守る必要はもうないけれど、それは名残惜しさを忘れる理由にはなってくれなかった

終末の鐘が鳴る。

その音を聞いた時、多くの者はその体を倒れ伏し、困憊したかの様にその体を大きく崩す。


ある者は嘆き、ある者は諦めたかの様に頭を俯かせ、ある者は全てに絶望して倒れ伏し続ける。

そうして、その他の一部の者は安堵の念を抱いて張り詰めた胸の内を綻ばせる。


そして、試練を見守る審判者による最後の言葉が紡がれた…。



「ほーい、テスト終了、お疲れさん」


はい、そうでーす。今のはテストが終わった描写でーす。

なはは、割と余裕を持って終わらせられたから厨二的に今の状況を描写してやったぜ。

別そんなことをやっても特に意味はない。個人的に満足するだけだ。あれ? ちょっとテンション上がってるな?


ふふ、俺の方もテストが終わったという開放感からは逃れられない…ということか、…この感覚は学生の内では避けることは出来ないらしい。


「お疲れ名取」


「おう、委員長もな」


このクラスで唯一話す奴と息抜きの雑談。他の奴らも思い思いの奴と結果を話している。


「で、どうだった?」


「ふふ、多分委員長には負けない程度には高得点だな」


栞ちゃんパワーは素晴らしいものだった。


ここら辺がテスト範囲と言えば、じゃーここと、ここと…あとここをやっとけば問題なしと簡単に導き出す。しかもそれが合ってるんだ。


栞ちゃんが得意なのは英、理、数なのでそこら辺は余裕で出来た。…もしかしたら今まで取ったことがない様な点数を取れるかもしれない。


他の国語、世界史、日本史…その他の科目は俺自身が得意だった。暗記は得意なんだよね。

唯一懸念点があるとするのなら国語の文章問題だが…まぁなんとかなっていると思う。


「言うねぇ…そんな大口叩いていいの? もし私に負けていたら相当恥ずかしいよ? ちゃんと約束覚えてる?」


ニヤニヤと軽く笑いながら委員長は俺を煽る。ちゃんと覚えているが?


「言ってろ、もし負けたらそれに加えて階段から二回転バク宙してやるよ」


「うわぁ…危なそうだけど見てみたい…本当に出来るの?」


「バク宙なら出来るから高ささえあれば多分いける。今見せたろか?」


「え、いいの?」


「あたぼうよ!」


それじゃあ少し広い場所に移動して…と。


委員長を連れて廊下へ…通行人は誰もいないな?


「うし…んじゃいくぞー」


委員長はいかにもドキドキ…! と言った感じにソワソワしてる。こりゃ失敗出来んな。


「よーし…とうっ!」


掛け声と共に思いっきり体を翻す。

俺の体は見事に宙に舞い、手を地面につけることなく綺麗に体を一回転させた。


着地の時にドシンと大きな音が鳴り、少しだけ体制が崩れたが…概ね成功と言ってもいい出来栄えだ。うーん、8点!


「わぁー!!」


委員長はサーカスの芸でも見たかのように目を輝かせている。ふっ、照れるぜ。


「どうだ、やれば出来るもんだろ」


「まさか本当に出来るとは思わなかったよ…しかもあんな綺麗に」


「小学校の頃に体操にハマってなぁ…近場の砂場でバク宙を猛特訓したもんだ…その頃の感覚がまだ残っているらしい」


我ながら正直出来るとは思っていなかった。あの頃とは違い体重も身長も体格も大きくなったからなぁ…体操は身軽さが求められているから出来るわけなくね? とやる直前に思ったもんだ。


