第23話「すやすや・・・」
ひんやりと頬を撫でるような冷たい空気に、私はゆっくりと目を覚ます。
予定よりも早い時間らしく、目覚まし時計はまだ鳴っていない。
・・・ならば、もう少しこのままごろごろしていよう。
相変わらずの寝相のせいで乱れた布団を引き寄せ、身に纏うかのように巻き付ける。
薄い肌着越しに感じる布団の柔らかさと、エアコンがもたらす冷気が絶妙なバランスで私を癒していく・・・
エアコンとおふとんと私・・・最高の三角関係だと思う。
ニャーニャーニャーニャー・・・
ここで目覚ましがけたたましく鳴り出した・・・どうやら至福の時間はここで終わりを告げたようだ。
観念して身体を起こすと、ベッドの上段から妹の起き上がる気配を感じた。
「おはよ・・・左子」
「おはよう・・・姉さん」
・・・アルバイトを始めてもう一週間が経過していた。
厳しい店長の下で、なんとか一通りの仕事は覚えた・・・と思う。
いつものように千場須さんの車から店の駐車場に降り立つと、もわっとした温い空気が身体に纏わりついてくる。
空からは朝とは思えない強い日差しが降り注いでいた・・・もうすっかり夏真っ盛りだ。
暑い・・・早くも肌にじわりと汗が滲んできている。
「うわ・・・早く中に入っちゃいましょう」
「そうね・・・確か鍵がポストの中にあるって・・・」
「あ、私取ってきます・・・先に行っててください」
店の入り口付近にあるアメリカ風?・・・よくわからないけれど日本のそれとは異なる形のポスト。
見た目的にはただの飾りのように見えるそのポストの中に、店の裏口の鍵がこっそりと隠されているのだ。
目当ての鍵を手にした私は、二人の待つ裏口へと駆ける・・・早く店内に入らねば。
店内も日差しが入ってこないだけまだマシ・・・といった程度の気温で、結構暑い。
もちろん真っ先にエアコンのスイッチを入れて回るけど、店内全てが冷えるまではまだ時間が掛かるだろう。
それでも着替えを終えてタイムカードを押す頃には、いくらかは涼しさを感じられるようになっていた。
「右子、レジの起動と現金の確認が終わったわ」
「ええと、フロアの清掃は私がやってるから・・・あとは・・・」
「コーヒーマシンの用意ね」
さすがは綾乃様、私がフロアのモップがけをしている間に要領よく各作業をこなしていく。
左子の方もキッチンで調理機器の電源を入れ終わって、仕込み作業に入っているはずだ。
今日は店長がお昼まで出勤してこない、私達だけでお店の立ち上げ作業を完了しなくてはならないのだ。
「・・・これで一通り終わったわね」
「ええと時間は・・・間に合ったぁ」
時刻は7:55
朝の1時間は体感だとあっという間、あと5分で開店時間だ。
「師匠、おはようございます」
「おはよう、ちゃんと準備できてるようだね」
キッチンの方では三船さんが入ってきたらしい。
ここから先はキッチンも二人体制、こっちと違ってベテランの人がいるから安心だ。
綾乃様に看板を点灯して貰って、私は入口の鍵を開ける・・・これでお店は開店、本日の営業開始だ。
私達は入り口付近に並んで立つ、このまま最初のお客さんが来るのを待っていればいいんだけど・・・
「ふんふんふん♪」
隣から鼻歌が聞こえてきた、なんか綾乃様が上機嫌だ。
無事に開店出来たのがそんなに嬉しかったんだろうか。
「右子、働くって楽しいわね」
「え」
鼻歌が終わったと思えば、突然耳を疑うような事を言い出した。
世の中の労働者達が聞いたら一体どんな反応をするやら。
「私、仕事ってもっと過酷なものだと思っていたわ」
いやいや貴女、初日に燃え尽きてましたよね?
