独裁ビジネス

@Salinger0910

形勢逆転

独裁ビジネス


 そこには一匹の肉食獣がほかの草食獣を見らにつけ、おびえさせていた。肉食獣は席の奥に座り、回転式の椅子に座り腕を組んでいる。その高級スーツの下には体格はクマのようにガタイがよく、その青い瞳に苛立ちが募っているのがわかった。

 ローベルト・ヘスを下のほうを見て、心の中でため息をついた。この空気に俺はあとどれくらいつかればいいんだ。

 肉食獣であるアロイス・シュミットは今回の会議で初めて口を開いた。その声にはナイフのような鋭さがあった。「わがヘラクレス社はこの二年間ずっと赤字を出している。このままでは倒産は確定だ。倒産すれば私もだが、君たちもどうなるかは分かっているだろう。この管理社会では君たちは即刻「アットム」送りだ。」そして、そのままの鋭さを声に帯びさせながら続けた。「これはもしかしたら最後の会議なるかもしれん。君たちがこのまま黙ったままであれば、わが社は運命に従うしかない。獲物を待っている肉食獣がどうなるかは君たちは知っているはずだ。」

 「アットム」というのはこの世界では下層世界という意味である。そこには破産したものや犯罪者、精神異常者などが住んでいる。そして、そこに住めばもう二度と出てこれることは皆無に等しかった。仕事は劣悪な環境での炭鉱である。それはヘラクレル社の社員にとって死刑と同じだった。いや、それ以上だったかもしれない。

 あまり自信がないがこのような声が出た。「利権を売り渡し、子会社として存続させるのはどうでしょうか?ちょうど、ルーファニー社が取引に応じてくれる可能性があります。」その意見の持ち主はヨハネス・ベンだ。細身で、眼鏡をかけた小柄な男だ。彼はヘラクレス社の一級幹部であった。

 シュミットはベンのほうをにらみつけこうはっきりした声でこう答えた。「それはだめだ。どのような状況であろうとも我々は子会社には落ちぶれることはないだろう。そのようなことをすればヘラクレス社を創設した先人の顔が浮かばれんぞ。」

 ベンはシュミットの鋭い牙に巻き込まれ、そのまま黙りこくった。

 シュミットはいわゆる古い人間の一人だった。降伏を意地でも認めようとはしない。かつて、存在した組織である軍隊において身に着けた精神である。このクマのような体格をした社長はかつて、世界統一戦争にて将校として最前線で戦った。その時の話をベンは会社の教訓としてのたとえ話や自らの権威を見せつけるために利用した。そして、この時もそれが始まろうとしていた。老人が得意とする昔ばなしだ。

 「私はかつてフランスで小隊の指揮をしていた。1962年の世界統一戦争の時だ。私の部隊はフランス軍に包囲されどこにも逃げることはできなかった。部下からも降伏しましょうとの声が聞こえた。しかし、私はそのようなことはしなかった。ここで降伏すれば、先祖や軍への示しをどうつけることができるのだろう。きっと、死ねば臆病者として地獄送りにされることを信じていた。それは私の信念に反していた。私は皆に武器を持つよう命令し、フランス軍を迎え撃つ準備をしたのだ。すると、どうだ。カエル野郎はまさか反撃することを知らずに油断していたから、私たちの決死の覚悟により敗走したんだ。ここからわかることは最後まで徹底抗戦の意をあらわにしていれば、どのような困難にも勝つことができるということである。」シュミットは少し興奮した様子でそう言った。

 もはや、哀れなベンは何も反撃することはできなかった。まさしく心ここにあらずといった感じだ。

 ヘスは実はというと一つだけこの危機を脱するアイデアを持っていた。しかし、それはこの世界憲法では厳しく禁じられている行為だった。ヘスはこのような考えが思い浮かんだ自分自身をいさめ、顔に出すこともなく平然とした表情で座っていた。彼は内心びっくりした。ヘスは両親や教育機関から自分はこの社会ではどのような人間であるべきなのかを徹底的に教わった。だからこそ彼はかつて大手だったヘラクレス社に模範人間として迎え入れられたのだ。だからこそ、そのような自分がこのような常軌を逸した考えにたどり着くなど考えてもみなかった。