しかしながら出来た。…子供の頃の経験って結構忘れないもんだね。


「どーよ! これなら階段からなら二回転宙返りも出来そうだろ!」


「うん! 凄いとは思うし、もしかしたら出来るのかもしれないけど、普通に危ないから階段からはやめよっか、普通に約束事だけにしようね」


冷静に嗜められてしまった…。そりゃそうだよね…。




来るテスト結果発表の日。


当校では時代遅れながらも学内順位の公表がある。上位五十名だけだけど。


プライバシーのへったくれもないが、学生の競争意識を引き立たせる云々とかの屁理屈で今も断固とした態度で公表し続けている。

生徒側も成績上位者だけならまぁいっかという意識を持っているので特に反対もされない。その成績上位者も自分達が上位という自尊心を持てるので特に気にしていないらしい。



「あ、名取! 見て見て! あそこの場所!」


「おー?」


前々から勝負をすると決めていたので当然の如く俺達はその掲示板にやって来ていた。いや別に当然ではないか。


テスト自体は既に帰って来ている。だがただ点数を言い合うのでは面白くない…ということになり、俺達一先ず掲示板に行ってみることにしたのだ。

掲示板に片方の名前が載っていたらそちらの勝ち、両方載っていたらより高い順位にいる方が勝ち…その方が目に見えて結果がわかるし、シンプルでわかりやすいのでそうした。


委員長が指を指した場所を見てみる…一番上よりちょい下の…どこ?


「や、わからん。どこ?」


「あそこあそこ! ほら、十五位の場所」


言われた順位を見てみると…おぉ! 確かに十五位に委員長の名前がある。


「すげぇじゃん! 特進クラスの奴等をぶち抜いてあの順位なんてなぁ」


「ふふん…! そうでしょそうでしょ!」


特進クラスと俺達の普通クラスは両方同じテストを受ける。なのでこの掲示板に載る奴等は大体特進クラスの奴等なのだが…委員長の学力はそいつらと同格の様だな。


「……なんで普通のクラスにいんの? 特進クラスに行けばよかったのに…」


なので疑問、というか特進クラスに行けよ。普通クラスに負けたとなると特進クラスのプライドぐちゃぐちゃになるよ?


「…入試の時は、幸太郎君に勉強を教えていたから…自分の時間があまり作れなくてね…」


「あっ」


……これ以上は触れないでおこう。うん。


「しかしそうなると俺の負けかぁ? 流石に十五位の奴に勝てる気がしないんだが…」


「いやいや、まだそうと決まったわけじゃないから…お願い事は何にしようかなぁ…」


「もっ勝った気だよ…」


がくりと頭を落とす。…あんま面倒なことはやめて欲しいと切に願うとしよう。


「あはは、流石の名取も十五位より上には…え?」


委員長の驚く様な声が響く。…どしたん? 何か変なものでも見た?


「はぁ…しゃーなし、なんでも好きなこと言えや…マジで軽いことだからな? 百万円貢いでとか言われても無理だか……」


「な、名取…あそこ見て…?」


動揺した声の委員長、その声が珍しいなと思いつつ、言われた通りにもう一度委員長が指を指した場所を見る。

十五位よりも大分上、…そこには一位、名取愛人と書かれていた。


──え、俺一位なの?


超びっくり、え、なんで?

言っておくが俺の頭は学年一位を取れる程優れたもんじゃない。精々全体の中の上、ギリ上の下に届くか届かないかというぐらいだ。


確かに今回は割と勉強した方だが…それでもそんな点数は……あ。


「……どの口で特進クラスに行けと?」


「や、違う…違うんだ。今回はちょっとチートを使っただけで…」


「チート? え、なにカンニングしたの? さいてー」


やめろやめろ、周りの目が少し厳しくなるから…マジでやめて。


「周りの奴等をカンニングしたら逆に点数下がるわ…テストの答案もパクってない。…けど、まぁ、友達の力を借りて似た様なことはした…かも?」


今回のテスト、英、数、理の問題の全て栞ちゃんが予想した通りの問題だった。…そら問題自体は違かったけど答えの導き方は全部一緒。

計算ミスをした所もあるので数学は少し点数を落としたがそれでも高得点、英語に至ってはリスニング、スピーキング、ライティングの全種類を栞ちゃんに徹底的に叩き込まれたので間違えることは許されなかった。結果的に満点を取った。


