第73話 最後の依頼(一)

 七月初めの日の出は、四時台だ。

 その一時間半ほど前から、空は薄く淡く光を帯び始める。


「丑の刻参りにしちゃあ遅れちゃったよ。待たせちゃったかな?当主様」

 鈴を振るような声が聞こえた時、高天原識は自室で酒を飲んでいた。


「どこから来た?」

「裏手のお社の近くに、出入口があるんだよねえ」


 当主は、ピクリと眉を寄せた。不快だと、その顔は言っている。

 高天原家の頂点が、高天原家の謎や秘密をひとつでも取りこぼしているのは、有り得ないし有ってはならないことなのだ。


「歴代の正妻から正妻へ相続されてゆく財産があるのは、当主様も知ってるかな?でも、その中にこの屋敷の中の隠し通路の地図が入っているのは、当主様はお嫁さんじゃないんだから知らないよね」

「……淑子か」


 当主は、鼻で笑った。

「ならば、受け継いだお前は、当主の正妻になるべきだな」

「う~ん、直くんは、当主になる気は無いって言ってるんだよね」


 天女のように美しい少女は、薄く笑った。


「僕は、一途な女なんだよ。正妻の『生』の字が余計だよ。僕は、直くんの《妻》になるの。最短でも三年かかっちゃうのが、焦れったいけどね」


 苛つく。紅は、八坂蘭の身代わりだ。分身だ。そのものだ。

 八坂蘭が、他の男を好いていると言ってのけるのは、不愉快極まりない。


「どうして、当主様はこんな時間に起きてるのかな?」

「目が覚めたのだよ。――これのお陰でな」


 当主は、無造作に畳を突き刺した。

 鈍色に光る直刀だ。直人のものとよく似ている。

 

「それ、成人の儀に使う奴?」

「ああ、俺とこれは

「…………」

「愚かな息子共が、俺を殺そうと企んでいたようだが、あ奴らでは千回襲っても俺を殺すことは出来ん」

「どうして?当主様って剣豪なの?」


 素朴な問いに、当主は笑い出した。


「残念ながら違うな。この剣自体はなまくらだ。まあ、千年以上受け継がれて、錆びていないことだけは《神剣》らしい神秘だが。この剣は、俺に危機が近付くと教えてくれるのだよ。高天原家当主が、寝込みを襲われて死ぬのは情けない。便利な代物だ」


 紅は、つまらなそうに言った。


「つまり、僕が当主様を殺しに来たことは、お見通しだったんだね」

「お父さんと呼ぶのはやめたのか?」


「やめたのに決まってるよ。実の娘を犯すなんて、ケダモノ以下じゃ申し訳ないケダモノ未満だよ。それに、直くんが『お父さんなんて呼ばなくていい』って言ってくれたから、僕は救われたんだよ」


 そう言い切った少女の微笑みは、正真正銘、幸福な少女のそれだった。

 ――――気に入らない。直人が紅を守るようになってから、高天原識は紅に会うことが出来なくなった。


 紅に触れようものなら、あの、たかが《漆》の息子に殺される。

 本能が、直人を拒否するのだ。


「……そろそろ、あの愚息と決着を付けなくてはならないようだ」

「直くんのことなら、愚息じゃないよ?」

「確かに、直人が一番俺の血が濃い。淑子に疎まれた程度で潰れるなら用も無いと放っておいたが、這い上がり殺し生き残り、今や我が子等の頂点だ。愚かなのは、俺を真似てお前を欲したことだ」

「継人お兄ちゃんは?」

「覇気が足りん。王者の風格もな。あの、《壱》とそっくりだ」


 ……ぷつり、と、紅の中で、何かが切れた。


「お兄ちゃんと永人さんを貶すな!!この変態色ボケ糞ジジイ!!!」


 識は、一瞬何が起こったのかわからなかった。

 だが、目の前の、天女のように美しい娘が吐き捨てた罵倒だと知ると、炎のように燃え上がる怒りと嗜虐性に、識は笑った。


 少女らしいコットンレースのワンピースを引き裂けば、その内側には柔らかく生々しい、七分咲きほどの極上の女の白い体がある。


「無力な暗殺者よ。仕置きが必要なようだ」

「要らない。継人お兄ちゃんは、直くんにとって唯一無二のお兄ちゃんで、永人さんは僕のお母さんの恋人なんだから」


 華奢な肩を掴もうとした手が、止まった。


「……永人が、何だと……!?」

「お母さんが愛したのは、お前じゃない。お母さんは、永人さんの恋人だった。標的と恋に落ちて、一緒にいられたのはほんの僅かな時間で、きっとお母さんは、永人さんと一緒に死にたかった。でも、永人さんはお母さんだけ生かして死んでしまった。それが、残酷な『ご縁』が結んだ運命の悲恋だよ」


――――貴方との『ご縁』は切れたわ。

 貴方が望んだ、永人さんの命と共に――――


 そう言った八坂蘭を、座敷牢に入れて閉じ込めたのに、蘭は幻のように消え失せていた。


「その顔だと、何か心当たりがあるのかな?お母さんに振られたのかな?」


 八坂蘭は、消えた。だが、十六年前に再び識の前に現れた。


――――貴方の子供を産むわ。

 私の子供は、その子ただひとりでいい――――


 識は、昼夜問わずに蘭の体に夢中になった。

 子を産ませれば、今度こそ蘭は識のもとから離れまいと、高揚した。

 蘭から、《人殺し》の名にそぐわない情の深さを、感じることがあったからだ。


 だが、たったの三日ほどで蘭は再び姿を消した。

 16年捜し、やっと行方を突き止めたと思った時には、蘭は無縁仏の墓に葬られていた。


 だが、その墓の前に佇んでいたのは、蘭と同じ長い黒髪の、蘭に生き写しの美貌を持つ、天女の忘れ形見だった。


 識は、狂喜した。

 蘭は生き返ったのだ。これから識と長い人生を共にする若い女として、生まれ変わったのだ。


「滅茶苦茶だよ。僕は、お母さんから生まれてお母さんに育てられたんだよ?僕が生まれ変わりの訳がないじゃない。それに……」


 紅は、八坂蘭と同じ顔で笑った。


「3月30日っていう僕の誕生日から逆算すると、お母さんが当主様を尋ねてきた時期に一致するんだっけ?」

「ああ、そうだとも!蘭が俺を求めて来たのは、7月7日だ!!蘭は子供はひとりだけと言っていた。紅、お前は俺が蘭に産ませた分身だ!!」


「ん~、確かにそれ、勘違いしちゃいそうなロマンチックな日付だなあ。……でも、お母さんは織女かもしれないけど、当主様は彦星じゃないんだよ」

 紅は、面白そうに、嬉しそうに笑った。


「僕の一族の女は、結構ウソツキなのさ。僕は、お母さんに教えられた通りにしてただけ。名前を聞かれたら、『くれない』と答えなさい、誕生日を聞かれたら『3月30日』と言いなさい……ってね」

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