アンゲリーナ・フロントライン
@K_Asunaro
Act Ⅰ ヴァルキュリア・レギオン
EP1 1864
『本日は──』
朝起きて、ラジオのつまみを回すと溌溂な放送員の声がする。
ラジオは酷く、おしゃべりでよく聞くような威勢良く耳障りのよい単語の羅列の連続は小鳥の囀りのような騒々しさを感じざるを得ないが、それは数少ない娯楽だ。独りの身としては、無味乾燥な朝を過ごすよりかは、幾分マシだ。
そんなことを考えながら私は塩を適量入れたお湯で嵩増しした配給の麦粥を無理やり喉奥に流し込んで、朝食を終えた。もちろん、味なんか多少の塩味以外しないが、何もないよりかは、幾分マシだ。
『──以上、本日も滅私報国の精神で服務することを、国家は望みます』
放送の終えたラジオは、次第に音を細かくし終いに砂嵐のようなザーザーといった風な音を発するようになった。
『本日は──』
冗談。流石、国民から税金を巻き上げて得た国費で運営しているラジオである。また聞こえる放送員の声に呆れを通り越した微笑を私は浮かべた。数少ない娯楽であるラジオは少国民に対するサービス精神を忘れていないらしい。
しかしそれは結局、雑音の中の一つでしかない。それが意味のない情報であることを知らない国民はいない。
私はラジオのつまみを回して電源を切った。
支給された薄く滲んだような茶色の国民服を上下身に纏い、私が向かった場所は帝都の郊外にある職場だ。国が選んだその職場は、野戦陣地、その構築であった。石畳の目抜き通りから正門へ、通行証を衛兵に見せてそこを抜けると眼下に禿げた大地と、大地に這う手製の塹壕が地平線まで広がっていた。
そこでの仕事は一つ、一人で押せる手押しの台車を用いて20キロ近くある土嚢を指定場所に運ぶことである。
「……ッ!」
男性の成人ですら、苦労する重さである。それを成長しきっていない体の十代前半の、それも少女たちに運ばせるのである。肩の筋肉はもちろん、足から腰に至るまでの筋肉は凡そ十代前半の範疇に収まらない肥大を見せていた。筋肉痛はもちろん、肉離れや脱臼、骨折、捻挫などなど怪我と隣合わせの仕事だが、弱音を吐く者はいない。いや弱音は吐きたい。死ぬほど吐きたいのだ。だが、働かないと生きられないのだ。
「管理官、1,001,909番が疲労骨折で膝をつきました」
「……なるほど。では労務を続けさせなさい。続けさせればいずれ治るでしょう」
「それが、もう無理と泣き喚いて、その……恐怖で失禁を」
「分かりました。処分なさい。役立たずで非国民はこの国の国民には相応しくありません」
それでもやっぱり、最終的には心が折れてしまう子もいて、そういう子はこの国には必要ないらしい。行きつく先は殺処分である。
聞こえる乾いた一発の銃声に背をそむけて私たちは今日も黙々と土嚢を運び続ける。皮が剥けて、両手が血まみれになっても涙を見せずに。
昼食は配給のジャガイモである。それを普段は生で食らうのだが、今日は違った。しっかり中まで火が通ったホクホクのジャガイモである。それが私の両手の中に一つだけあった。一口、食べると身が口の中で溶けた。微かな甘みは普段食べてばかりの合成甘味料のそれとは違い、喉は少しもえづかずにそれを受け入れた。
「先輩! 美味しいですね!」
「そうね」
私は無邪気に喜ぶ後輩の声に短く返事した。
「初めてここで火の通ったジャガイモを食べましたよ! でもなんで? 燃料という燃料は根こそぎ取りつくされて、町だって戦前のインフラに辛うじてしがみついてるって状況なのに」
「なんででしょうね」
私はわざとらしく答えた。
知らない、というのは幸せなのだろう。
私は背の低い後輩の少女を見下ろした。名前はイリーナだったはず。新人でまだここに来てから十日も経っていなかったはずだ。だからまだ、知らないのだ。
「先輩? なにか知ってるんですか?」
「……そうね。確かに戦争が始まって木は燃料になるから刈りつくされたから、もうどこにもないしね。なんででしょうね」
「やっぱなんか知ってるんですね!?」
言わなくても、いずれ分かることだから言う必要もないだろう。
それに真実を知るには、まだ十歳にも満たない少女は若すぎるし、何より荷が重すぎる。
「あれ、先輩あそこ」
「なに?」
「人だかりがありますよ!」
「あ、休憩が終わるまで五分もないのに……」
私は、以前遅刻して処刑された先輩の話を思い出して少し気持ちが暗くなった。そんな心配をよそに甘味に導かれて群れる蟻のようにイリーナは人だかりに吸い込まれていった。
私の心配はなんなのか、しかしそれも余計なお世話か、とも思った次の瞬間である。
──背後、乾いた、あるいは硬く酷く冷ややかな発砲音を、私は聞いた。
嫌な汗が頬を伝った。
