムのしっぽが悲しげにだらんと垂れ下がる。


「急に『おすわり』って命令されて、動けないまま拘束されちまったんだ」


 頭が痛くなりそうだ。ヴァイは怒りと呆れをなんとか抑えようと眉間を揉む。


「その致命的な癖、まだ治ってなかったのか。敵にバレてるならまた利用されるぞ」


「大丈夫。突然だったから体が勝手に反応しただけで、身構えてたらこうはならん……はず。――それでヴァイはどうして捕まった?」


 ムムの問いかけのせいで忌々しい記憶が蘇ってくる。


「私の方には――聞くも涙、語るも涙な感動的ドラマがある。長くなるのでこんな場所では語っていられない」


「卑怯だぞ。どうせヘマしただけのくせに、俺の失敗だけ聞いておいて――おっと、悪かった。だから臭い指を突きつけるのはやめてくれ」


 お喋りしている暇はない。


 まずはこの手枷足枷をどうにかするところからだ。


 ヴァイは胸元から小さな薬瓶を取り出した。どうやら教会の連中は取り上げるのを忘れたらしい。奴らは剣以外は武器になり得ないと思っているのだ。


 そしてその考えに足を掬われることになるだろう。


 歯で固く閉じられた蓋を回し開けて、瓶を咥えたまま手枷に注いでいく。シューシューと何かが焼けるような音を出しながら厚い金属が溶けていく。脆くなったところで地面に打ち付ければ、手枷はなんなく外れてくれた。次は足枷だ。


 ムムがつぶらな瞳を丸くしてそれを見る。


「すげえ毒だな……」


「毒じゃない。薬だ」


「そうかい。俺のもいけるか?」


 ヴァイは落ちていた黒いトンガリ帽子を拾い上げて頭の上にのせた。これがないと落ち着かない。


 ムムを拘束する枷は特別性だ。亜人の腕力を封じ込めるに十分な頑丈さの鉄枷が、女の腕より太い鎖で壁に繋がれていた。


「枷は無理だ、鎖も無理。薬液が足りない。だが壁との接合部なら……」


 残り少ない瓶の中身をどばどばと垂れ流し、壁に打ち込まれた楔を溶かしていく。


「引っ張れ」


「おう」


 水色の隊服の下の筋肉が盛り上がり、ボタンが弾けそうになる。バチンと断裂音が響いて、ムムは勢いのまま後ろに吹き飛んだ。


 拘束は外れた。


 そして――武器も得た。腕の延長となりうる硬く重たい鉄のムチだ。巨躯のムムが振り回せば即死級の脅威になる。


「これはいいぜ」


 ムムが鎖をじゃらじゃら引きずりながら立ち上がり、体操を始める。しなやかで力強い体の中の本能的な暴力性が目覚めているのだ。


「なあ、あんた……」


 鎖に繋がれたままの市民が呻くように話す。彼はひどく憔悴していた。


「犬のおまわりさんだよな…… 俺も……俺たちも助けてくれ……」


 部屋を見渡すと、数十の双眸がヴァイとムムをじっと見つめていた。


 ヴァイとムムの声が重なる。


「悪いが後回しだ」

「今すぐ助ける」


 ムムが腕組みして首を振った。


「ルナリ自警団の一員として、この人らを置いて逃げるなんてできねえよ。助けないと」


「お前がその牙で鎖を切ってまわるのか? 仮にそれができたとして、自力で歩けもしない市民をどう逃がす? 私には背負えないぞ。――何をすべきかを考えろ。私とお前さえ逃げ出せば、仲間を連れてここに戻ってこられる」


「むぅ……」


「頼む! 置いていかないでくれ!」


 男が泣きの混じる掠れ声で懇願した。ムムの耳がぱたりと伏せられた。


「……馬みたいに足が速くなる薬とかもってないのか?」


「あるわけないだろう。私はただの薬師だぞ。そんな魔法みたいなことができるのは――」


 遮るように扉が軋みながら開いた。


「――本物の魔女だけ、か?」


 監禁部屋を訪れたのは修道服を着崩した女――カサンドラ。


 ルナリの教区長にして、呪病をばらまく魔女。いいや、魔女の名を騙るだけの小悪党だ。


 ムムが毛を逆立て牙を剥きだしにして威嚇する。しかしカサンドラに怯えた素振りはなく、涼やかに部屋を見渡した。


「薄汚い貧民たちが暗くて冷たい隅っこに身を寄せて傷を舐めあう…… まさに聖書通りの美徳よな。ずっとそうしておけばいい」


「ガルルルッ!!」


 まさに獣の唸り声をあげ、ムムが飛び掛かっていく。人にはできない爆発的な加速だ。


 ヴァイの目では追いきれない。白い腕が残像だけを残し、鉄の鎖が風を切り裂きながらしなる。その先端は間違いなく音の速度を超えていた。


 しかし――


「主よ、我を守りたまえ!」


 盾をかたどった光。光でしかないはずのそれが鎖を弾き返した。定められた行き先を失って暴れまわる鎖が石の床をえぐる。


 光り輝く盾の向こうで、カサンドラはいつの間にか聖書を開いていた。冷たい眼差しは揺れてさえいない。


 目的のページを開く正確性、詠唱の速度、そして盾の堅牢さ。疎いヴァイにもはっきりと分かる、この女は一流の術士だ。


 ムムが憎々し気に喉を鳴らしてぼやいた。


「なぜ神はこんなクズの人間に加護を与えて、亜人には与えない……」


「それは亜人が――害獣にすぎないからだ、ワンちゃん。私のルナリに糞尿をまき散らすことを許しているだけでも感謝してほしいのだが、噛みついてくるなら……痛めつけなければ」


