子供失格
「久しぶり、これ、俺の家の近くにある菓子屋で買ったものなんだけど、美味いからよかったら食べて」
「ありがとう。後で食べさせてもらうわね」
母の日ということで菓子折りを持ってきた。それを渡す。
「今日はこれからどうするの? 家でゆっくりしていくの?」
「いや、すぐに戻るけど…その前に一つ話があるんだ」
俺がこの場に長居してもいいことなどない。しかしやらなくちゃならないこともあるのは事実…それを終わらせなければ帰ることは出来ない。
「…話って?」
多分内心では俺の言うことが何がわかっているのだろう。しかし、それでも母はそう言って来た。
「親父の話だ。…話、聞いているんだろ? 母さんの考えを聞きたくてな。…取り敢えず中に入っていいか?」
「…えぇ、どうぞ」
母は玄関の奥に戻っていく。
俺はお邪魔しますと一言言いながら玄関の中に入る。
「……」
住み慣れた家の筈なのに何処か記憶が遠い。少なくとも十五年間はこの家に過ごしていた筈なのにな。
リビングにあるテーブルに膝を落としながら母に対して問い掛ける。
「…母さんも聞いてるだろうけど、親父が離婚を決めた。別に俺が確認の意思を聞く必要はないのだろうが、それでも聞かせてもらう。…母さんはそれを聞き届ける準備が出来たか?」
「…………」
愛菜を部屋に戻し、このリビングには俺と母しかいない。…周囲は痛いくらいに静かさだ。
俺の言葉に母は何も答えない。…仕方ないので次の言葉を出す。
「母の日にこんなことを聞くのは間違っているのはわかってる。それでも受け入れられるか聞いておきたいんだ」
どっちにせよ、受け入れられないと言われても受け入れてもらうしかない。これはそういう話だ。
俺達…いや、この際俺は除いてもいい、親父のこれからと、母のこれから…それがこの言葉で決まる。
「……母さん、黙ってばかりいちゃ話は進まない。イエスかノー、どっちでもいいから母さん自身の答えを教えてくれ」
「……どうして、いきなり来て、そういうことを言うの?」
母から来た返答はそんな言葉だった。
「いきなりそんなこと言われても…私はどうすればいいの? どうしてずっと連絡を取っていなかったのに、連絡をしてきたと思ったら離婚の話で…急にそんなこと言われても…」
やはりそうだったか…。
母は…こうやって何かを判断するのが凄く苦手だ。
本当は親父に何の執着もないのに、結婚しているから…という理由でその関係を崩すのを怖がってしまっている。
だがそれだけではない、母が離婚を渋る大きな理由は…。
「それに、離婚したらお父さんになんて言われるか…」
親からの教育だ。
母さんの実家はお偉いさん…親父との結婚も親が決めたものだ。
昔から自由も何もなく、親としての所有物として幼少の頃を過ごしていた。
母は昔から大人しく、親の言うことを必ず聞く子供だったと母の知り合いから聞いたことがある。…それは親から見た子供としては百点満点の過ごし方だったのかもしれないが、その生き方は大人となって生きていく為には零点の生き方なのだと思う。
自由意志がなければ何かを決めるのも難しい。人の声を聞くばかりで自分では何も考えることが出来ない…母はそういう人間だ。
この手の人間は何かしらの存在に引っ張ってもらうことでようやく生きていくことが出来る。むしろ支える側としては最高の部類の人間だと思う。
我が強く、言うなれば前時代的な人間…支えられることを良しとする人間。そういった者を陰から支えるのならば母さんは仕込まれた数々の家事技術や気配り術を十全と発揮出来ただろう。
…だが、親父はそういう人間ではなかった。
昔の親父は無口で無感情、何を要求することもないが、何も求めない人間だった。
そんな父を支えようにも一人で自立しているから必要ない。むしろ何もしなくていいと放逐される。つまり、居ないものとして扱われる。
それは母にとってどれだけ苦しいことだったのだろうか、その時の父に何をしてもその想いは帰ってこない。見合いで恋慕の感情などなくても、それでも結婚したのだからと愛そうとした。
でも、それは無駄だった。その想いはその時の父に届くことはなかった。そうして、ただ一人相撲しているだけの日々を送る。
義務的に子供を作り、義務的に妻として扱われ、義務的に家事をする…そうして何をするかわからないまま何もしないで生きてきた。その生活は、きっと寂しさに満ちたものだっただろう。
…だから、母は外へと目を向けた。その相手が元友人だったのだろう…その寂しさを埋める為に自らを求めてくれる元友人の元へと行ったのだ。
その行動を俺は肯定出来ない。倫理的にも、子供の立場から見ても一切の擁護はしない。
だが、…一人の女性としては悲しい人だと思う。…だから、そうなっても仕方ないと思う余地はほんの少しだけある。…だから、俺は母を責めることはしない。
多分親父も母も、親として不十分で不適切だったのだ。
対話で解決できる問題を解決せず、各々が各々の行動を取った。…普通なら共に過ごしていく中で身につけていくものを一向に身につけることをしなかった、最初は誰だってそうだとしても、変わることなどせず、共に歩み寄ることなどしなかった。…だから、ここまで終わった関係となったのだ。
簡単に言ってしまえば…親父と母は結婚するべきでなかった。相性が最悪だった。
…他の人間…それぞれがそれぞれの合った人間と結婚していればここまでの破綻は起きなかったのだと思う。…まぁ、それが今の状況なのだろうな。
…まぁ、その事実は俺達が生まれるべきではなかった…と決めつけるみたいで少し認め難いのだがな。
だから、そんなことを考えてしまったからこそ…俺はこれまでずっと二人の仲が修復出来たらなと思っていた。けど無駄だったんだな…。
自分でわかっているくせにその事実から目を逸らして、ただ盲目的にそれを望んだ。…そんなもの、最初からないって知っているのに。
とんだお笑い草だ。…これまでの自分の頭の軽さに反吐が出る。
ないものを強請るなんて…そんな馬鹿なことを俺はずっとしていたのだ。
だが、それも今日までだ。
親父が覚悟を決めた以上俺も覚悟を決める。諦めは
…だから、俺は粛々と続きの言葉を告げる。
「爺さんは今やご隠居だ。いちいち事情に口を出したりはしないし、この離婚は親父からの提案だ。そこら辺は親父がしっかりと説得する。…だからその点は心配ないよ」
親父としては今回の離婚は自分が悪かったことにするつもりだ。多分母への批判は限りなく少なくなると思う。
「金に関しても平気だ。…親父から聞いていると思うけど、養育費や生活費はこれまで通り払われる。…何の心配も要らないよ」
「違うの…そうじゃなくて…」
「母さん」
母が何を言おうとしているが、それを遮る様に母を呼び止める。
吐き気がする。何で実の母にこんなことを俺は言っているんだ?