「何があったの?」
近くまで行って、見知った顔を見つけた。
彼女は見ろ、と言わんばかりに人差し指をそちらに向けた。頭を撃ち抜かれて、地面に転がった見知った者の亡骸が転がる人だかりの中心に。
「……何があったの?」
「非国民的発言だ」
「……イリーナ」
「知り合いか?」
「後輩。さっきまで一緒にいた」
「そうか、それは災難だったな。だがそれが日常だ」
顔見知りの言葉に、私は俯いて口をキュッときつく結んだ。
その横では遺体回収をする少女が後輩の四肢を縄で結んで、焚火の中にくべている。それを新たな燃料とするために。傍らには先に燃やされていた少女の頭蓋骨が最期の役目を終えて転がっていた。
「知ったのね」
「耐えられなかった。たまにいる。良心が残った良い奴が。残念なことに良い奴から死んでいくが」
「そうね」
「感想は?」
「もう何も感じないわ。感情を残してたら、たぶん私もあそこにいる」
私の視線は、焚火に向かっていた。
少女の顔が、生き物を燃やし慣れていない覚束ない火炎の隙間からちらりと見える。少女の顔に、生前の人懐こい小動物のような温かみや華やかさは一切なく、それは凍り付いた機械の無機質で無感動のような作りめいた物だった。
人が放つ死臭に鼻が悲鳴を上げた。逃げようとしても、鼻の奥に纏わりついてくる。そんな中で食べる人で焼いたジャガイモの味や匂いはどうかというと、慣れた。最初は吐き気を催したこともあったが、食べられなくなって死ぬよりはマシだと思うようになってからは、大丈夫だ。
昼食を終えると午前中の作業の継続。土嚢を受け取り、指定された場所に運ぶ。
不意にまるで海牛の鳴き声のようなうねった汽笛を上げて、軍用汽車が乗降場に入線した。乗降場といっても土嚢を積み上げてその上に床として防腐加工したベニヤを敷いた即席の設備である。軍用汽車は制動機の余韻を十分に作って停止し、武官が何かを確認したのち、溜息を着いた時のような音と共に扉を開けた。
客車が負傷兵を吐き出すのを尻目に私は黙々と作業をこなす。
そんな作業がどのくらい続いたのだろうか。私が気づくと、いつの間にか夕陽の淡い橙色の日差しが頬を指していた。もう定時は終わりか、と思うのと同時に残業が始まったと感じた。光源がなくても手元が見えなくなるまで作業の継続は可能である、というのがお上の考えらしい。
「1,000,291番はどこか!」
憂鬱な気持ちを押し殺しながら作業をしていた私は突然呼ばれた自分の管理番号に驚き振り向いた。監督官の制服を纏った初老の男がボード片手に立っていた。
「1,000,291番は私ですが」
「ただちに大隊本部に出頭せよ」
作業を止める。周りで作業を続ける少女たちが何事かと、まるで不運に見舞われた腫物を見るようにこちらを凝視していた。実際、不運なのかもしれない。大隊本部という場所には初めて行くが、どうせろくでもない場所なのだろう。
大隊本部というのは四方を円形に配した土嚢のバリケードの中央に鎮座するベニヤを張り合わせて作ったと思われるみすぼらしいあばら屋のことを指すらしい。
恐る恐る入口の暖簾をくぐると先客がいた。
初めて見るが、執務用に執務用に設えた机に座る軍服姿の若い男が恐らく大隊長だろう。大隊長がいるのは当然として、その前に10名前後、少女たちが並べられていた。
「前線の兵員不足の穴埋めのために、以下十名を前線に派遣することになりました。以上、解散。労務を再開してください」
私たちは紙切れを渡されると、解散を指示される。一部、これだけのためだけに呼ばれたのかと憤慨している者もいたが、声を大にはせず小さく呟く程度の不満を露わにしている。
それからしばらく作業を続けると終業の本鈴が小さく鳴った。ちなみに予鈴はない。聞くところによると昔は予鈴と本鈴と、二つに分かれていたが予鈴後の就業効率が著しく悪い部署があったかららしい。ちなみに現場には時計すらない。過酷な作業なんてものは、さっさと止めてしまいたいものだ。
明日からはさらに過酷になるが。
終業後、町の明かりに照らされている場所で私は渡された紙切れを読んだ。明日、朝五時発の軍用汽車に乗車後、西部方面に移動し現地の第279歩兵師団に随伴する工兵隊に合流、指揮下に入るべし、と。
移動するというのに、休みすらない。それがここの日常だ。それ以上の余計な感情を、私は抱くことなく紙切れを二つ折りして巾着袋に入れた。
「おりょ? あなたは確かさっきもいた……」
「誰?」
「ほらあの汚い小屋の──」
「大隊本部のこと?」
「そうそれ!」
「それで?」
「初めましてリーリヤって言います!」
「良い名ね」
「ありがとうございます! 両親が付けてくれたんですよ。もうどっちも死んじゃいましたけど!」