 「社長、この際は事業の負担額を減らしては?そうすれば、一時的な延命処置にもつながり、この事態の対処を考える時間稼ぎができます。」この意見はマルティナ・テレジンのものだ。金髪で官能的な唇を持つ肌白い女だ。彼女も第一級幹部だった。

 シュミットは彼女のエサにも食いつかなかった。わが社の事業はこのままだ。そういって、はねのけた。シュミットにとって重要なのは今、逆転を狙うことである。戦時中のように。どんなに時間稼ぎしようが、最終的にはまた振出しに戻る。ならば、絶対的な打開策を実行に移さねばならない。シュミットの心はそのような決意に固まっていた。

 ヘスは思い悩んだ。今、言うべきだろうか?誰もかれもがこの男の反対にあっている。このままでは文字通りの破滅。彼は心に決めた。もはや、先ほどまでの平然とした顔は彼にはできなくなってきていた。

 「社長。」彼は鋭い声で言った。会議室の全員がヘスのほうに注目する。「少し常軌を逸しているかもしれませんが、聞いてください。わが社には何台かの時間旅行機がありますよね?」

 「ああ、その通りだ。」とシュミット。

 「あの時間旅行機を使い1962年以前、すなわち世界統一戦争前の時代に生き、私は一人の人物を探し出すのです。その人物に私は政治の関心を引き付け、未来投資をするのです。そして、その人物に独裁者になるように仕向けるんです。そうすれば、野心を持ったその人物は領土拡大という野望を全面的に押し出し、戦争を開始するでしょう。そのあとに、破壊された町の人間にわが社が商品を売りつける。わが社は大儲けできます。難民はモノから手が出るほど、商品が欲しいはずですから。」彼は緊張した声でしかしまるで何かを決定したかのような口調で言った。

 あたりには沈黙。会議室の人間は全員、ヘスのほうに注目した。ただ、見ていないのはシュミットだけだった。シュミットはじっと前を見据える。前のほうには一つの絵画がかかってある。中世の騎士が馬に乗りながら、もう一方の騎士に県を降りかかっている。

 シュミットは一瞬、ほほ笑んだ。やっと、自分が求めているような意見が出たのだ。つまり、この八方塞がりの状態を抜け出す方法を。

 「それは不法ビジネスということを君はわかっていっているんだよね。ヘスよ。」彼は微笑を続けながらそうヘスに対して聞く。

 「ええ、わかっています。しかし、このような状況になった以上仕方がないというのが私の意見です。」

 シュミットはさらに聞いた。「もしかしたら、我々は死んだ後も汚名を着せられることになるかもしれないのだぞ。そして、捕まれば死刑は確実だ。」

 ヘスはうなずいた。全身から汗が零れ落ちるのがわかる。返事をしようにもできない。

 「わかった。早速、君には準備に取り掛かってもらいたい。君には時間旅行機を用意しよう。いつの時代にするのか決まっているのかい?」とシュミット。

 「初めての世界大戦の時代です。社長。1914年から1918年のどれか。」とヘスは返答した。

 再び沈黙。

 その沈黙を破ったのはマルティナだった。

 「でも、あの時代は初めて毒ガスや戦闘機、中には飛行船も使われていた時代よ。あんな時代はどこに行こうとも生き残るのは難しいことよ。なぜなら、あの時代は地球そのものが実験台みたいなものだったから。」