…ダメだ、切り替えろ。今は何も考えるな。
「自分でもわかっているんだろ? 親父と籍を入れ続けても何の得にならない。むしろマイナスにしかならないって。…何かの気の迷いでそれを不意にするつもりか?」
「………」
…母は再び口を閉ざしてしまう。…様々なことがありすぎて思考が停滞しているのだろう。
…はは、昔にこんなことを言えば即座に機嫌が悪くなっていただろう。下に見られていた存在に叛逆されて不貞腐れていただろう。
しかし今の母は違う。もうそんなことは出来ない。
これまでは俺が"子供"としてその立場を全うしていた。だから母は俺に対して反対意見を扱うことが出来る。
一人暮らしをすると決めた時にも母は俺に対して自分の意見を言えた。
…だが、今は違う。…これに関してはそういう次元ではない。
もう終わりにすべきことを終わりにしない。改善すべきことを改善しない。…それは間違っている。たった一つの感情で両者がより良くなる選択を取れなくなってしまう。
だから、俺はこの時だけ子供としての役割を捨てる。…今から、ただの名取愛人としてこの人と接するのだ。
例え、これからするであろう自分の行動に対して、吐き気を覚えたとしても。
「……そういえば、もうすぐ梅雨だね」
「っ…!」
突拍子もなく俺はそう言う。
それを聞いた母は目を見開き、額からは脂汗を掻き始めている。
「梅雨が明けると…夏休み。…夏ってのは太陽がよく出るイメージだけど、他にも幾つかある。例えば……"台風"」
そこの場所だけを意識的に言葉を強くする。無意識的に顔の傷をさする。
…ここからでも聞こえるほど母の心臓の音が強くなっていた。
「………まぁ、別にどうという意味はない。単なる雑談だ。…ごめんな、急にこんなことを言い出して…忘れてくれ。…話を戻そう。…母さん、もう一度聞くぞ? …母さんはどうしたい?」
自分でもわかるくらい、冷たい声が出た。子供が親に向ける声ではない。
「…もう、本当は決まっているんだろう? …自分がどうするべきか、自分がどうしたいか」
「は、はい………」
こんなものは恐喝と変わらない。俺は今、自分の母親を脅してその言葉を引き出している。
「だったら、親父から渡された"それ"を出してくれ…な?」
だけど、俺がやらなくちゃいけない。
「…はい」
俺がやらなくちゃいけない。俺がやらなくちゃいけない。
「……そこの棚にあったんだな。気づかなかったよ」
俺がやらなくちゃいけない。俺がやらなくちゃいけない。俺がやらなくちゃいけない。
「…あぁ、もうサインはしていたのか…印鑑も押してある。…うん、確認した。…これは俺の方から親父に渡しておくよ。…母さんからは渡しづらいだろうから」
これは、俺がやらなくちゃいけない。
だって、俺以外に誰も出来ないのだから。…仕方、ないだろう…?
「…これで、離婚成立だな。…これからの母さんの人生が幸せになることを願っているよ。…俺の親権に関しては母さんの好きにしてくれ。要らなかったら破棄してももいい。どっちにせよ、俺としてはこれからも母さんの"子"として生きていくつもりだ」
そう言って、俺は座っていた椅子から立ち上がる。
「…それと、愛菜のことも少しは大事にしてくれよな。…それだけを俺は望むよ。…じゃあ、今日はこれで帰るよ。…ごめんな、急にお邪魔して」
そう言って玄関へと歩いて向かう。
もう、母からの返答はなかった。
─
そうして、俺は実の父と実の母の離婚届を受け取ることとなる。
決定的に今日。家族が別れる日となった。
その引き金を引いたのは俺だ。俺以外にこの引き金を引ける人間はいなかった。
その引き金を引けてしまった俺はきっと子供としては不適格なのだろう。子供としてあるべき姿ではないのだろう。
俺もまた、子供として失格であり、失敗作なのだろう。と、帰り電車の中でそう思う。
いつの間にか俺は家に辿り着いていた。
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