「そう。それは残念だったわね」
まるで言葉が羽ばたきだしそうな勢いで話す少女だ。ルビーのように輝く紅い髪は言葉の羽ばたきに合わせて右へ左へと揺れ動く。両目は大きく見開かれ好奇の視線を向けられていた。
「それで? どうしたの?」
「実は私も前線行の選抜に選ばれたんです!」
そうだっただろうか、と私は少し前の出来事を思い出す。
「ごめんなさい。さっきは本当に一瞬だったから覚えていないわ」
「そうですよね! だから私、一人一人に挨拶して回ってるんです! 仲良くなりたくて!」
「そう、それは殊勝ね」
「それでお名前を教えてください!」
「そんなこと、ってあなたそのペンとメモ帳はなに?」
「私、小説家志望なんです!」
「そう、それで?」
今の状況となんの関係があるのだろうか、と。
私は首を傾げた。少女はニコリと、今までの真夏のように激しく輝いている笑顔ではなく春か秋かの静かで穏やかな笑みを浮かべた。本の間に栞を差し込むような、小さな間が二人の間にできた。
「きっと、忘れると思うんです」
何が、と私が尋ねる前に少女は空を見上げた。町の空はスモッグとネオンで覆われて星は一つも見えない。見上げたまま、少女は幼子が物に縋ってねだるように、一言一言をはっきりと、私やこの国に住む人にとっては願望にしか聞こえないような。それこそ、煤けた茶色の国民服を着た少女が願ってしまってはいけないような尊大な大願を、少女は願った。
「いつか、本当にいつか。──戦争が終わったときです」
「戦争が、本当に?」
「終わります。いつかは分かりませんが。でも、──終わったとき、みんなはきっと忘れちゃうんです。御伽噺に登場するようなヒーローやヒロインの華やかで切ない物語なんかじゃない、こんな戦争の表にすら出てこない私たちの物語なんて」
でも。
少女は、キュッと口を口を結んだ。決意を秘めた瞳は、強く空を睨みつけていた。煤けた茶色の国民服の少女の姿が、町明かりに一人、照らされていた。
「私だけは忘れちゃいけないなって。で、その話を私の子の代や、その子の代の人たちに伝えてくんです、ペンとノートで記録して編纂した小説で。おかしなことですかんね?」
「いや」
その話を聞けば聞くほどに、私たちは今日この瞬間を生きるだけで精一杯だというのに、この少女のそれは、夢想じみた話だ。
だけど、少しだけ。
あくまで少しだけだが。
「素敵なことだと思う」
「ですよね!」
少女の笑顔は、いつの間にか真夏の太陽のように輝いていた。
「とと! そういえばまだ名前聞いてませんでした!」
「えぇと、……アンゲリーナ。アンゲリーナ・ジミーナよ」
「良い名前ですね! アンナ! これからよろしくお願いします!」
「いきなり愛称で呼ぶのね……」
「私のことはリーリャって呼んでくださいアンナ!」
もしも二人が、北風と太陽に例えられたならばリーリャが太陽で、私が北風なのだろう。私にとって、リーリャはあまりにも眩しすぎるのだ。
あるいは、もう少し私にリーリャのような、日の明かりのような前向きな考えがあれば──。私はもっと大手を振って、リーリャの手を握ることができるのだろうか。それは今は、無理だ。無理だけれども。
これは、あくまでも友人として。あるいは、これからの予行練習として。
「分かったわ、リーリャ」
私はリーリャの手を握った。
〇
今日は、いつにも増して疲れたと実感する。
それもこれも、恐らくは──。
私は帰宅するなり汚れた国民服を脱いで、それを床に投げ捨てて、下着のままベッドに寝そべった。汗や汚れはもう気にしない。そもそも国から割り当てられたシャワーの利用時間はとっくに過ぎている。
『本日は──』
ラジオのつまみを回すと、いつもの放送員の声が聞こえてきた。
24時間動き続ける都市の住民たちのための最小限の娯楽。
『南部戦域に侵攻してきた敵軍を我が国、精鋭の機甲師団が撃破せしめ、逆侵攻に成功いたしました。我が国、勝利での終戦は間近です!』
今日も似たような戦闘報告の読み上げ。国民の多くは、本当に戦争に勝っているのか知らない。いや、そもそも戦争が続いているのかも知らない。知っているのは、政府と現場の軍人と、──しかし彼らが国民に本当のことを言うことはない。
それでも国民は、抜け殻のような姿になろうとも、──国民は国民たるが故に、国家に奉仕しなければいけないのだ。
私はおもむろに、ラジオのつまみを回した。
ラジオはその音を次第に細くし、途切れさせた。
静寂が訪れる。私は、それに誘われるように眠りに落ちた。
こうして今日もまた──。
──開戦して、1864回目の夜を迎える。
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