物心つく前に、里子に出された。

 雪深い極寒の国から、砂埃舞う乾いた国へ。

 濡れ羽色の髪に、アメジストをそのまま嵌め込んだかのような紫目しめ。真っ白な肌のシャナは、褐色の肌を持つ人々のあいだでは常に異端とされた。

 貿易商を営む養父のおかげで、衣食住に困ることはなかった。必要な教育はほとんど受けられたし、最低限のマナーも教わった。

 しかし、血の繋がらないシャナのことを、養母は使用人同然に扱った。

 掃除に洗濯、食事の用意。及第点なら嫌味を言われ、気に入らなければ苛烈な叱責を受けた。叩かれることなど日常茶飯事。夜中に家を追い出されることも、しばしばあった。

 養父母には息子がひとりいた。

 シャナよりふたつ年上の兄は、シャナにきつく当たる養母を、いつも宥めて落ち着かせていた。一方、実の息子である兄のことを溺愛していた養母は、兄の言葉には素直に耳を傾けていた。

『シャナを許してあげて』

『シャナも反省してるから』

『シャナだって母さんのことを大切に思っているよ』

『シャナはぼくの淹れるハーブティーが大好きなんだよね』

 だが、たった一度だけ。

 養母が、兄の言葉を聞かなかったことがある。

 それは、シャナが奴隷市場へ売られるきっかけとなった、ある夜の出来事だった。





 ❈ ❈ ❈





「……っ!!」

 シャナは目を見開いて飛び起きた。

 激しく脈打つ心臓。頭を刺すような耳鳴り。荒い呼吸に肩は上下し、ひゅうひゅうと鳴る喉元は汗でじっとりと濡れていた。

 もう何度目だろうか。あの夜のことを夢に見るのは。

 兄の声。兄の体温。兄の手つき。兄の目つき。

 養母の罵声。養母の平手。

 カンテラの炎。

 焼けるような痛み。やけるようないたみ。

 やけるようなやけるようなやけるような——


 ——熱い!!!!