確かにこの一週間で仕事は覚えたし、接客にも慣れてきたのか、お客さん相手に固まる事もなくなって来たけど・・・
綾乃様・・・ちょっとお仕事を舐め過ぎちゃいませんかね、大丈夫かな・・・
・・・カランカラン
「「いらっしゃいませ、どっきりビッキーへようこそ!」」
私と綾乃様の声が綺麗にハモる・・・元気いっぱいに笑顔を浮かべた綾乃様はまるで太陽のよう。
たしかに今の綾乃様は本当に楽しそうな顔をしていて・・・こっちまでこの仕事が楽しいんじゃないかって気がしてくる。
うん・・・まぁ、楽しいっちゃ楽しいかな。
「おはよう、今日も暑いねぇ、お嬢ちゃんも熱中症で倒れないようにね」
「ありがとうございます、お客様も気を付けてください」
綾乃様はマニュアルにない世間話の受け答えまで出来るようになっていた。
そうなってくると綾乃様目当てに来るお客さんも増えてくる。
「いらっしゃいませ、こちらがモーニングメニューになります」
「うーん・・・」
「ではお決まりになりましたらお呼びください、失礼します」
いつもAセットを頼むお客さん、今日は妙に迷ってると思ったら・・・
「あ、すいませーん、注文お願いします」
「はい、ただいま伺います」
私が去った後すぐに綾乃様に注文を頼んでる・・・やっぱりAセットだ。
これは・・・綾乃様が通りかかるのを狙って注文したな。
「綾乃様、入り口は私が見てるので、しばらく客席の方を回っててもらえますか?」
「??・・・ええ・・・構わないけれど・・・」
「それでコーヒーを飲み終わってる人がいたら、おかわりの注文とか聞いてみてください」
「わかったわ」
ふっふっふ・・・そっちがその気ならこっちもその気だ。
さっそく綾乃様が通りかかった矢先に追加注文が来た・・・予想以上の反応だ。
その後も綾乃様におかわりを聞かれたお客さんが次々に注文していく・・・おかげで朝からなかなかの売り上げだ。
綾乃様の接客なんだから、おかわりくらい当然だよね。
「おはよう・・・今日は朝から売れてるわね」
「あ、おはようございます」
十河さんが来た・・・という事はもうすぐ11時か、忙しいと時間が経つのが早いね。
なんか店のパソコンで売り上げ情報をチェックしてる・・・そのうちそういうのも教わるのかな。
「お昼はもっと忙しくなるから、今のうちに休憩に入っちゃって」
お店で働く時間に応じて休憩時間というのがある。
これまでは時間が短かったので休憩時間なしだったんだけど、今日は7時間労働なのでそれなりに休憩時間が貰える。
お昼がどれくらい忙しいのかわからないけれど、お店が忙しい時に休憩に入るのは難しいようだ。
「はい、じゃあ綾乃さんからどうぞ」
「え、右子からでいいわよ」
「いやいや、綾乃さんの方が動き回ってますし・・・」
「でも・・・」
「はいはい、二人一緒に休憩していいからはやく行って、これくらいは私一人で持たすから」
譲り合う私達にしびれを切らしたのか、十河さんは私達を事務室へと押し込んだ。
・・・この部屋が休憩室を兼ねているらしい。
キッチンの方から左子も休憩に来た、あっちもお昼前に休憩をさせる方針らしい。
「あ、左子、キッチンどうだった?」
「・・・ばっちり」
「ふふ、私達の方もばっちりよ」
キッチンはうまくやれてるらしい、こころなしか左子も得意げだ。
まぁこっちもいつもより売れてるみたいだし、うまくやれてるんじゃないかな。
左子はキッチンからパン?を持って来ていた。
ハンバーガーなんだけど・・・まるでパンの大きさを無視したかのようにハンバーグが半分以上はみ出ている。
商品名は『どっきりバーガー』・・・モーニングセットのメニューの一つだ。
単品だと500円、モーニングセットはコーヒーが付いて600円だ。
私達は割引価格で400円で食べることが出来る、食べた分は給料から引かれるシステムだ。
「はい、二人の分・・・食べないと持たない」
「ありがとう・・・でもこれ、どうやって食べれば良いのかしら・・・」
「ナイフもフォークも使いませんよ?手で持ってそのまま噛り付くんです」
「え・・・そうなの?」
それが普通のハンバーガーの食べ方だけど、さすがにコレが相手となると綾乃様が疑問を感じるのも無理はない。
