第36話 一人目の婚約候補者

  楓が早朝にリビングに入ると、カタカタとキーボードを叩いている蒼汰がいた。

 どうやら、何かのチャットをパソコンで流し込んでいるようだ。

 

「おはよう、蒼汰。って、早いし珍しいね。リビングのパソコン使ってるんだ?」

 

「うん……楓、おはよう。そうなんだ、僕のパソコンが、ちょっと調子が悪くなったから買い替える予定でさ。それで、仕方なくここで調べものをね」

 

「へぇ……」

 

 近くなった横顔に少しだけ耳を赤くする。バチッと視線が合い、先日の頬へのキスの件を思い出し、頭から取り払うように楓は首を振った。誤魔化すようにさらに質問を投げかける。


「調べものって?」


「ちょっとやることができてね。親父に連絡をとったら、条件を出されちゃって。なんと、あのアルハザートに勝たなきゃいけなくなった」

「えっと何て、アルハ……?」


 いつかどこかで聞いたことがある、あれは悠との会話だったろうか。

ライバルのユニットがいて、そこに勝つのが悲願だとかいっていたような。


「アルハザート、僕らより人気のユニットだよ。ボーカリストが由良咲也、っていうね……本当に困ったもんだよ、僕がやる気になったからって本当に無茶をいってきて……どこから手をつけたもんかなあ。何か妙案ない? 楓」

 

 自分とは違い平然としている蒼汰が憎らしくすら思える、彼はポーカーフェイスなのだろうかと楓は困惑しながら口を開く。


「ごめん……わかんない。アルハザートさんも由良さんも詳しく知らないもの……」

 

「……そう、だよね。『由良を知らない』んだったね。君はずいぶんと他人事ひとごとだと思ってるけど……これは僕だけじゃなくて君にも関係することなんだ。そうそう、ついでに聞きたいことがあったんだけど――さて、このボーカリストの男性に対して、どう思う?」


 楓はパソコンの画面に映っている由良の画像をじっくりと眺めた。

長身に加え黒々とした髪の毛、艶肌もよく陰りがある。控えめにいって、ずばりイケメンというやつである。

 

「えっと、へえ、そうなんだーと……」

「あえて聞くけど君の好み?」

 

「好みかといわれると、すごく難しいけど……少し近寄りづらさと怖さは感じるような」

「……明言を避けたね。一癖あるから彼に対しての評価は当たらずとも遠からずだけど」

 

「どういう意味?」

「いつかの話を覚えてる? 君の婚約者候補”たち”を説得する、っていう」

「うん、それがどうかした?」

「由良咲也、候補者のうちの一人が彼だ。せっかくだから、この機会に伝えるね」

 「――え!? 嘘でしょう、この人が!?」

 

  信じられない、どんなスペックの人たちを集めたんだろう。

これはあの日、全力で逃げ出してよかったと楓は心から思った。

 

「嘘じゃないよ。以前、僕は君に伝えたけど、候補者は別に悪い条件じゃないっていっただろ。条件だけでみれば」


「いったけど、悪い、っていうより……。それより、どうして突然、婚約者候補について教えてくれることになったの?」

 

「君のあずかり知らぬところで、他の人も君の父親も婚約の事に向けて動いてる。だから、それで大事なことを情報共有しなきゃと思って。まあ、それはともかくとして伝えたいことは三つある。君の父親から僕へ直接コンタクトがくることになった、これが一つ目」

 

「なんで、蒼汰が私のお父様とやり取りするの?」

 

「伝手があってさ。そこはいいとして、二つ目は候補者たち三人がそれぞれ辞退するのであれば、結婚話そのものはなくなる。誰とも結婚したくないんだったら、君はこの線を狙うしかない。最後の三つ目は――楓自身がしかるべき婚約者を決定するのであれば、その時点で他の人とのお見合いの話はなかったことになるってこと」


「ちょ、ちょっと待って。要約してほしい……つまりは?」

 

「全く仕方ないなあ。候補者全員を説得して辞退させるか、君自身が候補者の中から一人を選べばいいってだけの話」

 

「なるほど……」

 

「というわけで、君は辞退を説得する相手として、この由良咲也がいるから覚えておいてね?」

 

「でも説得する、っていったって残りの二人については?」

 

「一人は辞退済みだ……った、けど、そこについてはおいおい伝える。もう一人の名前を告げるには――今はちょっと問題がある。うん、色々とね……。頭の片隅に置いといて。そのうち話すから」

 

 蒼汰からの答えを明らかに回避された。

 

「それで、どうして蒼汰はどういう伝手で――……」

 

 その言葉の途中で、リビングへの扉開かれ中断した。誰かを確認すると、淳史と悠だった。

 

「蒼汰と楓、おはよう。ってか早すぎじゃない?まだ6時なんだけど」

「おはよう、って本当に早すぎるだろ……蒼汰、注文したパソコンは明日届くってさ」

 

「ありがとう、悠。じゃあ、楓。僕もちょっと調べものと対応で忙しいから、しばらく君とは練習はできない。だから、他をあたってくれる?」


「そうなんだ、ちょっと寂しいね」


その言葉に、蒼汰のキーボードを叩く手が止まる。


「……寂しい、んだ? 僕はこれから本気でかからなきゃいけない他の大切な仕事があるからね――……じゃあ、今度ゆっくりと話そう」


 そうして、楓の頭を優しく撫でるとふっと蒼汰は目を細めて笑った。

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