それを聞いて、俺は
ごくんと最後の一口。
「ご馳走様でした」
「ほい、お粗末さん」
パンを置いた皿を回収して台所へ、食器はさっさと片付けるべしだ。
「あ、すみません…」
「いいよ別にこれくらい。いちいち謝んじゃねぇ」
何回も謝られると俺が何かしてしまったみたいなんだが? 超不服なんですけど。
「す、…あ、ありがとうございます」
「ん」
さて…と、それじゃあ本題に入るとしますか。
「んじゃあ聞かせてもらおうか…お前の事情とやらをな」
ここでこいつを見定める…そんな面持ちで真剣に耳を傾ける。
「…はい。えっと、少し長くなるかもしれませんけど…大丈夫ですか? なるべく簡潔に話す様にはしますけど…」
「あぁ、どんとこい」
それでは…と、女は重々しく口を開く。
「その…私には父と母がいまして…母は専業主婦、父は大手企業のサラリーマンをしています」
「おん」
まぁ、よくあるご家庭…なのかな? 大手企業のサラリーマンと聞くと凄いとは思うが…。
「一応妹はいますけど、その子は…取り敢えず省きます。…私達はつい最近まで穏やかに過ごしていました。休日には偶に家族で何処かに行ったり、夜ご飯は全員一緒に食べたり…と、そんな笑顔が絶えない日常を送っていました」
よくある幸せな家庭って感じだ。…なんだろう、凄く嫌な予感がある。
この手の語り口で更にいいことになったなんて話聞いたことがない。…胃が少しだけ痛くなってくるな。
「そんなある日のことです。…珍しく父が一日家に帰らなかったんです。昔からずっと家族の時間を大切にする父でしたので、いつもは定時…遅くても十時頃には必ず帰ってきていました」
そりゃ良いお父さんだ。家族の時間を大切にとはよく聞くが、それを実行しようとすると途端に難しい。
周囲からの残業しろの圧力、花金の飲み会…休日には上司の接待飲み会or野球観戦orゴルフ…それらを断るのは大変難しい。なんなら平日ど真ん中にも飲み会をする所もあるらしい。怖い。
そんな空気という同調圧力を断ってもなお会社に席があるとは…多分こいつの父親は凄く良い人なんだろうなぁ。
「私はそんな父のことが心配でした。母も妹も父のことを心配していました。…そんな次の日、父が夜遅くに帰ってきました。…殆ど、死人の様な足取りをしながら…」
「そうか…」
まぁ大体事情は察した。…だが、重要なのはこの先だ。
話を聞き続けることにしよう。
「父の顔は本当に青白かった。顔面蒼白とはまさにこういうことなのかと今更ながら思ってしまう程でした…父は開口一番にこう言いました。"ごめんなさい"…と」
女の顔は段々と苦しいものになっていく。…必要なこととはいえやはり他人の悪い記憶を穿り返させるというのは気分が悪くなる。相手に申し訳ない。
「父は次にこう言いました。仕事で失敗をしてしまったと…会社に大きな損害を与えてしまったかもしれないと…そのせいで多大な借金を負うかもしれないと…」
ふむ…まぁ、それは大変なことだろうが、こいつがあんな場所にいる理由にはならない…他にまだ何かあるのだろうか…。
「勿論、それだけなら私があそこにいる理由にはなりません。…確かに借金は辛いかもしれませんが、それだけならまだよかったのです。家を売り払っても家具を売っても、大学へ進めなくても高校を辞めたとしても…それはまだ取り返せる筈の負債ですから」
そんな俺の思考が透かされたのか、女はそんなことを言う。
…家を売っても、高校を辞めてもいい…か、…それ程の絆があるとはな。
こいつの口からは父親を批判する素振りが全くない。…それは中々出来ることじゃない。
借金を背負うとなると生活が厳しくなるのは簡単に想像出来る。これまでの幸せがなくなるのはわかりきっている。…それでも、家族との幸せがあれば充分だとこの女は言っているのだ。
それはとても凄いことだ。簡単に言える事じゃない。
「………でも、それだで終わりはしませんでした」
更なる不穏、そのままの姿勢で聞く。
「私達は最初、それは仕方ないことだと言いました。お金は稼げばいい、みんなで協力して生きていこうと母と一緒にそう言いました。…でも、それでも父の顔色は変わらなかった。むしろ、更に蒼白になっていったんです」
