犬を焼く

春雷

第1話

 エレベーターは緩慢な速度で上昇をつづけていた。おそらくエレベーターは緩慢な速度で上昇していたんだとぼくは思う。あるいはエレベーターは緩慢に下降していたのかもしれない。でもきっとエレベーターは上昇していたのだろう。パネルに表示されている階数が3、4、5と切り替わっていく。それを見て、ぼくはやはりエレベーターは上昇していたんだと思った。しかしこの世界は不確かなものだ。きわめて不確かなものだ。パネルでは上昇を示していたとしても、じっさいはエレベーターは下降しているのかもしれない。本当のところはわからない。きっと誰にもわからないのだろう。

 たぶん。

 チン、という音が鳴って、エレベーターのドアが開いた。

 ひとりの女性が入ってきた。たぶん女性だったんだと思う。その女性はぼくの隣に立った。そしてぼくの顔を眺めた。ぼくは自分の顔がモナリザになってしまったように感じた。彼女は歴史的絵画を鑑賞するときのように、熱心に、そして丁寧にぼくの顔を眺めた。それは悪くない経験だった。彼女の視線はどこまでもまっすぐで、全宇宙を貫いてこの世の果てまでも見通しているようだった。ぼくは彼女に好意を抱いた。ぼくは自分が透明になって宇宙と一体化しているところを想像した。それは素敵な想像だった。悪くない、とぼくは思った。

 彼女は一通りぼくの観察を終えると、エレベーターのボタンを押した。11という数字が書かれたボタンだ。彼女がボタンを押す仕草は、春の陽光をぼくに連想させた。どうして彼女がボタンを押したことで、ぼくは春の陽光を頭に思い浮かべたのだろう? ぼくは彼女の指と春の陽光の関連性についてしばらく考えてみた。でも何も見出すことはできなかった。それはコカ・コーラとバッハの小フーガくらい無関係なものに思えた。

 エレベーターのドアが閉まった。

 エレベーターは自分の役割をふと思い出したかのように動き始めた。ふたたび上昇しはじめたのだ。あるいは、ふたたび下降しはじめたのだ。

 しばらく沈黙が降りた。ぼくはその間ずっと自分の手の甲を眺めていた。彼女がそうしたように、ぼくも絵画を鑑賞するように、あるいは宇宙を見通すように自分の手の甲を眺めてみた。しかしそこにあるのはどこまでも平凡な手の甲だった。これほど平凡な手の甲は見たことがないとぼくは思った。そのくらい平均的な手の甲だったのだ。図鑑に載っていてもおかしくない。

 ぼくは首を振った。やれやれ、どうしてぼくの手の甲はこんなにもありきたりなものなんだろうか。

 そうしてぼくが自分の手の甲について考えていると、彼女がそっと口を開いた。いままで世界に音なんてなかったみたいに、彼女の声はどこまでも響いていくように思えた。でもそれはじっさいにはとても小さな声だった。

「わたし、犬を焼くのよ」 

 唐突に彼女はそう呟いた。

 ぼくははじめ彼女が冗談を言ったんだろうなと思った。だって、誰が犬を焼くなんて突拍子もないことを信じられる? ぼくは比較的常識的にものごとを考える人間だったから、彼女の言葉をまじめには受け取らなかった。でもそれはジョークにしても、あまりにも突飛すぎた。そして残酷で冷たすぎた。彼女の言葉は宙をしばらく漂ったあと、二酸化炭素として空中に霧散した。ぼくは何を言えばいいのかわからなかった。

「犬を生きたまま焼くのよ」と彼女はいった。

 ぼくは唾を飲み込んだ。犬を、生きたまま、焼く? それはいったいどうして。ぼくの頭はひどく混乱していた。喉が渇いていた。目が霞み、頭痛がした。はやくふだんの暮らしに戻りたかった。ふかふかのベッドでこんこんと眠りにつき、やすらかな夢の世界に落ちたかった。しかしここはどこまでいっても現実だった。現実的な現実だった。そのことはぼくをひどく混乱させた。ぼくはいったいいつ異世界へと足を踏み入れてしまったんだろう。ぼくは呼吸を整えるのに必死だった。酸素が極端に薄くなったような気がした。あるいは酸素はほんとうに薄くなっていたのかもしれない。それはわからない。

「わたしは素敵な首輪をつけた犬が好きなの」と彼女はいった。「だからそんな犬を見かけたときは、かならずその犬の絵を描くの。その犬のことを丁寧に思い出しながら、その犬の絵を描くの。そして数日後、その犬が暮らしている家を特定して、犬に火をつけるの。それはやらなければいけないことなの」

 彼女の声は軽やかで、うつくしかった。

「火をつけられた犬はとっても惨めなの。キャンキャン吠えて、ご主人様に助けを求めるの。でも誰も助けに来てくれない。だって、ご主人様も隣で燃えているんですもの」

 チン、という間抜けな音が響いた。

 11階に着いたのだ。エレベーターのドアが開き、彼女は出ていった。ぼくは彼女が出ていったあとも、しばらく彼女の言葉を頭の中で繰り返していた。

 わたし、犬を焼くのよ。生きたまま犬を焼くのよ。

 それはやらなければいけないことなの。

 エレベーターはふたたび動き出した。それが彼の使命であるかのように。

 エレベーターは緩慢に上昇をつづけていた。しかしぼくはエレベーターは下降しているんだと思った。エレベーターは下降している。誰が、何と言おうとも。

 そしてぼくは、世界中のエレベーターが下降しているところを想像した。世界中の犬が焼かれているところを想像した。

 彼らは、彼女の素敵でたおやかな手で火をつけられたとき、いったい何を思うんだろう。それはぼくには想像もつかないことだった。

 あるいは彼らは何も思わないのかもしれない、とぼくは思った。でもきっと、彼らは何かを思うのだ。好むと好まざるとに関わらず、火をつけられた生物は何かを思わずにはいられないのだ。ぼくは自分が火をつけられるところを想像した。でもうまく思い浮かべることができなかった。この先ずっとそれを想像することはむずかしいだろうと思った。きっとぼくは一生、ぼくが焼かれているところを想像することはできない。でもぼくは自分が焼かれているところを想像しなければならないのだ。それはやらなければいけないことなのだ。

 たぶん。

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犬を焼く 春雷 @syunrai3333

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