ブルームーン。ひと月に二度訪れる、稀有な満月。

 教えてくれたのは、ベルンだった。

 深紅の紫陽花が、そこかしこで妖しくも魅惑的な輝きを放つ。昼間とはまた違ったつややかな姿に、シャナの心は打ち震えた。

 青い紫陽花も、見れば感動をおぼえるのだろうか。赤い紫陽花と同じくらいに。あるいは、それ以上に。

 いつか……いつか見てみたい。そんな願いを心に灯しながら、シャナは古井戸に近づいた。

 工事を開始するにあたって周囲の紫陽花を刈り込んだため、以前よりも井戸の存在感が際立っている。せっかくの花たちを切ってしまうのは心惜しかったが、仕方のないことだ。円滑な作業と大工たちの安全には代えられない。

 夜風に揺れた紫陽花がこすれる。それまで不気味なほどに静まり返っていた庭が、わずかに息をした。

 すん、と。

 シャナは、空気を吸い込んだ。思わず顔をしかめる。変なにおいが鼻孔を刺激した。とろりとしたような、焦げたような、土臭いような……なんとも形容しがたいにおいだった。

 わずかに違和感をおぼえつつも、見事に咲き誇る紫陽花に、再度視線を奪われた。

 この光景をいつまでも見ていたい。どれだけ見ても飽きない。しかし、先に休んでいろとのグラッフルの言いつけは守らなければ。彼は、心配性だから。

 シャナが踵を返した。

 次の瞬間。

「——っ!!」

 内臓が、ずしんと重くなった。

 呼吸が荒くなり、ぞくりと総毛立つ。

 香りだ。香りが近づいてくる。今さっき嗅いだにおいとは違う、よく知った香り。甘く刺激的な、懐かしい香り。

 逃げたい。でも、足がすくんで動けない。

 嫌だ……!!


「シャナ」


 がざざざっ、と。

 紫陽花の茂みが音を立てた直後、振り向きざまに突然押し倒された。聞き覚えのある声が、どつりと脳髄に突き立てられる。

 背中が疼く。ずきずきと。口を塞がれているわけでもないのに、声を出すことができなかった。三年前の記憶が、つぶさに蘇る。

 なんで。

 どうして、ここに。

「ようやく会えた……ぼくのシャナ」

 満月が遮られ、眼前に迫った浅黒い顔。太い黒眉の下で、繊月のような目がぐにゃりと弧を描いた。——ゾルだ。

 ゾルは、粘ついた視線をシャナに絡めると、至極満足そうに微笑んだ。

「この三年、ずっと捜してたんだ。父さんが死んで会社を継ぐのにずいぶん時間を割かれたけど、取引先の商会の会長が、お前のことを教えてくれてね」

「……え?」

「ハーブティーは飲んでくれたかい?」

 そんな。

 まさか。


『珍しいハーブティーが手に入ったんだ。乾燥地帯でよく栽培されてるハーブなんだって。よかったら飲んでみて』


 全身がわななく。恐怖と悲しみに暮れたシャナの片目から、ひと筋の涙がこぼれた。

 信じられない。信じたくない。ベルンがゾルと会っていたなんて。自分の情報を、ゾルに流していたなんて。

 もちろん、ベルンには自分の生い立ちを話してあった。里親一家のことも。だって、グラッフルの親友だから。グラッフルが、彼のことを誰よりも信頼しているから。

 それほど彼は自分をうとんでいるのか。あるいは、自分がグラッフルにとっての枷だと非難しているのかもしれない。

「まったく母さんには困ったものだよ。まさかお前を奴隷市場に売ってしまうなんて。その前の日には、どこかの汚い富豪のおっさんにお前を嫁にやるとか突然言い出すし」

 グラッフル……グラッフルは大丈夫だろうか。まだ帰宅していない。急遽ベルンに呼び出されてしまった。会う予定などなかったのに。

 ひょっとして、ゾルを屋敷に忍び込ませるために……?

「だけど、安心して。母さんには償ってもらったよ。お前と同じ目に逢わせたら黒焦げになっちゃったけど、仕方ないよね。自分が悪いんだから。……これでもう邪魔者はいない。また一緒に暮らせるから。さあ、ぼくたちの家に帰ろう」

 焦点を失った目が、歪に笑う。ゾルは、極度の恍惚状態に陥っているようだった。

「……」

 シャナは、静かに目を閉じた。

 もう疲れた。疲れ果てた。悪夢にうなされるのも、過去にとらわれるのも。

 このまま意識を失くして、真っ暗な世界に落ちてゆけたらいいのに。記憶も痛みも感情も、自分の中にあるぐちゃぐちゃなものを全部捨てて。

 ああ、あの夜燃えてしまえばよかった。灰になっていれば、こんなことにはならなかったのに。

 自分のせいで、グラッフルに必要のない負担を強いてしまった。自分が、生きているせいで。


『お前の目が、眩しかったから』


「!」

 はっと、息を呑んだ。

 目を見開く。紫色の虹彩が光を集める。

 思い出した。あのとき、グラッフルの目に映ったのは、たしかに生きることを渇望した自分の目だ。

 彼の炯眼に心奪われた自分の目。彼に近づきたいと、触れたいと、手を伸ばした自分の——。

 自分の存在理由は自分じゃない。

 自分が信じるのは自分じゃない。

 ——彼だ。

「……っ、グラッフル!!」

 シャナは叫んだ。空に吼えた。

 嫌なにおいもかえりみず、空気を深く吸い込み、力のかぎり彼の名を呼んだ。

「無駄だよ。そいつはまだ帰ってこない。今ごろ会長とお酒でも飲んでるんじゃない?」

「グラッフルっ!!」

「うるさいなあ。無駄だって言ってるだろ。いつからそんな聞き分けのない子になったの?」

「グラッフル……っ!!」

「シャナ、いい加減に——」

「おい」


 ごっ。


 鈍くするどい音が聞こえるやいなや、シャナの視界からゾルが消えた。

 身体に衝撃が走る。びりびりと、空気が振動する。

「そいつに触んじゃねぇ」

 涙の帳に、満月が見えた。

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