更に蒼白…どういうことだろうか。
「父は何か言い含むような顔をして…こんなことを言いました。"これから暫く家には帰れない。例え家に僕の会社の関係者だと名乗る人が来ても扉を開けてはいけない"…と、そう言ってすぐに寝室で眠った後、次の日の朝にはもう出社していました。…その時はなんのことかわかりませんでしたが、そこから数日後に父の言った言葉の真意が理解出来ました」
女は身震いを抑える様に体を抱く…その顔には嫌悪感しか浮かんでいなかった。
「ある日、父の会社の関係者を名乗る男が現れたんです」
始まりの言葉はそれ。
「インターホン越しに、父の件で話があると…私は父の言いつけ通りその人を無視しようと言いました。母も申し訳なさそうな顔をしながらその通りにしようとしていました…けど、その場には幼い妹がいたんです」
誰も悪くない。その妹はきっとずっと帰っていなかった父が帰って来たと思って喜びながらそのドアを開いたのだろう。
「…妹は私の静止を振り切りドアを開きました。…そして、その人は私達の家に入り込んできました…心境としては本当に土足で家に入られた気分です」
吐き捨てる様な言葉、それだけでこいつがどれだけその男を嫌っているのかが手に取るようにわかる。
「その人は父の上司を名乗っていました。…強制的に案内させられて、我が家のソファに我が物顔で座り、そして開口一番にこう言いました…私の父は、とんでもないことをしてしまったと」
人間…その中でも大人という生き物は責任を重んじる生物である。
何かをしでかしたのならその責任を…償いをしなければならない。
無論、俺もその考えには同意している。それは大人としての責務であると思う。
「会社に億単位の損害を与えてしまったと…もしそうなれば君達一家は崩壊すると…自分がこのまま何もしなければ、私達の家族は終わると言いました」
…だが、それは違うだろ。
「自分なら父の損害をなんとかすることが出来る。しかしそれをすると自分のキャリアに傷がつく。…そうする為には自分に何かメリットが必要だ…と、その人は言いました。…その後のことは…もうわかると思います」
それは責任とか、そういうことじゃない…それは脅しだ。弱みに漬け込んで相手の全てを奪おうとする者の手法だ。
「幼い妹はともかく、私と母はその人に体を求められました。…それをすれば助かるのだと、たった数回自分を満足させればいいのだと…その人は言ったんです」
「………」
普通に考えれば断る話。しかし、人間追い詰められた状況になると途端に思考が狭くなる。
「私はこの話を聞き入れる必要はないとそう思いました…どこをどう取ってもそれを聞き入れる理屈はありませんでしたから…でも、母は違いました」
より親密な仲だからこそそれが生じる。夫が何かをしてしまったのだから、妻である自分がなんとかするしかないという浅慮に至る。
「母の顔は前に見た父と同じ様に蒼白で、心が弱りきっていました。…少し、もう少し押されればそれを受け入れそうになってしまう程には…」
女は目を伏せる。その
「だから、母が何かを言う前に私がなんかしようとしました」
…それはどんなに勇気ある選択だったのか。
「その男に、私は自分が相手をすると言いました。…だから母には手を出さないで欲しいとそう言いました」
その目には強い意志があった。絶対に家族を守るという意志が見えた。
「男はひとまずその言葉に納得し、別日…昨日に、指定された場所に来いと言いました…それで、なんとかその日は凌げました」
凌げはしても意味はない。根本的な解決にはならない。それをこの女はわかっていた。
「例え私が相手をしても男はいずれ母を狙うのはわかっていました。…なんとなくですけど、あの男の口ぶりには確固たる意志を感じました…絶対に私達
母としては娘がそうなるのは絶対に見過ごせない筈だ。その説得にはどれだけの苦労があったのだろう。
しかし、何処までも冷静だったこの女はそれを説得してみせた…多分、俺が想像するより頭のキレがいいのだろう。