 ヘスはマルティナの方見てこう言った。「私は最前線に出かけるつもりはありません。だからと言って、空襲にさらされやすい都市部にもいきません。野戦病院に行くんです。」

 「なぜだ?」シュミットは尋ねた。

 「世界大戦時の野戦病院の記録を見たんです。図書館の。あそこにはすべての歴史の資料が保存されていますから。私は当時の病院の情報を個人的に知りたいと思い資料を見たのですが、そこに気になる人物が記録されていまして。」そこでヘスはこの話の効果を狙いここで一呼吸入れた。「その男は敵軍の毒ガス攻撃を浴び、失明状態だったようですが、精神科医である軍医のおかげで失明状態を克服したようです。その人物は病院内では支配者ぶり、心理学上、権力欲が強い人間であるとのことです。私はその人物と接触をして未来投資と政治の舞台を用意するつもりです。」

 シュミットはただうなずくばかりだった。しかし、それは「よろしい」という合図だった。彼はただ意味もなく相槌を打つ人間ではない。


 それは直ちに開始された。ヘスは会社の地下にあるトンネルの前まで来た。そこには青い制服を着た太った男が腕を組みながら立っていた。その男は時間旅行会社から派遣された時間旅行機操縦士だった。

 「どこの時代をご所望されますか?」少し眠たそうな声で男が言う。

 ヘスは言った。「1918年の十一月に。バーゼルバルク病院。ドイツ東部にある。」

 男は何でそこに行きたいのかは尋ねなかった。男にとってはそのことは仕事上あまり重要ではない。その代わりに男が言ったのは注意事項だった。

 「お客様はあくまで時間旅行者ですので、当時の人物と深く関係を持つことは許されません。また、当時の人物に現在の物品を渡すことのほか、未来のことを教えることも厳禁です。これは世界統一憲法により保証され、違反した場合には死刑のみが適用されます。そのことをご了解ですか?」

 「ああ、わかっている。」ヘスは答えた。

 さらに男はこう説明を続けた。「時間制限は約二時間までとさせていただきます。これも世界統一憲法により決められています。それ以上の時間の滞在はいかなる理由があろうとも許されません。もし、違反した場合には…。」

 「死刑。」ヘスは言った。

 男はうなずき、「その通りです。」といった。そして、こう付け加えた。「時間が来れば、私かほかの誰かが迎えに来ますから、降り立った場所に戻ってください。説明は以上です。」

 ヘスは時間旅行機に乗り込んだ。その椅子は座り心地がよくまるでソファーの上に座っているかのようだった。

 ヘスはその間に自分の服装を確認した。あの時代に合っているかと。厚手の黒のコートに黒い帽子、生地が厚い線の入った黒のスーツ。黒さが混じった赤いネクタイ。まず怪しまれることはないだろう。

 男は操縦席に乗り込み、人差し指で前を指した。出発の合図だ。

 時間旅行機はトンネルを真っすぐ、突き進んだ。

 

 「それでは良き旅を。」男はそう言って、時空トンネルに戻っていった。時空トンネルはすぐに閉じられた。

 そこは辺り一面が野原だった。何もない。ここに例の野戦病院があるはずだ。つまり、例の自我が強い患者がいるところだ。

 ヘスの一体それはどこにあるのだろうかという心配はすぐに消え去った。すぐに歩けば、それはあったのだから。そこはまるで修道院のようだった。実際は戦争が始まる前は修道院だったのだろう。茶色いレンガに先はとがった屋根。世界統一戦争ではもはや、どこを探してもないような代物だった。周りにはレンガの壁に囲まれている。

 「そこの人、何をしているのだね。」突然後ろから声が聞こえた。

 声の持ち主は茶色いう野戦服を着た肌の浅黒い男だった。肩章を見るに陸軍将校の身分だ。その陸軍将校の青い目にはヘスのことをまるで何かの動物だと思っているかのようだった。

 ヘスは自分で声の調子を抑えていると願いながらこう言った。「私はローベルト・ヘスというものです。ベルリンにある医師協会本部から派遣されたものです。実はというと、この野戦病院には一人とても興味深い症状を持った患者がいるとしてそのもの診察に来たのです。」これは彼が前もって用意していた自己紹介だった。そして、彼はその患者の名前を言った。「そのもの名はアドルフ・ヒトラーです。」