とりあえずはみ出てる肉の部分を食べて、普通のハンバーガーにしよう・・・あちち、焼きたてだ。
「ごめん・・・焼き過ぎたかも・・・」
「焼き過ぎたって・・・これ左子が焼いたの?」
「うん・・・お客さんには出せないけど・・・休憩で食べる分なら良いって」
「美味しいわ、左子ももう一人前ね」
「えへへ・・・」
綾乃様に褒められて左子は嬉しそうにはにかんだ・・・良かったね左子。
私の心配をよそに、二人とも立派に仕事をこなしてる・・・私もがんばらないとな・・・
左子の焼いたハンバーグは、言われてみればちょっと焦げ目が濃い感じがする。
でも普通のお客さんならこれくらいは気にしないんじゃないかな・・・美味しいし。
「ふぅ、美味しかった・・・ごちそうさま」
私達が食べ終わって休憩時間もあと5分・・・もうすぐ終わりだ。
これからお昼のピークが来るけど、左子のハンバーグのおかげでまだがんばれそう。
綾乃様と軽く身支度を整え直した所で、裏口から誰か入ってきた。
「おはよーございまっす!・・・うわ、女の子がいっぱいいる」
「お、おはようございます・・・」
見覚えのない男性だ・・・私達と同じくらいの年齢に見えるけど、高校生かな。
なんかチャラい感じするけど・・・先輩アルバイトなんだろうか。
「こちらでアルバイトする事になりました三本木右子です、こっちが妹の左子でこっちは綾乃さん、よろしくお願いします」
相手が何か言い出す前に一気にまくしたてた。
初対面で緊張してる綾乃様に何か言わせるまでもない、このまま必要最低限で挨拶を済ませてしまおう。
「俺は七里 祐介(しちり ゆうすけ)、梅高の一年だけど、君達は梅高じゃないよね?どこ高?」
梅高・・・梅見台高校の生徒か・・・定期券が使えるからという理由で学校の近くでアルバイトしてるんだろう。
どこ高?って聞かれたけど答えてやる義理はない、チャラ男を綾乃様に近付ける気はないよ。
「姫ヶ藤学園の一年です」
「ええっ?!超お嬢様じゃん!ひょっとしてその金髪も地毛なの?ハーフなの?」
「いえ、これは祖母が・・・」
ちょ、綾乃様?!こんなやつ相手にしなくても・・・さっそく興味持たれてるし。
七里だか七味だか知らないけど気安いよ、気安過ぎるよ!
「七里、また時間ギリギリに来たのか」
「あ、店長・・・なんか顔色良いっすね」
「?変な事言ってないでさっさと着替えろ、遅刻で1時間分タダ働きしてくれても良いが・・・」
「うぇ・・・わかりましたよ、秒で着替えますって」
助かった・・・本当にいいタイミングで来てくれたよ店長。
たしかに顔色がちょっと良くなった気がする・・・こころなしか表情も穏やかになってるかも。
今助けてもらったから良く見えちゃってるのかな・・・私ってば結構ちょろい?
「・・・9時台の売り上げが多かったようですが、何かありましたか?」
パソコンを見ながら店長が聞いてきた。
やっぱり穏やかに見えたのは気のせいだ、鋭い目つきで問い詰めるような感じで聞いてくる。
うぅ・・・何もしてないのに何か悪い事をしたような気分になってくるよ・・・
「右子に言われて・・・客席を回って、お客様から追加の注文を・・・」
「ふむ・・・それでこの売り上げを・・・」
「はい・・・何か問題がありましたか?」
「いえ、二人だけでよくやってくれました、明日以降も同じようにお願いします」
これって・・・褒められた、のかな?
思わず綾乃様と二人で顔を見合わせてしまった。
明日以降もって所がちょっと怖いけど・・・私達の仕事を認めて貰えた気がする。
「店長が褒めるなんて珍しいっすね」
「ん・・・そうか?」
「なんか俺との対応が違い過ぎません?」
「お前は褒められるような事してないからな、さっさとキッチンに入れ」
「はーい」
おや七味男はキッチン担当なのか・・・って、私達も休憩時間終了だ。
一人で頑張ってくれてる十河さんを助けに行かなきゃ。
「ええと左子ちゃんだっけ?俺もキッチンなんだ、ヨロシクぅ!」
「・・・よろしく」
「何かわからないことがあったら、この俺に何でも聞いてくれよ」
「ん・・・」
私達と別れてキッチンへ向かう左子の元に、先程の七味男が張り付くのが見えた。
軽いノリで左子の背中へ腕を回してきてる・・・こいつ、人の妹に・・・もう、さっきから気安いよ!
