蓼 風

空木弓

第1話


 源二郎がその男と出会ったのは、宿直明けの非番の午後に、大川(隅田川)の河口で釣りをしている時だった。知り合いから借りた小舟を自分で操り、 河岸を横目に糸を垂れていた。

 河岸にも釣り人が何人か見えていた。一人で釣糸を垂れている者もいれば、家族連れ、子供連れもいる。

 江戸時代初期に武士の間で流行しはじめた釣りは、文化九年(1812年)秋のこの頃までに町人の間でも人気の娯楽になっていた。海に面している上に水路の多い江戸だから、釣り場は沢山ある。秋という季節も釣りに最適だ。

 だが源二郎はというと、実のところは釣りそのものよりも、小舟の上で一人ぼうっとしているのが好きだった。


「子供が落ちたー!」

 その叫びに声がした川下の方を向いたら、何かが水に飛び込む音がした。

 少しして水面に人の頭が浮かんだ。浮かんだそれが流れにも乗ってぐんぐん進んでいく。総髪であることと髷の様子からして浪人らしい。

 浪人が向かう先に何かがいた。もがいている。流れのままにどんどん流されていく。

 頭頂部にだけ髪を生やしている芥子坊の子(四歳前後)のようだ。河岸から水面を覗き込んでいるうちに落ちたのだろう。

 河岸だから、川は急に深くなっている。河口なので流れは早くないが、子供ならば簡単に流されてしまうくらいの流れはある。

 そして、もがいては余計に溺れる。

 この時近くに舟は源二郎の舟しかなかった。

 源二郎は急いで舟を漕ぎなから、叫んだ。無駄かもしれないが、叫ばずにいられなかった。

「暴れるな!力抜いて浮いてろ!助けが向かっている!」

 子供の頭が見えなくなった。源二郎が青ざめたとき、子供に向かっていた浪人の頭も水面から消えた。

 源二郎はともかく二人が消えた辺りへ舟を向けた。水の流れを読んで、近くまで来たところで舟を流れに任せ、固唾を飲んで水面を見つめた。

 何かが浮いてくる。

 この舟に向かっている。

 源二郎は身構えた。舟がひっくり返らないようにしないといけない。

 ざばっという音とともに飛沫が飛び散り、浪人の頭が水から出た。直後に今度は子供の頭が水面に出た。

 浪人が源二郎を見上げた。立ち泳ぎしながら、子供を水面から出しているのだ。

 源二郎は舟がひっくり返らないよう、注意深く浪人が差し上げた子供を受け取った。

 子供はぐったりしている。

 この時代の救命措置はかなり荒っぽい。源二郎は子供を逆さにして水を吐き出させた。

 次に船底に座らせ、軽く背中に活をいれる。子供だから、力加減が難しい。

 幸い、すぐに子供は息を吹き返した。

 途端に落ちて苦しかった恐怖を思いだしたのか、ぎゃーぎゃー泣き始めた。

 泣くくらい元気なことに安堵しながら、源二郎は子供を抱き締めた。

「もう大丈夫だからな」

 源二郎ははっとして辺りを見回した。

 浪人と目があった。

 その鋭い目つきはただならぬ意思の強さと技量を感じさせた。

 源二郎が子供を蘇生させている間、浪人は立ち泳ぎで船との距離を保ち、その様子を見ていたらしい。

 にっと笑うと、浪人は水の中へ消えた。

 少しして頭が水面から出た時には、もう河岸に近かった。


 源二郎はあわてて舟を近くの桟橋に向けた。

 河岸には桟橋に向けて走っている男がいた。おそらく子供の父親だ。

 源二郎が桟橋に舟を着けた時には町人姿の男が三人待ち構えていた。先ほど河岸を走っていた男が「たぁ坊!」と半泣きで舟に飛び乗ってきた。

 子供がどこも怪我をしていないのを確めてから、やっと父親は源二郎に礼を言ってきた。

「お侍様、ありがとうごぜぇやす。ホントにありがとうごぜぇやす!」

「礼ならば、俺よりもすぐに飛び込んだあの浪人に言ってくれ。見事な泳ぎだった」

 言われて父親は辺りを見回した。源二郎も見回すと、浪人は素早く着物を身につけ終わっていた。そして釣竿を右肩にかけ、魚籠びくと手網をまとめて左手に持ち、桟橋とは反対の、川上の方へ歩き始めた。

