Ⅱ
物心つく前に、里子に出された。
雪深い極寒の国から、砂埃舞う乾いた国へ。
濡れ羽色の髪に、アメジストをそのまま嵌め込んだかのような
貿易商を営む養父のおかげで、衣食住に困ることはなかった。必要な教育はほとんど受けられたし、最低限のマナーも教わった。
しかし、血の繋がらないシャナのことを、養母は使用人同然に扱った。
掃除に洗濯、食事の用意。及第点なら嫌味を言われ、気に入らなければ苛烈な叱責を受けた。叩かれることなど日常茶飯事。夜中に家を追い出されることも、しばしばあった。
養父母には息子がひとりいた。
シャナよりふたつ年上の兄は、シャナにきつく当たる養母を、いつも宥めて落ち着かせていた。一方、実の息子である兄のことを溺愛していた養母は、兄の言葉には素直に耳を傾けていた。
『シャナを許してあげて』
『シャナも反省してるから』
『シャナだって母さんのことを大切に思っているよ』
『シャナはぼくの淹れるハーブティーが大好きなんだよね』
だが、たった一度だけ。
養母が、兄の言葉を聞かなかったことがある。
それは、シャナが奴隷市場へ売られるきっかけとなった、ある夜の出来事だった。
❈ ❈ ❈
「……っ!!」
シャナは目を見開いて飛び起きた。
激しく脈打つ心臓。頭を刺すような耳鳴り。荒い呼吸に肩は上下し、ひゅうひゅうと鳴る喉元は汗でじっとりと濡れていた。
もう何度目だろうか。あの夜のことを夢に見るのは。
兄の声。兄の体温。兄の手つき。兄の目つき。
養母の罵声。養母の平手。
カンテラの炎。
焼けるような痛み。やけるようないたみ。
やけるようなやけるようなやけるような——
——熱い!!!!
「——っ」
震える手でシーツを握りしめ、喉奥で声を押し殺す。容赦なく襲いくる
もう三年が経つというのに、ちっとも消えない。忘れたいのに、消えてくれない。いつまでも、どこまでも、追いかけてくる。
「またあの夢か」
突として耳に入った低声に、びくっと身をすくめる。強張ったままの顔を持ち上げれば、そこにはグラッフルが立っていた。
彼が近づいてくる。まるで、悠然と歩く獅子のように。
不思議だ。深夜にもかかわらず、ガウンを纏った彼の姿がはっきりと見える。カーテンの隙間から差し込むひそやかな光が、彼の大きな躯体を浮かび上がらせていた。
ああ、そうか。
今夜は、満月だ。
「背中、痛むのか?」
グラッフルは、そう言ってベッド脇に腰を下ろすと、シャナの目を真っ直ぐに見つめた。厳めしくも気高い面差しに、皮膚がひりつく。
正直に話すことを躊躇い、唇を結んで耐えるシャナに、再度ゆっくり問いかける。
「痛むのか?」
灰青の鋭い目が、シャナの視線を無理やり
とはいえ、怒っているわけではない。ぶっきらぼうな物言いも、貫くような眼差しも、すべて彼の
彼に怒られたことなど一度もない。彼は、理不尽に怒ったりしない。
心配してくれているのだ。こんなどうしようもない自分のことを。
「抱きしめてくれたら、治まるかも」
「……微妙に答えになってねぇ」
ふう、とため息をつきながらも、グラッフルは彼女の望むとおりにしてやった。華奢なその体を自身のほうへと引き寄せ、包み込むように抱きしめる。
絨毯を照らす黄金色の光。言葉のない、ひとしずくの静寂。
やがてシャナの呼吸は落ち着き、脈拍も安定してきた。強張っていた体がほぐれていくのがわかる。
その様子に安堵したグラッフルは、シャナの艶やかな黒髪をかき上げ、優しく口づけた。
一度目は額に。二度目は頬に。そして三度目は——唇に。
少々恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに微笑むシャナが、愛おしくてたまらない。
「お仕事、終わったの?」
「ああ」
「遅くまでご苦労さま」
「やかましく催促してくる阿呆がいるからな」
露骨にげんなりするグラッフルの頭、その
彼の言う〝阿呆〟は、シャナもよく知っている。彼の古くからの友人で、唯一無二のビジネスパートナー。彼の、もっとも信頼する人物のひとりである。