「ルナリはお前のものじゃねえ。俺たちの街だッ」


 もう一度、鎖が振るわれる。狂った蛇のようにうねりながら迫り、光の盾を強く叩いた。


 輝きが褪せ、盾にひびが入る。


 ムムがばうっと吠えた。


 ヴァイはその圧力に、自分に向けられた殺意ではないと分かっていても、震えてしまう。


 盾が煌めきを残しながら薄くなっていく。


 その中でカサンドラは一枚の紙切れを掲げていた。


 真実の歴史書である聖書、その原典。神が手ずから文字を書き本として編んだうちの一ページ。


 それも秘匿されるべき十三章だ。神々しいだけではなく、惹きつける闇を感じる。


 目玉が固定され、古びたその紙に意識が吸い寄せられる。そこには確かに神意が宿っていた。そして「受け入れよ」と語りかけてくるのだ。


「記憶は世界に保管され、脳が引き出し、魂がそれを繋ぐ。すべて忘れてしまえ。そして赤子のように生きるのだ。回帰こそが人のさだめ」


 強烈な光が部屋を満たした。視界が七色に染められ、頭蓋骨の中で脳みそがぐらぐらと揺れている。


 光が収まったとき――


「ムム!」


 ムムは大の字になって床に寝そべっていた。長い舌を出したまま、意識はない。その頭の横に転がっているのは――


 水晶玉だった。


 完璧な球体で、握りこぶしより一回りは大きい。水晶の中には煙のようなもやが渦巻いていて、透き通っているとは言い難かった。


 ヴァイは直感した、あれこそがムムの記憶なのだ。


「犬畜生の記憶など無用だろうが……」


 カサンドラが興味なさげに鼻をならしながら水晶玉に手を伸ばし、指先が触れた瞬間水晶玉がチカチカと輝いた。


 カサンドラの瞳の中に様々な情景が映し出される。


「やはりくだらんな。低俗すぎる…… まったく同じ日々の繰り返し、確認する価値もない。――貴様の記憶はもっと面白いことを祈る」


 ヴァイの背筋の毛がぞわりと立つ。


 記憶は失われるだけでなく、魔女のものとなってしまうのだ。秘密が暴かれてしまう。


「そんなのは尊厳の蹂躙だ。許されない」


「お前が許さずとも神が許すのだ。――星々は完璧な配置に近づいている。もう少し、もう少しだぞ」


 うわごとのように話す。焦点はヴァイに合わず、もっと遠くの何かを見ていた。


「……何をするつもりだ」


 魔女がほくそ笑む。


「儀式だ。――約束しよう、貴様は世界で最も美しいものを目にすることになる。……可哀想なことに、この言葉も忘れるのだが」


 再び聖書原典十三章が掲げられた。


 ヴァイの頬を汗が伝う。もし記憶を奪われ過去を覗かれれば、次に狙われるのは自分の身の回りの人間なのだ。 


 家族、自警団の仲間、旅立った客人たち。その顔が走馬灯のように一瞬だけ脳裏を巡っていく。


 奪われてはいけない。


 この街を救える最後の希望、残された反抗の芽を摘ませてはいけない。


 ヴァイは胸元からもう一つ薬瓶を取り出した。中身は薄く緑がかる半透明の液体だ。


 それは適量であれば睡眠薬。飲みすぎれば……


 蓋を投げ捨て、瓶を突っ込むようにして一気にあおる。


 苦々しい液体が滑り込んできて、しかし味を確かめる間もなくすべてを喉に流し込んだ。本来は水に薄めて使うべきそれは濃く粘っこく、ヴァイは顔をしかめる。そして睨んだ。


「すべてが思い通りに行くと思うな。お前は本物の魔女ではない」


 カサンドラはどこまでも余裕の笑みを崩さなかった。


「そうだ、私は魔女ではない…… しかしすべてを手に入れる」


 視界がぼやけ始めた。薬液の効果だ。


 ヴァイは膝から崩れ落ちながら、最後の反抗として瓶を投げ、呪いの言葉を吐き出す。


「いつか誰かがお前を裁くだろう――そのときは決して遠くない」


 そしてヴァイは床に倒れ伏せる。瞳孔が拡散して濁り、顔に影が差した。


 投擲されたガラスの瓶はカサンドラの頬をかすめ、足元に転がったそれを靴が叩き割る。


「自殺とはつまらないことをしてくれる…… まあいい。生贄はどうせ殺すのだ。一つ二つ腐っていても構わないだろう」


 カサンドラはヴァイの頭部を踏みにじりそのままの姿勢で、残る鎖で繋がれたままの市民たちに問いかける。


「さて、君たちの中に記憶喪失になるくらいだったら死にたいという勇者はいるだろうか?」


 人々は手を上げることも、拒否することもできなかった。繰り広げられる奇跡についていけていないのだ。


「――無知で臆病、それでこそルナリ市民だな」


 カサンドラが十三章を掲げる。


 部屋は再び光に包まれ、そのたびに一人ずつ気を失う。


 いつか誰かがお前を裁くだろう、そのときは決して遠くない。そう言い残したヴァイの言葉を信じられるものは、今や誰もいなかった。 

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