 陸軍将校の目にはまだ不審さが宿っている。しかし、なぜここに来たのかは尋ねなかった。この陸軍将校も時間旅行機の男と同様、あまり他人のことなんてどうでもよいのだろう。陸軍将校はただ、「案内致します。」とだけ言った。


 その建物の中にはヘスは少し吐き気がしめまいがした。そこにあったのは人々の唸り声と、どこからともなく現れる叫び声、鉄の匂いに似た血の匂い。これらは安定期に生まれ育ったかれの脳に一気に襲い掛かった。

 しかし、陸軍将校はそのような彼には目もくれずに先に進んでいく。きっと、彼にとってはヘスなど存在しているが存在していないものという感覚なのだろう。

 ヘスは何とか片足を前に出し、なるべく下を見て歩いた。だが、そのようにしても彼の横には杖を突いた兵士や顔を訪台にぐるぐる巻きにされた顔を失った兵士が横を通り過ぎていくのを感じ取ることができた。廊下には血がたまっていた。きっと、手術の時の血だ。この時代には麻酔は終戦の混乱により届くことがなかったということを彼は本で知っていた。さっきの叫び声もそうだ。ナイフにより無理やり内臓から銃弾を取り除いたのだろう。

 「ここです。」陸軍将校は鉄のドアの前に立ち止まりそういった。「ここにあなたの探している患者が収容されています。」

 そのドアは人間用ではなく、まるで何かの大型肉食獣を収容しているかのようだった。陸軍将校はノックをせずにそのドアを開けた。

 「アドルフ・ヒトラー。お前を訪ねにベルリンから医師が来たぞ。」陸軍将校は語気を強くしそういった。

 ヘスの見た光景は野戦病院に入った時とは違う恐怖が襲いかった。そこには一つのベッドに一人の男が仰向けになっていた。最初は寝ていると思ったが、よく見ると目を開けている。ヘスと陸軍将校はその男に近寄り、さらに観察した。

 その男はその時代の皇帝と同じ形の髭を生やしていて、その黒い瞳はただ天井を眺めていた。まるで、その者の前にしか現れない神様と会話しているかのように。髪は黒色で後ろになでつけていたが、どことなく乱れている。この男こそがアドルフ・ヒトラー。我々の独裁ビジネスの役割を担う男。しかし、ヘスの前に姿を現したその男は独裁者どころかどこかの浮浪者のようにさえ見えた。管理社会にこの男を見つけたら必ず世界の人間は一堂にアットムの人間だと思うだろう。

 陸軍将校はヘスにこう説明した。「この患者は今失明中なんです。何しろ、フランス軍と最前線で戦っていた時に伝令の任務がありまして、その時にガス攻撃を受けたということです。」そして、陸軍将校は彼の耳元でこう言った。「彼は非常に我が強い人物でして大変なる反ユダヤ主義です。前なんか、隣の患者がユダヤ人ということを聞くと、暴れまわり、自らの政治思想を声高らかに叫びたてました。だから、これ以上のトラブルが生じないように彼だけは特別室に収容しているんです。」

 ヘスはその説明を受けてその男の顔をもう一度見つめた。肌は白く、口元を見ると何かをぶつぶつ言っている。

 「それでは私はこれにて失礼します。」陸軍将校はそう言って、この部屋から出て行った。部屋にはヘスとヒトラーの二人きりの空間となった。

 ヘスは近くにあった木の椅子をベッドの横に寄せ、座り込んだ。椅子は彼が座り込むとぎしぎしとなった。彼にはこの音が聞こえているのだろうか?さっきの陸軍将校の会話も、この野戦病院の兵士の唸り声も、医者の会話もすべて…。だったらなぜ襲ってこないのだろうか?自分の目の前で医者たちが自身の対処について話し合うということはどれだけの屈辱なのか。しかし、彼は暴れない。隣にユダヤ人がいるときは何かにとりつかれたかのように暴れだす。何かをされたのだろうか?例えば、そのガス攻撃をした相手がユダヤ人だったとか。学生時代にユダヤ人の生徒か先生にいじめられたとか。はたまた、ユダヤ人のせいで親や兄弟が殺されたとか…。彼は頭の中で分析したがそれは無駄だと思いすぐに中断した。今、やるべきことは制限時間内にヒトラーにこのビジネスの意欲を沸かせること。

