第五傷 痛みを、痛みを集めるために 第45話
一呼吸置いて盗みに入るように静かに、還太朗は帰宅した。地獄の扉が開かれる。
そろりそろりと自分は空気と言い聞かせて自室に戻ろうとすると、リビングに居る父親に声を掛けられた。同時に空の缶ビールを投げつけられた。
反射神経がいいので、受け止める。
缶ビールの残りが飛沫し、還太朗の服にかかる。
「おい、馬鹿‼ 酒だ酒‼」
父親は泥酔しており部屋中に酒の臭いが染みついている。
還太朗の父欧亜は一日中酒を飲む人なのだ。
「……ばあさんのとこでいい?
あそこじゃないと買わせてくんないから」
「クソ店か」
「そこじゃないと見逃してくれない」
あくまで事務的に対応する還太朗を父親はキッと睨みつけた。
「早く行け‼ 馬鹿野郎‼」
還太朗は財布を持って玄関に立った。
すると今度は還太朗の兄が現れ、おもむろに鳩尾に拳を入れられた。
手で止めてもいいが、変に受け身を取ると折檻の時間が長くなるので、我慢をする。
唇を噛み締めて、唾が飛ばないよう心掛ける。
「おい‼ 遅い‼」
黒髪に眼鏡、県随一の進学校の制服に身を包む、いかにもインテリな兄。
だが家の顔は、暴力の化身だ。
還太朗を弟、ましては人間として認識しておらず、サンドバックにされている。
「今から父さんの酒買って来るから」
こう言うことで財布から金を取られない。酒がない父親がどんな風になるのか知っているからだ。
そう告げて、逃げるように家を出た。
――俺の家もやばいけど、俺も大概汚れてしまった。
ただ零だけが綺麗。零は俺にとっての石鹸なんだ。
零のことを想像し、近所の酒屋へ向かった。
営業時間が過ぎシャッターが閉じられた酒屋に組み込まれた小窓を叩く。
老眼鏡をかけたおばあさんが出てくれた。
「かんちゃんかね」
「うん、父さんに。なるべく安いのをお願い」
「まだあの人は……」
おばあさんは吐き捨てるように言った。
ここの売り子のおばあさんは昔からの付き合いで、還太朗の家庭事情を知っている。初めてこの酒屋に酒を買いに来た時、事情を知られていなかったので、家に帰ると案の定ハチの巣にされた。
そしてまた店に返され、その殴られた様を見てからずっと酒をこっそり売ってくれている。店主のおじいさんにはナイショだ。
「酒を飲むだけの燃費の悪い置物だよ。
あ、今のは父さんには……」
「わかっとるよ」
還太朗は財布から千円札を取り出し、受け取った酒をエコバックに入れる。
「これ、おまけじゃ」
そう言って還太朗の手に、しわくちゃの温かい手から練り飴のお菓子を渡された。
「零ちゃんと食べ」
「ありがと、ばあちゃん」
誰も優しくない世界で、ふと優しくされると涙がせり上がって来る。
プライドがあるから、見せることはないが。
帰り道ほど注意しなければいけないモノはない。
一番怖いのは、警察だ。
親に反発するために染めた金髪と生まれつきの目つきの悪さと悪人面のせいで、警察に声をかけられる。
高校生が歩き回る時間でもないので、余計。なので、全速力で突っ走る。
前に警官に声をかけられたことがある。その時も酒屋の帰りで酒を買っていた。
「お兄さん、どこ行くの?」
「……家ッス」
最初はそれだけだったが、還太朗の体臭に気付かれると、顔色が変わった。
「お酒の臭いがするけど、飲んでるの?
荷物見せてもらうおうか」
還太朗は誠実に事実を話した。
「父に頼まれたので、その帰りです。酒臭いのは父親に投げられたの時に酒の臭いがついたんです」
けれど警官は怪訝な表情を浮かべた。
「未成年だよね? 本当にそれお父さんに頼まれたの? 嘘ついて自分が飲んでるんじゃない?」
質問攻めされ、鬱陶しくなり還太朗は警官の自転車を深い側溝になぎ倒し、走って逃げた。
足の速さには自信がある。
警官に追いつかれることなく、家に帰ることはできたが、心臓が飛び上がっている。
――んなこともあったな。
カンタロウは噛み締めながら、再び地獄への扉を開いた。
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