「母や妹が新幹線に乗ったのを確認し、絶対にこっちは戻ってこないことを念押しし、おじいちゃんに事情を話し、絶対に戻ってこさせない様にお願いして…そうして、私はここ町に一人で残ることになりました」
…あぁ、納得した。納得したさ…。
「…そんな母と妹を見送ったのが昨日のことです。…無論、あんな男に私の体を許すことは出来ません。私はその男の連絡を無視し続けました」
俺の怒りや慟哭は間違いではない。それは死んでも言えばしない。…だが、それをぶつけるべきではなかった。
「家には帰れません。あの男は私の家の場所を知っています。…友達は頼れません。こんな話を出来るほど親密な友人がいません…私は途方に暮れました。ここから、どうすればいいのかわからなくなりました」
自分なりに事態をなんとかしようとして、周りを助けることは出来た。…だが、その後のことは考えられなかった。そこまで考えが行き渡らなかった。
「お金やスマホは持っては来れましたが、それだけで生活出来るわけがありません。…それに不用意に動けばあの男に見つかる可能様もあります。…だから、私は偶然通り掛かった場所…あのコンビニで蹲ることしか出来なかったんです。色々と動き回って疲れてもいましたから」
こいつは被害者だ。
「コンビニで蹲っているといろんな人が私に声を掛けました。…その全てがあの男と同じ目をした男の人でした。…だから、あぁ、この世界にはこういう人しかいないんだなって勝手に絶望しました。…その時の私は、もう私のことを守れる自信がなくなってしまったんです」
そう思うのは仕方ない。…その結果、あの言葉を言われたのならば俺は納得する。…少なくとも、こいつは悪くはないのだと言える。
「…そこで、最後に貴方が声を掛けてきました。…今思い返せば貴方は他の人達とは違って、本当に心配してくれている目をしていたのに…濁ったものを見続けていた私にはそれが見えていませんでした。…だから、勝手に絶望して、諦めて貴方についていきました。…せめて、自分の意思で体を貸すのだと思い込めばほんの少しは自分の心は守れるだろうと…」
こいつにはそうするしかなかった。周りの奴がそうしてしまった。…本当に、世界というものはクソッタレだ。
「…本当に、悪かった」
「……え?」
そんな世界の被害者であるこいつに俺はなんと言った? なんと叫んだ?
…俺の怒りは不当なものだ。…そんな八つ当たりの様な真似をしてしまった。
座っていた椅子から降りて膝を曲げる。そして、頭を地面に押し付けた。
「本当に申し訳ない…お前がそう思うのは仕方なかった。それなのに俺はお前を不当に怒鳴り、更に罵倒、誹謗を浴びせてしまった。…それは許されることではない」
禊をするかの様に頭を下げる。
俺が俺としてある為の儀式…悪いことをしてしまったのだから、それに対する謝罪はすべきという行為…真摯に頭を下げ続ける。
しかし、その行動はすぐさま止められた。俺の頭を強引に上げさせる者がいた。
「…どうか謝らないで、頭を下げないで下さい。…貴方のやったことは何も間違いではありません。…言われのない中傷を与えてしまったのは私の方です」
女は俺の体をまたもや強引に立たせる。
「むしろ私の方が謝罪を…私は一度貴方の善意を踏み躙った。…その怒りは正しいものです。私はそんなことをされたら悲しいし、辛いし、苦しいです。…きっと、その人のことを優しくすることは出来なくなると思います」
女の目は暗く染まっていない。きっとこの目こそが彼女本来の目なのだと俺は思った。
「…それなのに、貴方は厚顔な私の言葉を聞き入れてくれた。…助けようとしてくれた。…本当に、本当に…嬉しかった。…本当にありがとうございます…っ」
優しい目をしている。…その目を見て、俺はこの女を助けられたのだと、ようやくその自覚が出来た。
ばあちゃんの言葉は今も耳に残っている。俺はその多くのものに裏切られてきた。
…だが、それでも…こういう人達を助けることが出来るのなら…俺はそれでいい。
改めて、俺はばあちゃんの言葉を胸に刻み込むのだった。
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