「——っ」

 震える手でシーツを握りしめ、喉奥で声を押し殺す。容赦なく襲いくるを、シャナは必死でこらえた。

 もう三年が経つというのに、ちっとも消えない。忘れたいのに、消えてくれない。いつまでも、どこまでも、追いかけてくる。

「またあの夢か」

 突として耳に入った低声に、びくっと身をすくめる。強張ったままの顔を持ち上げれば、そこにはグラッフルが立っていた。

 彼が近づいてくる。まるで、悠然と歩く獅子のように。

 不思議だ。深夜にもかかわらず、ガウンを纏った彼の姿がはっきりと見える。カーテンの隙間から差し込むひそやかな光が、彼の大きな躯体を浮かび上がらせていた。

 ああ、そうか。

 今夜は、満月だ。

「背中、痛むのか?」

 グラッフルは、そう言ってベッド脇に腰を下ろすと、シャナの目を真っ直ぐに見つめた。厳めしくも気高い面差しに、皮膚がひりつく。

 正直に話すことを躊躇い、唇を結んで耐えるシャナに、再度ゆっくり問いかける。

「痛むのか?」

 灰青の鋭い目が、シャナの視線を無理やりからめとる。二度目の問いかけは、少しだけ語気が強かった。

 とはいえ、怒っているわけではない。ぶっきらぼうな物言いも、貫くような眼差しも、すべて彼の標準仕様デフォルトだ。

 彼に怒られたことなど一度もない。彼は、理不尽に怒ったりしない。

 心配してくれているのだ。こんなどうしようもない自分のことを。

「抱きしめてくれたら、治まるかも」

「……微妙に答えになってねぇ」

 ふう、とため息をつきながらも、グラッフルは彼女の望むとおりにしてやった。華奢なその体を自身のほうへと引き寄せ、包み込むように抱きしめる。

 絨毯を照らす黄金色の光。言葉のない、ひとしずくの静寂。

 やがてシャナの呼吸は落ち着き、脈拍も安定してきた。強張っていた体がほぐれていくのがわかる。

 その様子に安堵したグラッフルは、シャナの艶やかな黒髪をかき上げ、優しく口づけた。

 一度目は額に。二度目は頬に。そして三度目は——唇に。

 少々恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに微笑むシャナが、愛おしくてたまらない。

「お仕事、終わったの?」

「ああ」

「遅くまでご苦労さま」

「やかましく催促してくる阿呆がいるからな」

 露骨にげんなりするグラッフルの頭、そのたてがみのような髪を、シャナはねぎらうように撫でた。ふふっと、小さく笑みをこぼす。

 彼の言う〝阿呆〟は、シャナもよく知っている。彼の古くからの友人で、唯一無二のビジネスパートナー。彼の、もっとも信頼する人物のひとりである。

「仲がいいのね」

「ぁあ?」

「少し妬けちゃう」

 悪戯っぽく口角を上げてこう言えば、黙れと言わんばかりに唇で蓋をされてしまった。彼のその反応がなんだか可笑しくて、あまりにも可愛くて、シャナは声を出して笑った。

 砂にまみれていたあの頃は、こんなふうに笑える日が来るなんて、夢にも思わなかった。

「そういえば、ここに来た日の夜も、こんな満月だった」

「だったか?」

「ええ。あなたの髪色によく似た、大きな満月」

「覚えてねぇな」

「あら。あなたが教えてくれたのよ? 『今の時季は晴れること自体珍しい。ましてや満月が見られるなんて』って」

「……よく覚えてるな」

「覚えてるわ。あなたの言ったこと全部。……わたしには、あなたしかいないもの」

 あの夜。

 兄に、養母に火傷を負わされた、あの夜。シャナは、すべてを失った。

 火を見るのが怖くなった。そのせいで、料理ができなくなった。ここへ来て何度か試してみたけれど、全身がわなないて、息が詰まって、涙が溢れて……無理だった。

 痛みにさいなまれる日々が長く続いた。悪夢には、今なお魘され続けている。

 でも。それでも。

 こうして生きていられるのは、グラッフルがいてくれるから。彼が、その大きな体で、たくさん愛してくれるから。

「わたしを買ったのが、あなたでよかった。あなたじゃなかったら、わたし、きっと生きてない」

「あんなとこに縁のあるヤツなんざ、クソみてぇなのばっかだからな」

「それ、自分のこと言ってるの?」

「まあ、否定はできねぇな」

「でも、あなたがあそこへ行ったのは、あの一度きりでしょう?」

「ああ。あんな胸クソ悪ぃとこ、どんだけ金を積まれようが二度とごめんだ」

 グラッフルは、忌々しそうに眉をしかめた。独特の臭いと光景は、今も脳裏に焼きついている。

 偶然だった。本当に、ただの。

 借金を踏み倒して跳んだ債務者バカが足繁く通っているとの情報を受け、グラッフルは奴隷市場へ向かった。金主みずから取り立てに出向くことはそうないが、高額かつ難儀な相手だったために重い腰を上げるはめになった。

 見渡すかぎりの檻。檻檻檻——。すすり泣く声や叫び声に耳を閉ざして探し回った。隠れていたところを引きずり出して捕まえ、懇々とすれば、その場できちんと返済してくれた。

 すぐに帰るつもりだった。はなから長居する気などなかったから。

 それなのに、気づけば取り立てた金をすべてはたき、身も心もぼろぼろの少女を買っていた。

「……どうして、わたしを選んだの? 背中の火傷で、すぐに死んでたかもしれないのに」

 目を伏せ、シャナは口の中でぽつりと呟いた。呟いて、はっとした。

 舌先がもつれる。全身から血の気が引いていく。「違う。こんなことが言いたいわけじゃない」と、おろおろしながらグラッフルの顔を見た。

 彼は思案に沈んでいたようだが、ややあって、低く落ち着いた声音でこう答えた。

「目」

「……え?」

「お前の目が、眩しかったから」

 驚いてしばたかせるシャナの紫目に、当時檻越しに見た眼差しを重ねる。

 薄汚れた場所だった。湿っぽくて、黴臭い。

 悲哀、諦念、絶望……ありとあらゆる心の闇を示現させたかのような場所。カタギの人間なら一秒と耐えられないであろうそこで、シャナの目は色を失っていなかった。——耀いていた。

 死にたくないと、生きたいと、必死に叫ぶかのように——。

「わたし、そんなだった?」

「あのときのお前が何を考えてたのかは知らねぇが、少なくとも俺にはそう見えた。だから買った。それだけだ」

 それだけ。それだけなのだ。

 同情ではない。庇護欲、でもない。心を殴られたかのような衝撃だった。ただただ鮮烈で、ただただ狂おしくて、興味をそそられた。

 とはいえ、シャナへ向ける感情が、これほどまでに膨れ上がるとは思ってもみなかったが。

「……ありがとう。わたしを見つけてくれて」

 グラッフルのぬくもりを全身で感じながら、シャナは静かに言葉を紡いだ。甘い香りがふたりのあいだを満たし、心地よい一縷の緊張感が走る。

 月のささやきが響く夜。ふたりの影が、ひとつに重なる。

 たった今、世界は、ふたりだけのものになった。

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