第18話「量子の檻」

「実験開始から7日目、被験者Xの脳波にコヒーレンス異常が見られた」


 シータ・クロムウェル博士は、高解像度ホログラムディスプレイに映し出された複雑な量子干渉パターンを凝視しながら、淡々とログを記録した。彼女の青灰色の瞳には、科学者特有の冷徹さと、何か名状しがたい感情が混在していた。


 「被験者Xの意識は、予想を遥かに上回るスピードで量子もつれ状態を形成している。脳内のミクロチューブル構造が、マクロな量子効果を示し始めている」


 シータは、ナノスケール防護壁を通して隣室を見やった。そこには、超伝導量子干渉計と神経インターフェイスに繋がれた一人の男性が横たわっていた。被験者X——本名アダム・マックス。彼は、人類初の「量子意識転送」実験の被験者であり、シータの婚約者だった。


 「アダム……あなたの意識は今、どんな現実を知覚しているの?」


 シータは小声で呟いた。彼女の声には、科学的好奇心と個人的な懸念が混じり合っていた。


 突如、警報音が鳴り響いた。


 「警告! 被験者Xの脳波が量子臨界点に到達。波動関数の急激な拡散が始まります。現実との整合性が5分以内に崩壊する可能性98.7%」


 人工知能アシスタント"キュービット"の中性的な声が、実験室内に響き渡る。


 「だめよ! まだ実験プロトコルは完了していない!」


 シータは素早く制御パネルに駆け寄った。彼女の指が、ホログラフィック・インターフェイス上を踊るように動く。


 「波動関数を局所化して。シュレディンガー方程式の非線形項を0.03%増加。デコヒーレンス抑制フィールドを最大出力で」


 しかし、システムは彼女の命令に十分な応答を示さない。


 「制御不能……このまま進めば、アダムの意識は……」


 シータの顔から血の気が引いていく。そのとき、彼女の目に、ホログラムの隅に表示された小さなメッセージが飛び込んできた。


 『愛するシータへ。私は今、ヒルベルト空間の無限次元を漂っている。恐れないで。これは終わりじゃない。意識の新たな進化の始まりなんだ。私たちが追い求めてきたがここにある』


 その瞬間、アダムの体を包んでいた量子もつれ場が爆発的に拡大し、実験室全体を包み込んだ。


 シータは目を瞑った。まぶたの裏に、無数の確率振幅が干渉し合う様子が見えた。それは、まるで多世界解釈の全ての分岐を一度に経験しているかのようだった。


 量子場が収束したとき、シータはゆっくりと目を開けた。


 実験室は、驚くほどの静寂に包まれていた。アダムがいたはずの隣室には、物理的な身体は存在しない。ただ、空間にかすかな歪みが残っているように見えた。


 シータは慎重に隣室に足を踏み入れた。そこで彼女は、空間の歪みが微かに意識を持っているかのような存在を感じ取った。


 「アダム?」


 彼女が呼びかけると、周囲の空気が震えるように波打ち、一つのメッセージが形成された。


 『観測者と被観測者の二元性を超えて、私は全ての可能性を同時に生きている。シータ、この世界は私たちが想像していたよりも


 シータは震える手で、そのメッセージに触れようとした。彼女の指が空間の歪みを通過すると、一瞬にして無限の可能性を垣間見た。


 「アダム……あなたは、本当に自由になったのね。でも、それは孤独じゃないの?」


 『孤独? いや、むしろ逆だ。私は今、。そして、


 その言葉を聞いた瞬間、シータの周りの空間が鮮やかに歪んだ。それは、まるで無数の並行世界が、彼女に手を伸ばしているかのようだった。


 シータは深呼吸をして、決意に満ちた表情を浮かべた。彼女の科学者としての好奇心と、アダムへの愛が完全に一致した瞬間だった。


 「私も、きっとあなたに追いつく。そして、この新たな存在の形を人類に伝える」


 彼女は静かに目を閉じ、自身の意識を量子の海へと解き放った。それは単なる実験の終わりではなく、人類の意識進化の始まりだった。


 実験室の中で、世界は大きく変わろうとしていた。


(了)

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