 着古した藍縞の着流しに二刀を差した後ろ姿がどんどん遠くなる。

 源二郎と父親が同時に叫んだ。

「お待ちください!」

「ご浪人様、待ってくだせえ」


 源二郎は桟橋に飛び上がり、浪人を追いかけた。

 町奉行所の同心として、見過ごすわけにいかなかった。うまくすれば褒賞金が出るような人助けだ。僅かであっても、浪人には嬉しいはずである。子供を助けてもらった父親もきちんと礼を言いたいだろう。

 十代の頃、幼馴染みとともに山野でかなり厳しい修行をこなした源二郎は足も速い。

 もう少しで追い付くというところで、浪人は立ち止まり、くるりと後ろを向いた。

「お名前を……お名前とお住まいをお聞かせください。あの子の父親もこのまま去られては気が済みませぬし、今日のことをあの者が番屋へ届ければ、少しばかり褒賞が貰えるかもしれませぬ故……」

 浪人とはいえ、満二十二歳の自分より十歳くらい年上に見える相手だから、源二郎は丁寧な言葉遣いをした。

 近づいてみれば、この時代では大柄な五尺四寸(約172㎝)はある源二郎よりさらに二寸くらい(約6cm)背が高かった。

「かなり鍛えておるな」

 浪人の声は見た目どおりの落ち着いた低い声だった。走ってもさほど息を切らしていない源二郎に感心したらしい。

 源二郎の方はその時に浪人が見せた目に、何故か親しみと妙な懐かしさを感じた。以前に会った覚えはなかったのに、どうしてそう感じたのか。

「あなたこそ、かなり鍛えておいでだ。素晴らしい泳ぎでした」

 浪人は薄い笑みを浮かべた。

「昔とった杵柄というヤツだ。ここよりも流れの早い海の近くで育ったのでな……」

 浪人は一瞬だけ遠い目をした。

「名乗るほどのことはしていない。褒賞も要らぬ。そうあの父御ててごにも申されよ」

 浪人はそう言いながら踵を返した。

「あの!釣りがお好きなのですね?」

 源二郎はこのまま浪人と別れたくなかった。

 その目に何かを感じた。何を感じたのか、その時はわからなかったが、このまま別れては後悔すると思った。直感のように、閃きのように源二郎の心に過った感情だった。

 浪人はまた立ち止まり源二郎を振り返った。

「人に名を尋ねるならば、まず己が名を名乗られよ。違うかな?」

 源二郎は顔が熱くなった。全くもって浪人の言う通りである。あわてて謝った。

「申し訳ありませぬ」

 浪人の目は怒っていなかった。源二郎はほっとして続けた。

「それがしは、榊源二郎さかきげんじろうと申します。しがない道場の師範代です」

 嘘ではない。兄が亡くなるまで道場で師範代として稽古をつけていた。今も道場へ行けば師範代の扱いだ。近頃はめったに道場へ顔をだしていないが。

 北町奉行所の平同心であることを伏せたのは、勤め外で会った相手には町奉行所の役人であることをなるべく言わない方がよいと、同心の先輩である父親からも先輩からも教えられていたからだ。


「げんじろう……字(漢字)はなんと書くのかな?」

「みなもとのげんに二番目のじろうです」

「字は違うが、弟と同じ名だ。弟はつぎのじろうだ。奇遇だな。拙者は白井……白井般右衛門はんえもんと申す。ハンは般若のハンだ」

 浪人は片頬だけ笑ってみせた。

 その瞬間、源二郎の背筋にさっと悪寒が走った。浪人にこれまでに関わった悪党と同じ危険な気を感じたからだ。

 ――まさか……

 源二郎は一瞬己が感じた印象を振り払うように、言葉を継いだ。

「ここへはよく釣りに来られるのですか?」

「……そうだな。よく釣れるからな」

 その時、男の魚籠で何かが跳ねた。思わず源二郎が魚籠を覗きこむと、クロダイ(関西ではチヌ。汽水域にも生息)が一匹入っていた。

「凄いな……こんな大きな鯛を釣るなんて」

 魚籠を覗きこんだ源二郎は子供のような顔つきだったのかもしれない。浪人が声を上げて笑った。

「このような鯛は釣ったことがないか」

「ありませぬ。釣りは半年ほど前から始めたのですが、恥ずかしながら、なかなか釣れませぬ」

「誰かに手解きは受けておらぬのか?」

「いいえ……父も兄も釣りをすることはなかったですし……」

「『なかった』?」

「二人とも二年前に亡くなりました」

 源二郎はさらりと言うように心がけた。

「母はそれがしを産んですぐに亡くなり、姉はとうに嫁ぎましたので、榊家の者はそれがし一人です」

 さらにさらりと、明るく言うように気を付けた。


 実際、源二郎は血の繋がった家族が近くにいないことに辛さも寂しさも感じてはいない。住み込みの奉公人がいるし、乳兄弟でもある遠慮会釈のない幼馴染みがいる。その家族は皆、源二郎に優しい。