理科もなんだかんだ計算ミスもしないで満点…と、意味わからんくらい良い点数を取ってしまった。


「友達の力って…どんな友達なのよ…」


「頭が良すぎて中学校の段階で高校の勉強を全て履修、趣味が新しい言語を覚えることな友達だが? 確か現在十何か国語を覚えたとかなんとか…」


「なにそれチート?」


だから言ったじゃん、チートって。


「ちょっと答案見せてよ」


「ほい」


言われた通り答案を鞄から取り出して素直に渡す。


「うわっ…英語、理解100点、数学98点…世界史も100点?」


「あ、それは普通に頑張って勉強したら取れた。凄くね?」


世界史は一番身を入れて勉強したからな…それにほぼ暗記科目なので俺の得意分野にも入っている。毎回は無理だろうが今後もこれくらい力を入れて勉強すれば100点を取れる可能性が高いというものだ。


「いや、全部凄いよ? …えっと、国語は…88点…でも高いね。後は似たり寄ったりだけど大体高い…こんなの勝てるわけないじゃん…」


委員長はがっくりと項垂れる。…うーん。


こう、なんというか…そこはかとなくズルをしてしまった気分だ。

今回の勝負は本来俺と委員長の力だけでやるべきものだ。それなのに栞ちゃんの力を借りてしまったのは…少しズルかったかもしれない。

アリの戦争に象を持ち出すものだからな…うーん。


「あー…今回の勝負は無効ってことでどうだ? 今回の結果は友達の力を借りすぎたから…」


「……いや! 勝負は勝負…ちゃんと約束は守る」


…うーむ、変な所で律儀だよなぁ…。

まぁ本人がいいと言っているのだからそれでいいか、さて…何を頼もうか…。


「…それじゃあ勝負は私の負けってことで…今度会う時に言うことを決めておいてね…!」


委員長はいそいそとその場を後にしようとしている。…どうした?


「お、おい」


「私は帰ってテストの復習をする! …次は絶対に負けないからね…っ!!」


ばびゅーん…と俺を残して委員長はすぐに俺の目の前から消えてしまった。とても悔しそうな顔をしていたな、おもろ。

あ、…こほん。…まぁあれだ、ドンマイだ。


「…なんか、美味いもんでも奢ってもらうか」


適当に考えた委員長へのお願い事を口にしつつ、俺の方も家に帰ろうかとその場を後にしようとする。


今日はこのテスト返し以外に授業はない。なのですぐに家に帰りたいところなのだが…何やら周りの様子が変だ。


多くの人間が信じられないものを見る様な目で俺を見ていた。…まぁ、この顔で学年一位を取ったなんて言われてもそうなるか。

少し周りにうるさく喋り過ぎたらしい。この場にいる全員が俺が学年一位だと認識している様だった。


目立つのはあまり好きではない…掲示板から体を翻そうとしたところで…俺の後ろに一人の女が立っていることに気付いた。


「……一位、名取愛人。二位、高嶺聖……」


俺はそいつの顔に見覚えがある。つい最近まで同じ部屋で嫌というほど見た顔だ。


「貴方が名取愛人さん…ですよね?」


「あっははは…人違いです」


高嶺聖、その人が俺の目の前に立っている。…どうしよう、超帰りたい。



高嶺とはあの日別れて以降連絡を取っていない。連絡を取り合う必要がないのだから必然だ。


俺と高嶺のクラスはそこそこ離れた位置にある。用事がなければわざわざ立ち寄らないし、その用事も滅多に起きない。

前と同じ様に単なる他人という存在だと俺は認識していた。それは高嶺も同じだろうと思っていたのだが…一体どうして急にコンタクトを取って来たのだろうか…?


「あらぁ? 後ろでさっき大きな声で自分が一位と仰っていたではありませんか。…それでも人違いだと?」


「あれは…ちょっとばかし冗談で演技をしていただけで…」


不思議と気まずさと妙な感情を抱いていたのでなんとか言い訳をしようと頭を捻る。これ以上目線を集めるのは嫌なのだが…。


「ん」


俺の抵抗虚しく、そう言って高嶺は手を差し出す。…はい。


「うっす…」


手に持っていた答案用紙を渡す。…高嶺はそれをザラっと一目見ると…。


「わぁ、英語が100点…ですか。…ちなみに私は98点でした」


「偶々運が良かっただけなんだが?」


「あらあら、世界史、理科も100点…私はどちらも90点でした。国語は…私の96点の方が上なんですね…数学は98点…これも一応僅差で私が勝っていますね…これが全て偶然なんて凄いですねぇ…」


含みのある言い方…なんだよぉ、なんか文句あるのかよぉ…。


「………ふふ、そんなわけありませんよね?」


途轍もなく圧を感じる。…俺はどう答えればいいんですか…?