 ヘスは小声でヒトラーの耳元でささやいた。その口調は堅苦しさを感じさせるほどに聞こえるものだった。「私のことが見えるかね。」

 ヒトラーは何も反応しなかった。ただ、独り言をつぶやいていた。

 ヘスは次の質問をした。「君の階級は?」

 ヒトラーはこの質問には反応した。「上等兵だ。伍長代理上等兵。」

 「どこで戦った?」

 「ソンム、パッセンデールで戦った。最後はどこで戦ったかはわからない。が、フランス軍にガス攻撃を受けた。それで目が見えなくなった。」ヒトラーは小声だが、はっきりと聞き取れる声で言った。だが、その声にはかすかに熱がこもっていた。

 「なぜ、軍に入ったんだ?」ヘスはさらに質問を続けた。

 ヒトラーはこの質問に少し間を置いた。そして、目が見えないはずなのに彼のほうに顔を向けてこう言った。「奴らが憎かったからだ。」

 「え?誰を?」

 「奴らだ。書斎の前でずっと座りながら、突き出た腹を撫で、下品で低俗な雑誌を毎日読みふける毎日を送り、さらには金をせしめようとする種族。奴らはドイツ人の生き血を吸い、貧乏な哀れなる民衆からさらに金を奪い去ろうとする。奴らは世界中にいる。そして、皇帝や政治家を買収し、世界を庭にしようとたくらんでいるのだ。」ヒトラーはそう言い終わらないうちにベッドから立ち上がりこう続けた。「私はずっと戦い続けてきた。社会の泥の中をずっとはいつくばってきた。そこで見えたのは恐ろしい光景だった。戯言ばかりを吐き出す共産主義者やユダヤ人に騙された哀れなる婦人たち。餓死寸前の子供。そこらじゅうで闊歩する強盗団。私はそのような世界で暮らした。そして、私は考えに考えた。なぜ、このような現状に陥っているのだろう。偉大なるドイツ人の作り上げた素晴らしき帝国はなぜここまで腐敗し堕落したのだろう。」ここでヒトラーはこのヘスしか聞き手のいない演説に磨きをかけようと一拍をこう言った。「それこそがユダヤ的共産主義だったのだ。奴らは帝国の産業に寄生し、事業を独占しドイツ人を奴隷として働かせ悪の帝国を築こうとしている。この戦争もその計画の一部だったのだ。ドイツやフランスなどの国家を戦争で疲弊させ奴らはその汚らしい口から吐き出される言葉により弱り切った世界産業を独占しようとしているのだ。」ヒトラーはヘスの前に立ちそういった。最後のほうはオーストリア訛りが強くて聞き取れなかったが、その言葉には先ほどの弱り切った姿からは想像できない力があった。

 不思議にもヘスはこの負傷兵の演説にちょっとした高揚感を覚えた。まるで、ロックミュージシャンのコンサートと同じような感覚。彼は少しそこで放心状態に入った。熱気の後の放心状態。ヒトラーには人を動かす力がある。かつての中世的な手段ではなく現代の民主的な方法で。しかし、彼には少し恐怖も芽生えていた。ヒトラーの唱えるユダヤ人の産業独占論。今彼がやろうとしているのと同じことをこの男は言っているのだ。ヘスはユダヤ人ではなくドイツ人だったがそれでも彼の推測にはいささかの恐怖心があった。