 ただその幼馴染みの家は禄高二百石の与力だ。三十俵二人扶持の同心の榊家とは格が違う。

 奉行所では格、身分の違いを如実に感じる。それ故、奉行所に同心として勤め始めてからの源二郎は己の立場をわきまえないといけないという思いが強くなり、幼馴染みに対しても、その家族に対しても距離を置こうとしていた。それが一人で釣りを始めた理由の一つだった。


 浪人は暫く源二郎の顔をじっと見つめていた。

「御新造は?」

「独り身です。白井殿は?」

「今は同じく独り身だ」

 そう言った白井般右衛門の顔に深い陰りが過った。妻を娶ったが、何か不幸があったのだ。

「もしも次にここで逢うたなら、少し教えてしんぜよう。難しいことではないからな」

「本当ですか?」

 源二郎の声は思わず高くなった。

「ありがとうございます」

 勢いよく頭を下げた。

「白井殿は次はいつごろに?それがしは三日後にまた来るつもりでおります」

「たぶん三日後にもここにおるだろう」

 源二郎はしっかりと刻限から舟に乗るかどうかまで尋ね、三日後に再会する約束を取り付けた。

 あの白井という浪人にまた会えると思うと、心が軽かった。八丁堀まで漕いだ櫓も軽かった。


 それからの源二郎は非番になる三日ごとに川や海へ釣りに出かけ、白井般右衛門と舟上や岸辺に並んで釣糸を垂れて過ごした。

 白井から色々と釣りの極意を教わったが、黙って釣糸を垂れているだけでも何故か心が落ち着いた。

 白井も同じように感じているらしく、源二郎の隣や背中合わせに座り、一見ではのんびりと、実際には竿から受けとる魚の引きを逃さないよう気を静かに張りながら、過ごしていた。

 白井のおかげで源二郎は色々な魚を釣ることができた。鉤釣へのエサの付け方だけでなく、竿の良し悪しの見極め方や釣鉤の作り方も教わり、教えられた通りにすると初めてクロダイも釣れ、キスやハゼを何匹も釣りあげることができた。いつも必要な数匹を残し、余分を何匹も放した。

 三度目からは舟に酒や包丁を持ち込んで、釣った直後に魚を捌き、二人で食べた。

 源二郎の魚を捌くうまさに白井が驚いていた。

 三日に一度の釣りが、釣りをしながら白井と過ごす時が源二郎には楽しくて仕方なかった。

 少し年上の良い友人ができたと思っていた。

 互いに相手のことは詮索せず、ただ釣りをして魚や海、川や風のことを中心に世間話をし、釣りあげた魚を肴に酒を飲んだ。

 白井は深川に馴染みの蕎麦の屋台主がいると言い、釣った魚を持ち込んで、そこの蕎麦と釣った魚をあてに酒を飲み、木戸が閉まる四つ頃(午後十時頃)まで過ごしたこともあった。


 そうしてあっという間に二月近く経った頃、舟から釣糸を垂らしている時に、白井が呟いた。

「お主も拙者の弟と同じく、人が良い。騙されぬようにな」

 源二郎は思わず白井の顔を見た。遠い目をしていた。

「弟は陥れられて捕らわれ、嬲り殺しにあった」

 源二郎は返す言葉が出なかった。

「弟を陥れたのは、拙者の古い友人だった。弟が殺されたのは拙者のせいだ。妻も拙者のせいで自害した」

 そこでやっと白井は源二郎に顔を向けた。

「簡単に見知らぬ奴を信じるな」

 その目には凄みがあった。だが凄みと同時に苦悩を感じる目でもあった。

 源二郎は暫く黙ってその目を見つめ返した。それからやっと口を開いた。

「それは……白井殿のことを申されているのですか?」

 白井は片頬だけ笑ってみせた。

「そろそろ岸へあがろう」


 その日が源二郎が白井と釣りをした最後だった。

 その三日後、白井は約束した場所に現れなかった。

 そしてその翌朝、夜が明ける前に源二郎は奉行所の使いに叩き起こされた。






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