第7章 世界は変化する

第1話 分離

 口から白い息が漏れる。天空都市ユートレイナは対魔王用の結界で街自体は守られているが、冷気に関しての効果はそこそこ程度。この点は蒼が御使から与えられた特別な空間の方が大きく分がある。あの中はいつも温度が一定だ。


(ま。そもそも異空間って話だから当たり前か)


 隣を歩くフィアの口からも真っ白な息が。蒼と一緒にライル・エリクシアの研究室へ向かっている。

 彼にフィアの分離を依頼してから一ヶ月。毎日蒼かレーベンがフィアと共に昼食をライルに届け、約半日、分離のためのフィアの調査と薬の調合の様子を見守る。そして夕食時にアルフレドが迎えに来て一緒に帰るというのが日課になっている。もちろん、ライルの夕食持参だ。

 最初はアルフレドがずっとフィアに付き添っていたのだが、


『毎日毎日何時間も……どうか弟を助けてくれと縋るような視線に耐えられません。あなたは来ないか、せめて別の方を』


 ムスッとした表情で伝えてられ、渋々アルフレドは引き下がった。蒼もレーベンも弟が心細いのではないかと心配してアルフレドが付き添っていたのを知っているので、彼の代わりを引き受けたのだ。


「お邪魔しま~す」


 ライルの家の扉をそっと開ける。鍵はかかっていない。それほどこの街は治安がいい。机の側の古びた床の一画をめくり、隠されていた小さなレバーを引くと、音もなくベッドの下に階段が現れる。

 地下に彼の研究所が作られていた。これ勝手に作った掘ったんじゃないよね!? という不安な気持ちが湧かなかったわけではないが、蒼が心配したからといって何が変わるわけでもないので口には出していない。


「ライルさ~~~ん。今日はつくね串とシュークリームですよ~」


 ガラスの向こうにいるライルに届くよう、大きめの声をあげる。彼は午前中、自分自身の研究を行っていた。蒼からすでに借り受けた加護を使って人体実験をしている。フィアを分離する薬作製の目処が立ったのだ。

 今日は周辺に血の跡がないので蒼は少しホッとする。だが彼の側にはいくつかのガラス小瓶が転がっていた。ライルはこちらに気がついて少し頬が上がりそれを片付け始める。彼も蒼の食事は気に入ってくれており、最近ではいつも不機嫌な表情から、時々不機嫌程度には変わってきていた。


「いい加護を貰いましたね。痛みも苦痛も感じますが、その感覚がなければそれはそれで困りますし。それでいて綺麗さっぱり治るのですから」


 ガラス扉から出てきて第一声がそれだ。


「ハハ……」


(なんか怖いこと言ってる!!!)


 蒼は空笑いするしかない。一体何をどこまで自分の身体で試したのだか。


「ショウユ味、なかなか気に入っています。まだまだ知らないことは多いようだ」

「それはよかった」


 気に入っているというのが美味しいということなのか、それとも興味深いという意味合いなのかはわからなかったが、蒼は深くは尋ねなかった。ライルが満足しているならそれでいい。


「さあフィアさん。今日も頑張りましょう」


 食事が終わるとすぐにライルが声をかける。フィアは上目遣いで蒼の方を見て、トボトボと彼について行った。ここ最近は採血ばかり。戦闘中の怪我などほんの少しも気にしない勇猛果敢なキメラだが、さあ今から注射針を刺しますよと言われると怯む姿が、


(申し訳ないけど可愛いな~と思っちゃうんだよね~)


 ちなみにレーベンも同じ感想を抱きながらフィアを見送っている。


 それにしてもライル・エリクシアとは一体何者なのか。蒼は彼に聞けないままでいた。


『大昔に転移装置を作ったライル・エリクシアさんとはご関係が?』


 そう言って聞きたくてたまらないが、万が一フィアを元に戻す薬が出来上がる前に機嫌を損ねるようなことになったら困る。元来の心配性を利用してグッと好奇心を抑えていた。


 注射器なんて蒼はこの世界に来て初めて見た。多種多様な薬は見てきたが、体内の状態をここまで詳しく調べてさらに特別に薬を作り出すとは。細かな器具や魔法道具がこの地下の空間にはたくさん置かれている。


「明日から薬の服用を始めましょう。初めは念のため泊まってください」


 それを聞いて、え!? という顔をしたのはフィアだ。そしてソロソロ~っと蒼の方に助けを求めるような視線を送る。


「……変な実験なんてしませんよ」


 失敬なと言わんばかりの口ぶりのライルだったが、実は少し面白がっているのが目を見てわかった。


 それを聞いて何とも言えない顔になったのは夕方迎えに来たアルフレドだ。ついにこの時が来た。


「こんな……こんなにアッサリ進むなんて……」


 もちろん希望は持っていた。ほんのカケラ程度だが。だがそれが現実になるなんて実は信じていなかったのだと、アルフレドは今更自分の気持ちに気がついたのだ。だからどう反応するのが正解なのかわからない。


「案ずるより産むが易しって言うから」


 蒼だって同じだ。だが彼女の方は魔法については上っ面しか知らず、この異世界ならなんでもあり! と思っている節があるので、難しいかもしれないが、いつかは達成できる目標くらいに考えていた。


 翌日、フィアと一緒にライルの研究所に泊まったのはアルフレドだった。夜だけだからとライルに泣きつき、チーズケーキをホール一つ差し入れに持って行った。初日に出したこのチーズケーキを、ライルが『食べやすい』と評価したことをアルフレドはしっかり覚えていた。


