第4話 高天原の弐――継人

「直人、お帰り」


 侍女と入れ違いに姿を現したのは、スラリとした細身の体躯の、優しげな面差しの青年だった。

「ああ、兄さん。久しぶりだね」


 ただいまとは、返さなかった。


 離れは暮らし慣れているけれども、直人は高天原家自体を自分の帰る場所だと思った事は一度も無い。

 亡き師匠の遺言のひとつが、高天原家という俗世に戻るようにとのことだったので、不本意ながら戻って来ただけだ。


 それでも《高天原の》、直人にとって同母兄の継人つぐとだけは特別な存在だった。


「僕のことを覚えているとは思わなかったよ。まだ直人が小さい時に、ほんの何ヶ月か、時々一緒に過ごしただけだったから」

「俺にお帰り、なんて言う人間、この家には兄さんしかいないだろ」

「…………」


 本当過ぎることを言ってしまった。

 が、誤魔化しても仕方が無い。


「えぇと…、さっき、鮎子さんが慌てて出て行ったけど、何か急ぎのものでもあるのかな。不自由があるなら、僕がすぐに対応するよ」

「…………」


 継人が気を遣って話題を逸らしたが、まずい方向に話が飛んでしまった。まさか、見付けた盗聴器をぷちぷち潰して淑子に返しに行かせたとは、言――――


「大したことじゃないよ。家具に付いてた盗聴器、返して来いって使いに出しただけだから」


 言った。

 継人はもう成人している《数持ち》で、跡取り候補だ。この程度の情報で、驚きはしても心傷付くほど弱くはないだろう。


「……母上が、仕掛けたのかい?」

「本邸の方の俺の部屋には隠しカメラがあったから、知ってはいるだろうな。でも、俺を見張った情報を使いたい本人かどうかはわからない」


 小さく、継人は憂い顔で溜め息をついた。

「帰って来て早々に、嫌な目に遭わせてしまったね。ごめんね」


 直人は困った。継人自身は傷付かなかったけれども、直人の為に心を痛めた。


「兄さんは悪くないだろ。ここがそういう家だっていう、それだけのことだよ」

「不甲斐ないんだよ。僕は、弟ひとり守ってあげるには、今も昔も力不足だから」

「そうでもないよ」


 いつも無表情な直人の目元が、少しだけ和らいだ。


「面倒を見てくれた人の顔と名前くらい、ちゃんと覚えてるよ。継人兄さん」

「うん…。ありがとう、直人」


 継人がどうして自分に礼を言うのかは、わからなかった。

 でも、嬉しそうに微笑んでくれたのなら、それでいいと直人は思った。


(お前は、誰かを守るということを覚えろ)


 師匠の口癖で、今思えばこれが最初の遺言であっただろう言葉を思い出した。

 直人の心当たりでは、高天原家に戻って守らなければならない人物は、継人だけだ。


 正直、継人以外の高天原は全員どうでもいい。必要ならば全員殺すし、直人の心は少しも痛まない。


 ――――そのくらいの闇を持っていなければ、育ての父とも言える師を殺せる訳がないのだから。


 幼い日、直人は広大な敷地をうろついていて、偶然に淑子と継人に出会ったことがある。

 ずっと離れで暮らしていた直人にとって、ふたりは『知らない誰か』だった。だが。向こうは知っているようで、和服姿の冷たい目をした女は、傍にいた少年に「近寄らないようにしなさい」と言った。


 しかし、その少年は数日後に直人の元を訪れた。持って来た袋の中には、おにぎりと果物、お菓子が入っていた。


「食べて。お腹が空いているよね?」


 直人は、そう言われても無言で立っていた。


「大丈夫。安心して。僕の名前は継人。直人のお兄ちゃんだよ」


 警戒していた訳ではないのだ。この頃の直人は、まだ言葉を話せなかった。

 先天性の病気や障害ではなく、物心つく前から大人達に無視され続け、何も自分からはサインを送らなくなったという、後天的な症状だった。


 侍女達の言葉を聞き取って断片的に理解していたけれども、侍女達が直人との関わりを面倒に思っている気配はわかっていて、だから自分の声と言葉が必要だと思ったこともなかった。


「一緒に食べる?」


 継人は濡れ縁に腰掛けて、ふたつあるおにぎりをひとつ手に取って、パクンと食べた。

「こうやって食べるんだよ」


 直人の手にもひとつ持たせてくれたので、直人は真似をしてぱくりと食べてみた。――――違う。全く真似になっていなかった。


 自分がお腹を空かせていることすら忘れていた直人だが、仄かにあたたかく塩味が利いたおにぎりを口にしたら、ガツガツと獣のように食い付いてしまい、手も口周りも米粒が付いてベタベタになった。


「あ、おしぼりもらってくるから、待っててね!」

 継人は離れの中に入ってゆき、直人がタッパーに入ったりんごをムシャムシャ食べていると、慌てふためいた侍女達の声が聞こえた。


「継人様、こんなところに来てはいけませんよ」

「どうして?直人は、ぼくの弟だよ」

「御台様からお叱りを受けてしまいます」

「ぼくは叱られてもいい。おしぼりもくれなくって、ぼくを追い出して、これからも直人にちゃんとご飯やおやつをあげないんだったら、……」


 おとなしい子供だった継人の、意を決した声が聞こえた。


「父上に言いつけてやるから!直人のお世話しないで、お仕事をさぼってお給料もらっている人がいるって!!」


 誰々(大人)に言いつけてやる!というのは子供がよく使う手だが、継人の『父上』はとんでもない権力者で暴君なので、あの侍女達は死刑判決を聞いた気分だったろう。


「あれって、俺としてはかなりインパクト強かったんだよな。実際、あの後割とまともなご飯食べられるようになったし」

「……。直人には、辛い生活をさせてしまったね」

「兄さんの守備範囲外だろ。俺は、あんまり辛いとかどうとか考えたことのないボンヤリした子供だったし、今更気にしないよ」


 さらりと本当に何でもないことのように言う弟は、まだ少年なのに、子供時代を失ってしまった。

 失った事に気付いていないか、気付いていてもどうでもよさそうな弟を、痛ましいと思うのは、身の程を過ぎた傲慢なのだろうか。 


「…ああ、兄さんは兄さんの用があって来たんじゃないの?」

「顔を見に来た、じゃ駄目かな」


 弟は、きょとんとした。

 その表情は、年相応の子供に見えた。


「駄目じゃないよ」


 そう穏やかに返した表情が、大人びてしまっていても。


「やっぱり俺、師匠の遺言、実行する」

「遺言…。功さんの?」

「うん」


(誰かを守ることを覚えろ)


「俺が継人兄さんの《影》をやるから、当主になってよ」


 軽い口調で、全く年相応ではない物騒なことを言い出した。

 そして、直人の口ぶりは、高天原家当主の《影》が何であるかを既に知っている。


 直人は軽く言ったが軽口ではない。軽く実行できるという、余裕のある恐ろしい本気の提案をしたのだ。


 七年間家を離れていた弟は、一体どのような暮らしをして何を学び、何を覚えてきたのか。


 継人は、もうこういうことをする年齢ではなくなってしまったのにと思いながら、直人の頭をそっと撫でた。


「直人、いいんだよ。そんな事を言わなくても。――思い込まなくても。もうすぐ中学校に入学するだろう?僕はね、直人には同じ年頃の友達と、楽しく過ごす時間を覚えて欲しいんだ」

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