「仲がいいのね」
「ぁあ?」
「少し妬けちゃう」
悪戯っぽく口角を上げてこう言えば、黙れと言わんばかりに唇で蓋をされてしまった。彼のその反応がなんだか可笑しくて、あまりにも可愛くて、シャナは声を出して笑った。
砂にまみれていたあの頃は、こんなふうに笑える日が来るなんて、夢にも思わなかった。
「そういえば、ここに来た日の夜も、こんな満月だった」
「だったか?」
「ええ。あなたの髪色によく似た、大きな満月」
「覚えてねぇな」
「あら。あなたが教えてくれたのよ? 『今の時季は晴れること自体珍しい。ましてや満月が見られるなんて』って」
「……よく覚えてるな」
「覚えてるわ。あなたの言ったこと全部。……わたしには、あなたしかいないもの」
あの夜。
兄に
火を見るのが怖くなった。そのせいで、料理ができなくなった。ここへ来て何度か試してみたけれど、全身がわなないて、息が詰まって、涙が溢れて……無理だった。
痛みにさいなまれる日々が長く続いた。悪夢には、今なお魘され続けている。
でも。それでも。
こうして生きていられるのは、グラッフルがいてくれるから。彼が、その大きな体で、たくさん愛してくれるから。
「わたしを買ったのが、あなたでよかった。あなたじゃなかったら、わたし、きっと生きてない」
「あんなとこに縁のあるヤツなんざ、クソみてぇなのばっかだからな」
「それ、自分のこと言ってるの?」
「まあ、否定はできねぇな」
「でも、あなたがあそこへ行ったのは、あの一度きりでしょう?」
「ああ。あんな胸クソ悪ぃとこ、どんだけ金を積まれようが二度とごめんだ」
グラッフルは、忌々しそうに眉をしかめた。独特の臭いと光景は、今も脳裏に焼きついている。
偶然だった。本当に、ただの。
借金を踏み倒して跳んだ
見渡すかぎりの檻。檻檻檻——。すすり泣く声や叫び声に耳を閉ざして探し回った。隠れていたところを引きずり出して捕まえ、懇々と
すぐに帰るつもりだった。はなから長居する気などなかったから。
それなのに、気づけば取り立てた金をすべてはたき、身も心もぼろぼろの少女を買っていた。
「……どうして、わたしを選んだの? 背中の火傷で、すぐに死んでたかもしれないのに」
目を伏せ、シャナは口の中でぽつりと呟いた。呟いて、はっとした。
舌先がもつれる。全身から血の気が引いていく。「違う。こんなことが言いたいわけじゃない」と、おろおろしながらグラッフルの顔を見た。
彼は思案に沈んでいたようだが、ややあって、低く落ち着いた声音でこう答えた。
「目」
「……え?」
「お前の目が、眩しかったから」
驚いてしばたかせるシャナの紫目に、当時檻越しに見た眼差しを重ねる。
薄汚れた場所だった。湿っぽくて、黴臭い。
悲哀、諦念、絶望……ありとあらゆる心の闇を示現させたかのような場所。カタギの人間なら一秒と耐えられないであろうそこで、シャナの目は色を失っていなかった。——耀いていた。
死にたくないと、生きたいと、必死に叫ぶかのように——。
「わたし、そんなだった?」
「あのときのお前が何を考えてたのかは知らねぇが、少なくとも俺にはそう見えた。だから買った。それだけだ」
それだけ。それだけなのだ。
同情ではない。庇護欲、でもない。心を殴られたかのような衝撃だった。ただただ鮮烈で、ただただ狂おしくて、興味をそそられた。
とはいえ、シャナへ向ける感情が、これほどまでに膨れ上がるとは思ってもみなかったが。
「……ありがとう。わたしを見つけてくれて」
グラッフルのぬくもりを全身で感じながら、シャナは静かに言葉を紡いだ。甘い香りがふたりのあいだを満たし、心地よい一縷の緊張感が走る。
月のささやきが響く夜。ふたりの影が、ひとつに重なる。
たった今、世界は、ふたりだけのものになった。
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