「まあ私も眠れますし……何かあった時だけ起こしてください」


 手渡されたのは金平糖サイズの小さな黄色い飴玉一つ。


「これが薬ですか?」


 一緒にいた蒼が尋ねる。こちらの世界の薬は聖水を利用することが多いためか液体タイプのものがメイン。粉薬までは見たことがあったが、錠剤のようなものは初めてだった。


「ええ。液体だと保存場所が大変でしょう。これからしばらく飲み続ける必要がありますから」

「なるほど」


 意外と気が回るのだと蒼は驚いたが、ライルに悟らせないようただ感心するような顔を貫いた。彼は思ったよりも親切だ。


「飲んでしばらくは身体のサイズを変えないように。薬の量産の前に作用が強すぎないということを確認したいので。フィアさん、大きな違和感があった場合すぐにアルフレドさんに報告してください。アルフレドさん、なにかあればこちらの薬をすぐに飲ませて」


 こちらの薬は緑色。黄色い薬の作用を急激に弱める力があるのだとライルが説明した。が、明らかにアルフレドが心配そうな表情になっている。


「なあに。キメラとなっている今なら問題ありません。心配なら聖水も置いておきましょう」

「す、すみません……俺がお願いしたことなのに」

「大きな変化に尻込みする人は珍しくありませんから」


 アルフレドの反応はライルにとって予想の範囲内だと実に淡々としている。


(ああ~私は間違いなく尻込みしちゃう……)


 わかるわかる、と何事にも慎重派の蒼は頷いた。


 フィアはその晩その薬を飲んでも特に問題なく、無事薬の量産に辿り着くことができた。毎日訪ねるたびに、布袋に黄色い薬が増えている。


『完全な分離は最長で十年。しかし、途中で何かしら変化は現れます』 


 初めにライルはそう説明した。十年かけて今のキメラになったのだ。できるだけダメージを減らして分離するには同じだけ必要な可能性はあると。蒼はラベルシールを剥がすイメージが浮かんだが、誰に説明してもイメージを共有できないことがわかっているので、大人しく心に留めた。


 だが薬を飲み始めて二週間経った日の朝。ちょうど店休日。蒼は一番最後に目覚めダイニングへと入る。


「おはよう~~~いい匂い~~~」


 朝食はハチミツトーストとチョコクリームがぬられたパンに、スクランブルエッグとカリカリに焼かれたベーコン、塩で湯がかれたブロッコリーがまとめて一皿に盛られてあった。すでに蒼意外は食べ終わっており、レーベンとフィアにはホットミルク、アルフレドがコーヒー、オルフェが紅茶を飲んでいる。


「オルフェが作ってくれたの!? アルフレドじゃなくて!?」

「アルフレドにできて私ができないはずもあるまい。飲み物は何にするかね?」


 ふふっと格好をつけて髪をかき上げているが、蒼は彼の目的がわかっている。


「……劇場代が欲しいって?」


 呆れ顔の蒼にオルフェは臆することなどない。彼は劇場通いにハマっている。この島一番の娯楽だ。チケット代は一枚で小銀貨三枚し、これは蒼の屋台の『甘いもの(天空都市価格で銅貨二枚)』を十五食売った値段である。演目は週替わりなので全部観劇すると一ヶ月で銀貨一枚と小銀貨二枚。蒼は毎月銀貨一枚彼に渡しているので、


「その中でやりくりしなさい」


 という結論になる。衣食住が保証されてのお小遣い銀貨一枚はかなりいい条件だ。


(ヒモみたいになってもね……)


 そんな気持ちもある。


「まあまあそう言わずに。食べてから結論を出してもいいんじゃないかね?」


 愛想よくそっと椅子を引き、蒼を座らせてご機嫌をとる作戦が始まった。アルフレドもレーベンも困ったように笑って見守っている。

 彼が観劇に夢中なことをもちろん全員知っている。なんなら教養のためだからとレーベンを自腹で連れて行っていた。

 劇場に足を運ぶたびに目を輝かせて感想ネタバレを身振り手振りで伝え、蒼達を楽しませてもいる。彼の境遇を思えば今この幸せを十分に味わってもいいのではないかという気持ちも抱いている。だから結局、


『今回だけだよ』


 そう蒼が言うのを待つだけなのだ。蒼もあれこれ悩みつつ、実際のところはそう伝えるタイミングを見計らっている。


「オルフェは兄さまの手伝いをちゃんとしていたよ」


 突然、可愛らしい男の子の声が蒼の耳に届いた。


「え?」


 全員が固まった。蒼が咄嗟に思い出したのはあのテレビだ。一方的に御使からの連絡が入る時にだけ使われるあの。なんせ自分達意外に誰がこの特別な家の中にいるというのか。


 小さな黒い尻尾が揺れている。


「フィア?」


 固まったままの大人に代わり声をかけたはのレーベンだ。


「なぁに? ……あれ? しゃべれてる……」


 フィアの方も驚いたようで尻尾の勢いが増していた。


「しゃべれてる!!!」


 わーいわーい! と嬉しそうにキッチンを駆け回り始めた。アルフレドの方は、


「あ……あ……」


 としか言わない。というより言えないようだ。


『人の言葉を話すようになれば、フィアさんと大犬の境目ができたということです』


 ライルから事前にそう言われていたのだから。つまりこれは分離が始まったということらしい。


「兄さま!」


 フィアはアルフレドの胸に飛び込んだ。兄の方はただギュッと抱きしめている。


「こんな素晴らしいものを見たあとはいいことがしたくならないかい?」


 愛しいものを見るような微笑みをしていたオルフェはハッと我に帰り、蒼に擦り寄る。


「はいはいわかったわかった。劇場帰りにお花買ってきてくれる? 今日はお祝いしなきゃ」


 着実になにかが変わり始めていた。

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