恋の話を聞かせて、と雨姫は泣いた

橙山 カカオ

■恋の話を聞かせて

 夜星石のランプの青白い光が、石造りの部屋を冷たく照らしていた。


 さらさらと水が流れる音がする。壁際の床を一周するように彫られた溝に清水が流れていた。部屋は広く、高い位置に切られた窓からは夜の清冽な空気が流れ込んでくる。

 中央には机と絨毯、奥には広い寝台。白いシーツに行儀良く人影が座っている。半透明の白いヴェールを被っているから顔は見えない。髪は長く艶やかな黒、体格は華奢な少女のそれだ。


「貴女が夜伽?」


 美しい声だった。

 せせらぎのような、ひそやかだけれど人を惹きつける少女の声。

 数秒聴き惚れてから、神官様に散々教え込まれた儀礼を唐突に思い出す。


「は……はい。シャイラと申します。恵みもたらす雨姫様に侍る栄誉に浴し……」


 石造りの床に跪いて片膝をつき、首を垂れる。

 暗記したと思っていた拝礼の文言が全然出てこない。喉は詰まってしまったように息すら難しく感じる。

 雨姫様の前にいるのだ。そう思うだけで身が強張る。


「挨拶はいらない。聞き飽きているから」


 硬直から救ってくれたのは、雨姫様の言葉だった。笑みのない、冷たい響き。

 呆れられてしまっただろうかと思いながら、恐る恐る顔を上げる。


「いつまでそうしているの? こちらへ来なさい」

「はい、失礼……いたします」


 ゆっくりと立ち上がり、素足に石の硬さを感じながら寝台へと歩み寄る。寝台の下に改めて跪こうとしたところを、雨姫様が指で制した。


「そんなところに座られても話しにくいわ」

「し、しかし」


 神官様からは寝台には乗ってはならないと教わった。実際、寝台のそばには椅子が用意されていて……見たこともないほど分厚く柔らかそうな生地が乗っている……そこに座って話すように、と神官様から厳しく言われていたのだが。

 私が戸惑っていると、雨姫様はため息をひとつ。


「神官と私、どちらが偉い?」

「それは……雨姫様です」

「ならどうすればいいかわかるわね」

「…………はい。失礼いたします」


 寝台の傍へと寄り、服の裾を手のひらで払う。砂払いは他人の家に入る時の挨拶だが、今この時は砂どころか私に由来する全ての穢れを払わんと気合を入れて叩いた。


「ふわ」


 靴を脱いで寝台へと上がる。真っ白いシーツは清潔で、寝台はとても柔らかい。乗せた膝が沈むような感覚を覚えながら、雨姫様からできる限り距離をとって座る。ほのかに鼻をくすぐる、柑橘に似た爽やかな苦みのある香りは香水だろうか。

 手が届く範囲に入るのが畏れ多い。重圧ではなく、この清らかな存在を汚したくない、という想いを一瞬遅れて自覚した。

 雨姫様はヴェールで隠した顔をこちらに向けることなく、部屋の出口の方を向いて座ったまま問うてくる。


「神官から聞いているわ。物語が得意だそうね」


 ……あの神官長がどのように私を紹介したのか、想像するだけで怖い。

 ともあれ、雨姫様の前で『やっぱりできません』というのもまた不敬だ。認めてもらえるかどうかはともかく、精一杯務めなければ。


「はい。古道具商人の下で働き、古今東西の道具の来歴から学んでおりました」

「では……そうね」


 雨姫様が白いヴェールに手をかけて、ゆっくりと脱ぐ。こちらへ向き直る顔立ちは、白く、儚く、美しい。

 雷雲のような黒灰色の瞳が私を見つめる。捕らえる。目元は笑っていないが、口元にはうっすらと冷たい笑み。


「恋の話を聞かせて。とびきりの悲恋がいいわ。私には決してできないことだから」


 ――私が雨姫様と出会うことが決まったのは、一週間前の良く晴れた日だった。

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