 「君の今の話を聞いている限り私も君の意見には賛成だ。ユダヤ人はどこまでも汚らしい商売人であり、それは疑う余地がない。」そして、こう付け足した。「君はこのまま軍人として生涯を終えるよりかも政治家に転身したほうが良いと私は思う。」ヘスはヒトラーにそう言った。

 この言葉にヒトラーは眉間にしわを寄せ、少し戸惑った様子だった。「私はそのようなことには向いていない。私は誰かに付き従いそのものの通る道を開拓する役目が最適だ。」

 「私はそうは思わない。今の政治家は主義主張というものはない。今、国家の中枢にいるものはどういう存在か知っているかね。この意見に賛成していれば、いくらの金が入ってこれるだろうかとか夜はどの女と寝ようかとしか考えていない。それに対し、君は自らの考えをしっかり持っている。しかも、その考えを言葉に表しさらにはあれだけの熱気意を帯びている。」さらにこう付け足した。「誰かに付き従う‥。君は人ではなくドイツというものに付き従うべきだと思うがね。」

 ヒトラーは沈黙している。明らかに続きを聞きたがっている。

 「アドルフ・ヒトラー。君はこの偉大なる帝国がただユダヤ人や共産主義に侵されるのをずっと指をくわえながら待っているのかね。暗黒時代でも沈黙を守り続けるつもりか。確かにドイツ帝国はもう終わりだ。君の生まれ育った故郷であるオーストリアも救いようがない。だが、君はそれを復活できる力を持っている。わかるかい。私の言っていることが。君は偉大なる創造民族であるゲルマン人の血が流れている。その地を奮い立たせるんだ。先人の守ってきたものを守り通すんだ。君には力があり、その力をすべてのゲルマン民族に与えるんだ。」

 この言葉に彼は少し顔をゆがめた。しかし、それは不快感から来たものではない。感動しているのだ。彼は目にたまった涙を袖で拭い去る。「ああ、確かにあなたの言うとおりだ。このまま傍観者になってはいられない。ありがとう。あなたのおかげで私の道は開けたようだ。あなたのことは永遠に忘れないよ。次に会うときは有名になっているはずだ。」

 ヘスはヒトラーに対し微笑んだ。友好のしるしだ。

 

 ヘスはヒトラー専用の特別室から出て、まっすぐに外に進んだ。彼には一つヒトラーの噓を見抜いた。それは失明というものだ。ガス攻撃を受けたかどうかはわからないが、それでも失明はしていないということが分かった。ヒトラーが彼の顔を正確な方向で見て話したのがその証明だ。ならば、なぜ失明などと偽ったのだろう。戦場にうんざりしたからか?毎日、毎日、塹壕の中で砲撃な銃撃の音を聞くのにうんざりしたからか?いずれにせよ、そのようなことはどうでもよい。あとは彼に独裁者になってもらうだけだ。残酷であればあるほどいい。だが、自国民には優しくなければならない。さもないと、反乱を起こされて独裁体制は終わりだ。

 彼は来た道を戻り始めた。その道も行きと変わらず包帯を巻いた兵士や手術の苦痛に苦しんでいるものの叫び声がする。しかし、彼はもう顔を下に向けずに済んだ。そのような光景は慣れたのかもしれないし、もしかしたら、ビジネスがうまくいったことへの安堵からなのかもしれない。だが、きっと後者のほうが有力だろう。

 ヘスは野戦病院から果てしないうんざりするほどの広い野原に出た。もうそろそろ制限時間だ。目の前にトンネルが現れあの太った神経質そうな操縦員が出てくるはずだ。

 それはその通りとなった。時間旅行機が時空間トンネルを使い現れ、あの操縦員が降りてきた。

 「お忘れ物はございませんでしょうか?」行きと変わらぬ口調で操縦員は聞いた。

 「ああ。」彼はそう言い、うなずき時間旅行機に乗車した。

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