周りの奴らが俺の周囲に集まってきて逃げる隙もない。気分は見せ物になっている格闘家の気分だった。


「私、自慢ではないのですが勉強は得意な方なんです。中学時代から数えて学年一位を逃したことは一度もありませんでした…今まで」


「へ、へー…ソスカ」


高嶺の目が少しだけ鋭くなったと錯覚してしまう。…なんだ、こいつは何を狙っている…?


「ふふ、別に怒っているとか嫉妬しているとかではありません。純粋な凄いなと思って声を掛けさせてもらったんです。…ちなみにですが、どういった勉強法をしているのですか? 参考までにお聞かせいただけると嬉しいのですが…」


「参考…か」


友達が超絶頭良くて、試験範囲を伝えたら出題問題をほぼどころではなく全て言い当てて、それの解き方を覚えただけ…と言っても絶対信用されないだろうなぁ…自分でも言ってて意味不明だ。

…けど、まぁこいつになら…。


「いや、参考になるかはわからんが…友達が超絶頭良くて、試験範囲を伝えたら出題問題をほぼどころではなく全て言い当て、その教えられた範囲の解き方を覚えただけ…と言っても納得するか?」


「…えぇ、納得しますよ。貴方が言うことですからね」


ざわっ…と周りの喧騒が大きくなる。

あの、そういうこと言うのやめて?


「それにしても全教科をそこまでのレベルで…とても凄いお友達がいるのですね」


何事もない様に高嶺は喋る。

そんな高嶺を見ていると周りの反応を気にしている俺が馬鹿みたいだと思ったので今だけは前の様に話すことにした。


「飛び級で海外に行ってるからな、どっかの大学で勉強してるって言ってたぞ? まぁその友人に教えてもらったのは英、理、数だけなんだが…」


「あら、それでは他の教科は自力で?」


「おうよ、凄ぇだろ」


「はい…とっても」


なんだか少しだけ懐かしい感覚が蘇り自然と頬が緩む。…高嶺の方も不思議と微笑んでいた。


その状態がすこし気恥ずかしくて頭をぽりぽりと軽く掻いてしまう…そうしている間も高嶺は次の言葉を繰り出している。


「ちなみに普段はその三科目はどれぐらいを?」


「んー…理科はそんなに嫌いじゃないからそこまで落とさんとは思うし、英語もその友達の影響で割と得意だが数学がどうにもな…俺と相性が悪いみたいなんだ。多分こっから20、30は落とすだろうな…」


