第32話 酒は飲んでも吞まれるな

「おはよう。楓っち、もう防音室にいたのか」

 

 翌日、淳史からそう声をかけられ、楓は防音室の入口を見やった。


 時計をみると、時間はすでに正午を回っている。

 というより、すでに夕方に近い。


 おはよう……? と、そこを突っ込むべきかどうかを迷い、無駄だろうと流した。

 

「ええ、最近は霧崎さんから譜面とCDを貰ったんで、弾いてみようかと」

「あ、それか。なかなか名曲だよな、それなら聴きたい。弾いてよ」


  そういわれ、楓は鍵盤の上で滑らかに指を弾き出す。

煌めき響く音の心地よさが、澄んだ川の流れのように周りを覆った。


 部屋に満ち足りた旋律は耳心地よく、思わずより耳を傾けるため淳史は瞳を閉じる。ふいに指を止め、なるほど、これはいいメロディだと、双方ため息を漏らした。

 

「うん、確かに。ってか、思ったより弾けるね……?」

「簡単なのはこの曲だけで、あとはちょっと練習しないと難しそうですけどね」


「へえ?」


「霧崎さんいわく、伸びしろはあるからもっとやってみろって。せっかくなんで、僕も練習してみようかと思って」


「あの霧崎さんがぁ? それなら、いいんじゃない? 俺にも手伝えることある?」

 「……ええ? 特にはないですね……もしかして、淳史さん、ピアノが弾けるんですか……?」


「楽譜読むなんてムリムリ! 手伝えない、ってなんかそれも寂しいな。他のヤツとは練習してるのに、俺だけのけ者? 弟がいたらって思ってたから余計にその距離はなぁ……」


 肩をさっと抱かれ、グッと息をこらえた。そんなことはない、どちらかといえば比較的、淳史とは練習していると思うが、このようにいちいち近すぎるのだ。


「いやいや、そんなつもりじゃないんですけどね。じゃあ、淳史さんもピアノ弾きます? 教えますけど」


 さりげなく距離を置きつつ、楓は淳史を見やった。


「いやー……、そういうことじゃなくって。なんかちょっと他のヤツらに比べると俺に対してやたらに距離があるんだよねぇ? だから、寂しいよな」


「そう、でしょうか? 全くそんなつもりはありませんが」


 再び距離を詰められ困惑する。このように相手は異性であることを念頭に入れてないため、こちらに対してどうも同性相手であるように接してくるが、楓にとってはそれどころではない。ゆえに、バレないようひたすらに警戒しているのはあるが、その対応はさして顕著にでてないはずだ。


 しかしながら、こうして何度も強調するくらいに、淳史にとっては嫌なのだろう。ぶつぶつといいな、いいなと呟くが、そういわれてもどうしたものか全くわからず返す言葉につまるばかりだ。


「そうだ! 楓っち、お前……酒を飲んだことあるわけ?」

「ないです、けど?」

「よっし!」


 そういって腕をむりくり掴まれると、リビングに連れだされ、楓はグラスを渡された。


「飲もうぜ!」

「え、でも……飲んだこと、ないんです。本当に。だから、何が起こるか、わからなすぎて……ちょっと怖いですね」


「大丈夫、大丈夫!俺がいるしさ。飲もうぜ! 人生は何事も経験、って。ほらほら、まずはチューハイから、次にビール。飲めるなら焼酎やウイスキーも!」


 だからこそ怖いのだが、ということはできなかった。


 淳史に注ごうとするも断られ、あれよあれよという間に淳史は楓のグラスにチューがハイを注いでいく。シュワシュワと音を立てているが、ほんのりとアルコール臭が漂ってきた。


 どうも不安しかなかったが、飲まずにこのまま乗り切れる雰囲気でもない。そして、何よりも飲んだことがないお酒というものは、一体どのようなものかを知りたい好奇心もあった。だが。


「あの……やっぱり、止めときます」


 不安が込み上げる。

押して返そうとしたが、満面の笑みで拒否された。

 

「大丈夫! 絶対!」


 ここまで不安を駆られる大丈夫、はそうそうない。

けれども、逃がしてくれそうにない。そうして、意を決して縁に口をつけると、楓はぐいっと思い切り飲み干した。

 

 ********


「おかえり――悠!」


 その声で悠は手に持っていたカバンを思わず落とした。


 相当に酔っているのか、リビングの中央にいる淳史の上半身は裸になっている。その横にはソファーの下で倒れ込んでいる楓の姿が――……

 

「は!?」

 

 予想外の光景で、何が起こったのかを理解しがたい。

 

「淳史、お前――なんで脱いでるんだよ!?」

「えっと……楓っちと飲んでてね、ちょっと暑くなっちゃったし」

「暑い? 顔が赤いし、さては相当飲んだな? ってか、いまは淳史と楓だけ? 蒼汰はどこにいるんだ?」


「わかんね。朝どっかにいっちゃって、そのまま。ずっといないしせっかくだから、楓に酒でも付き合ってもらおうと」


「……なんて、ことを……」


 悠は顔色を真っ青に変えながらソファーの下の楓にかけよって、傍らに座った。改めて見返し確認すると、幸いにも楓の着衣は乱れていない。


「楓! 起きろってば、これはどういうことだよ!」


「いやー、楽しい時間だった。飲んだことないっていうからさぁ?さっきから、いい飲みっぷりだったよ? 途中でこと切れたけど」

 

「いやいや駄目だろ! おい、生きてるか!?」

 

 叫ぶように声をかけたが全く反応がない。不安になりそっと抱き起こしてみると、すうすうと寝息をたてている。なるほどどうやら、ただ寝ているだけのようだったかと、悠はそこでようやく、少しだけ心が落ち着いた。

 

「ええ……なんで、そんなに焦るんだよ。そりゃ最初はチューハイだったよ? でも途中で間違えちゃって……ちょっと度数が高かったみたいなんだよね。酒くらい大丈夫でしょ~? どうせだから、悠も飲む?」

 

 淳史はお酒の入ったグラスを片手に、バンバンと悠の背中を叩いて、ケタケタと笑い声をあげた。

 

「いらないなら俺が飲んじゃお」

「俺はいい、それよりも楓だ」


 楓の様子を大丈夫か、本当に寝ているだけか再び確認する。顔は青白い様子もなければ、やはり息も安定している。どこまで飲んだかは不明だが、緊急でかけこまなければいけないワケではなさそうだ。


 「……よかった、マジで驚かせるなよ……淳史、お前も飲みすぎだ。吐いたらどうするんだ?」

 「その時はその時じゃないか? 人生は何事も経験、って」

 「そうなったら自分で片づけろよな」

 

 唯一、この状況の淳史を止めれそうな蒼汰はいつ帰るのだろうか。

 ひとまず、グラスに水を注ぎ淳史へと渡そうとした。

 

「淳史。とにかく、水を飲め。明日二日酔いになるだろ」

「いいって、なったら寝てればいいし。お腹いっぱいで水も飲めない」

「酒は飲めるにか? ほら」

 

 そのグラスを淳史は振り払い、悠たちがいたリビングの床にばしゃり、と音をたて水がかかる。アクリル製のグラスは割れずに弾んで倒れる。


 足元で眠っていた楓のシャツにもその水が思いっきりかかってしまい、床一面に水たまりがひろがっていった。


 「あーあ、可愛そうに。楓っちに思いっきりかかったな……。こりゃー着替えないと駄目だろ」

 

 ほどよく酔いが回った、回りすぎた淳史は何も考えていないかの様子でそう言い放ち、さも当たり前のように楓の袖へと手をかけた。

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