「・・・あの男、七里とか言いましたわね・・・」
「綾乃様?何か言いまし・・・!!」
うぇぇ・・・綾乃様が悪役顔になってる!
気持ちはすっごくわかるけど、バイト先でトラブルはまずい。
「ほら綾乃様、お客様が待ってます、笑顔えがお・・・」
「あら、ごめんなさい・・・いらっしゃいませ、どっきりビッキーへようこそ!」
綾乃様が仕事を思い出してくれて助かった・・・命拾いしたな、七味男。
ぶっちゃけ左子に関してはあまり心配していない、自分の身は自分で守れる子だ。
なんたって、あのキング相手にあれだけの事をした前例もあるしね。
「注文まだー?」
「はい、ただ今伺いますー!」
予想していたとはいえ、やっぱりお昼は忙しい。
ちょっと仕事を覚えたくらいじゃお話にならないレベルだ。
私も綾乃様も「息をつく間もない」という言葉を身をもって味わう事になった。
「ランチセットのBをライス大盛りで・・・それとは別にチーズフォンデュ風ハンバーグ200gをお願いします」
「ランチBのライス大盛り、チーズフォンデュの200gですね、お飲み物はいかがいたしますか?」
「コーラと・・・デザートに練乳ソフトを付けてください」
こういうお店なだけあって、食べに来るお客さんも左子に負けず劣らずよく食べる人が多い。
一人当たりの注文の量も朝とは段違いだ。
オーダーミスの無いように慎重に注文を受けていると・・・
「注文お願いします」
「はい、少々お待ちください」
「こっちも注文」
「はーい!」
「こっちもー、まだすかー」
ベテランの十河さんを含めた3人でも追いつかない・・・おそらくキッチンの方も大変な事になっているだろう。
こちらの手が空く前に次のお客さんが来てしまう、応対するのにも順番を間違えてはいけない。
段々頭の中がこんがらがってくる・・・処理が追い付かない。
「二人とも、時間だからあがって」
「「は、はい・・・」」
・・・14時に入ってきた交代要員が救世主か何かに見えました。
すっかりへとへとになって事務室に向かうと、キッチンの方から何か聞こえてくる。
「左子さん、お疲れ様っしたー!」
「ん・・・おつかれさま」
あれは・・・七味男?
なんかさっきと随分ノリが違うような・・・
「あ、姉さん・・・綾乃様・・・おつかれさま」
「左子、大丈夫だった?あの男に何かされてない?」
「あれは・・・たいしたことなかった・・・」
ジト目でキッチンの方を見ながら左子が語る。
チャラい奴だとは思ってたけど・・・初日の左子より仕事出来ないらしい。
三船さんの言う事にもどこ吹く風という態度だったので、左子が「一発かましてやった」そうだ。
まぁなんとなく想像はつくけど・・・あんまりやり過ぎないでね、お姉ちゃん別の意味で心配しちゃうよ。
ちなみに店長の姿を見ないと思ったら、店長はキッチンに入ってたらしい。
新人以下の七味男じゃ戦力が足りないもんね。
それでもやっぱり大変だったようで・・・
「姉さん・・・疲れた」
「私も疲れてるからね?寄り掛かってこない・・・って、今寝たら夜寝れなくなるよ?!」
「ちょっとだけ・・・すぅ・・・」
「もう・・・」
帰りの車の中。
左子は私に寄り掛かったまま、すやすやと寝息を立て始めた。
本当に今夜寝れなくならないと良いけど・・・って反対側からも重さが・・・
「あ、綾乃様?!」
「私も疲れたわ・・・すやすや・・・」
こっちは寝たふりだ、左子を見て真似したくなったのだろう、綾乃様はたまにこういう事をする。
でも・・・
普通は寝てる時にすやすや言わないからね?「すやすやと・・・」っていうのは比喩だからね?
「すやすや・・・」
でもあんまり幸せそうな寝顔をされるから、私も動けなくなった。
「もう・・・屋敷に着いたら二人とも叩き起こしますからね・・・」
「・・・すぅ」
「すやすや・・・」
あーあ・・・今日は疲れたな・・・
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