今回は偶々やる内容がわかっていたが、次はそうはならないだろう…余裕でそれ以上落とす自信がある。


「…それなら丁度いいですね」


高嶺がそんな返答を返す。

丁度いい…? 何が? …と、聞き返す前に先に高嶺口が開いていた。


「実は今回の数学のテストで100点を取れたんです。私はどの教科に対しても苦手意識はなく、その中でも数学は一番得意だと自負しています」


ゆっくりと高嶺は目線を上げる。その目はまるで研ぎ澄まされたかの様に真っ直ぐと俺の目を射抜いていた。


「……宜しければ私と連絡先を交換しませんか? そのお友達程頭はよくありませんが、それでも力になれることもあると思います」


周りの喧騒が最大限に上がる。気分はさながらライブ会場のド真ん中か。


雑多な声を気にせず高嶺の目を見返す…その目には一切の迷いがない。


「……随分と急な話だな…理由を聞かせてもらっても?」


「その理由は既にお話しました…と言ってもいいのですが、そういうことを聞いていないのはわかっています…」


そうとも、俺が聞きたいのは何故急に俺に対してこんなアクションを取って来たということだ。


不本意ながら、俺はこの学校でも相当の荒くれ者と思われている。周囲の人間に馴染めない社会性を持っていない人間…関わると周りの人間から倦厭な目で見られる人間だ。


委員長はそのことを気にせず、自分はクラス委員長だからと気軽に話して来ているが、他の同学年の奴は誰一人として俺に話し掛けたりはしない。


こいつは周囲の目を気にしている。自分が周りからどう見られているのかを理解して、それにあまり背かない様に生きていた筈だ。

だから、良くも悪くも聖女様という評判を持っているこいつが俺に話掛けるメリットは何一つない。むしろデメリットしか生まないだろう。


今も周りの反応は煩い。何故聖女様はあんな奴にとかなんとかどよめきが周囲に湧き上がっている。…俺と接することは今後のこいつに悪影響しか生まないだろう。


「だって、貴方が言ったんじゃないですか…周囲の目は、本当の私を知ってもらうことを諦める理由にはならない…自分から諦めたら現状が変わることはない…と」


だから何故? と、問うた。それに対しての返答は俺の過去の発言に起因しているらしい。


「それにしても…だ。…最初から俺みたいな奴じゃなくて、もっとこう…難易度優しめの奴に声を掛けろよ。…これじゃあ全員離れちまうぜ?」


今の状況は少しづつとは程遠い状況なのではないかと思う。…こんな急に変わる必要はない筈だ。


「ふふ、それならそれでいいんじゃないでしょうか? …貴方が前に言った通り、残ってくれる人を大切にすればいい…ですよね?」


「……ふぅ」


本当に昔の言葉に足元を掬われる。…何の反論も出せる気がしない。


俺が今からどうこう言おうとしても無意味だ。

こいつは既に自分の意思を決めている。それによる結果も経過も全て容認してしまっている。

…その考え方をしている奴を一人俺は知っている…本当に身近な存在だ。


「アホタレ、人の真似してんじゃねぇよ」


「ふふふ…あんな経験をすれば嫌でも似てしまいます」


多分、俺はこいつの人生を変えてしまった。

崩れる人生、悲嘆な人生…そんなのは見たくないと本来ある形から歪めた。


その事は一切後悔していない。そんなことを後悔はしない…だが、それによって生じた結果を想定してはいなかった。


「…それに、誰一人私の側から離れてしまったとしても…貴方は私を見捨てないでしょう?」


全部全部、過去の言葉だ。…これだから頭のいい奴は苦手だ。オチオチ適当なことも言えやしない。


「……へっ、好きにしな」


そう言って俺は目の前の全てのことを容認する。

…過去の発言を覆したりなんて出来ない。だから、現在の俺がその言葉の責任を取るしかないのだろう。



俺はこいつのこと見誤っていた。


初めて出会った時はばあちゃんからの言葉に従い、見捨てられないと守った。守るべき存在だと思ったのだ。


俯いて座っていて、目は死んでいて…何処にも行くところがない迷い子…そんなのは守るしかないと決めつけていた。…だが、どうやらそれは一過性のものだったらしい。


見ろ、今のこいつを…強かな顔で今の言葉も忘れないぞという顔をしている。…この先ずっとこういうことが続いていくんだろうと簡単に想像出来る。我ながらとんでもない奴と関わってしまったものだ。


…この先俺がこいつを守ることはないだろう。こいつはもう守るべき存在ではない、既に一人で立ち上がれる者だ。


それなのにこいつは俺との関係を求めた。

前までの歪な関係は消え、関わる理由も失せたのに…それでもこいつは俺と関わろうとしている。


…俺は、それを断る理由を見つけられなかった。


「これからよろしくお願いしますね? ──名取…愛人君…?」


一歩、彼女が深く身を近付ける。彼女の長い髪がふわりと慣性をつけて揺れている。


その時、これから嗅ぐことはないだろうと思った、忘れる筈の…名残惜しいと感じたあの甘い匂いが俺の鼻口を擽る。


──きっと、この匂いを名残惜しいと思うことは当分無くなるのだろう…と。

俺は…そんな根拠のない想像を思い浮かべるのであった。

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