ネオン・シャドウ

藍﨑藍

#1

 シャドウタウンの夜は重く濃い。排気ガスや腐臭が入り混じり、光の届かない夜の街に野良犬の遠吠えが響きわたる。ふらりとそこへ迷いこんだ人物を待ち受けるのが物乞いであれば、まだ幸運な方だ。身ぐるみを剥がされ明朝には死体となって道に転がることも珍しくない。


 霧島きりしまはバラック小屋が立ち並ぶ通りを進んでいた。足を踏み出すたびに薄汚れたコートのすそがひるがえる。道路の端で死んだようにぼろ布にくるまっている男を一瞥し、今日もシャドウタウンを闊歩する。


 寒風が吹きつける中、霧島は崩れかけの建物に足を踏み入れた。壁は排煙で黒く汚れているだろうが、夜の闇に紛れて判別はつかない。


「マスター、いつもの」


 霧島が勢いよく椅子に腰を下ろすと、薄暗いカウンターの中で初老の男が欠けた歯を見せてにやりとする。切れかけの電球に、ねずみやゴキブリの行き交う店内。清潔感の欠片もない飲食店は都市部の人間であれば忌避しそうだが、こんな店でもシャドウタウンの住人が愛してやまない場所の一つである。夜の闇に引きずりこまれそうになったとき、光のある場所は良い。酒で体を温め、心を癒し、また各々の寝床へと帰っていく。その様子はさながら誘蛾灯のようだ。


 店主は音を立てて霧島の目の前にコップを置いた。指紋のついたグラスを勢いよくあおり、霧島は顔をしかめる。「また薄めたか」


 元々薄い酒だったが、もはや水のようなジンだ。これでは体を温める足しにもならない。


「うるせえ、文句があるならとっとと帰れ」


 霧島が肩をすくめて右を見ると、二つ隣に少年が座っている。もちろん店に入ったときから気がついてはいたが、意識しないように振る舞っていた。


 まだ十歳前後といったところだろうか。シャドウタウンの住人にしてはこざっぱりとした風体で、特有の脂っぽい臭いもしない。一重の切れ長の瞳に薄茶けた髪。少女と見まがうほど整った顔で、じっと霧島を見つめていた。


「ここはおまえみたいな子供の来る場所じゃない。酒を飲む大人なんてろくなものじゃない。逆恨みされるのが関の山だ。さっさと帰って真っ当な方法で稼ぐんだな」


 霧島がしっしと手を払うと、少年は擦れたようなずる賢い表情を見せた。


「何でも引き受ける用心棒ってのはあんたのことか」


 霧島は大きくため息をついた。少年の動きは滑らかで音がほとんど立たない。気配の薄さと獲物を見定めるような集中した注意の向け方。過去に何度もこの手のやからと対峙したことがあり、少年の生業は容易に想像がついた。


「おまえがスリで生計を立てているように、俺は俺のやり方で金を稼いでいるだけだ」


 シャドウタウンでは都市部とは比べ物にならないほど犯罪が多い。それにもかかわらず、当局や司法の目は届かない。いわば無法地帯と化したシャドウタウンで、霧島は住人から依頼を受け報酬を得る生活をしていた。霧島のことを探偵と呼ぶ者もいれば、用心棒と呼ぶ者もいる。命を危険にさらす仕事だが、その分稼ぎは悪くない。


「今日からここは少年の狩場か? マスターがよく許したな」


 都市部の常識では、少年を警察に突き出したり教え諭したりすべきとされるだろう。だがここはシャドウタウンだ。生きるためには犯罪行為もやむを得ない。自分が被害に遭ったわけでもないので見逃すことは構わない。とはいえマスターが事情を知った上で少年を迎えたのはいただけない。批難がましい目で五十代の店主を見ると、彼はどこ吹く風でコップを拭いている。


「迎え入れた覚えはない。ただ、ここで待っていればおまえに会えると教えてやっただけだ」


 教えたというよりは、情報代と称して少年から金を巻き上げたのだろう。シャドウタウンでは無償奉仕は存在しない。ここの住人は今日明日を生き延びるため、売れるものは何でも売る。とりわけ情報は高く売買されるものの一つだ。


 我関せずといった様子のマスターはすでに少年から興味を失ったらしい。霧島は声をひそめて少年に向き合った。「俺に用があるんだな」


 カイと名乗った少年は大きくうなずく。


「母ちゃんが消えた。探してほしい」


 *


 カイの母親・ハナは都市部に近い歓楽街で働く高級娼婦だという。都市部では卑しいとされる職業だが、ここでは女性が股を開いて金を得るのは常套手段の一つだ。


「父親はどこの馬の骨とも知れない客としか聞いてない。今さら父親なんてどうだっていい。でも僕には母ちゃんしかいないんだ。たった一人、母ちゃんだけが僕の家族だ」


 一週間ほど前、カイを置いて仕事へ向かったハナはそれ以来消息を絶っている。いつもと違う様子はなかったかと尋ねるも、カイの返答は要領を得ない。困り果てた霧島はハナの写真を受け取り、手がかりが無いに等しい状態でハナを探すことになった。


 次の日、カイの家やハナの働く店の付近で情報を集めようとしたが、どれも小さい銅貨を減らすだけで終わった。ハナが姿を消してからかなり日数が経っている。人の記憶は当てにならないし、すれ違った人間を覚えている方が珍しい。それにカイも同様のことは一通りやっていただろう。


 日はすでに傾いている。霧島はまぶしい西日に目を細めた。東の空では昼を夜が食い始め、怪しげな闇を背景に摩天楼が立ち並ぶ。夜になるとネオンシティは一層その輝きを増す。その名の通り、街全体がネオンライトや電球で輝くためだ。遠くに見える一等高い建物こそ、ネオンシティの中核を担う市庁舎である。


 そもそもシャドウタウンとは正式な地名ではなく、ネオンシティという産業都市の一部にすぎない。長年にわたり国内外から多くの人間が流入したこの都市は、十年前の戦争によって焼け野原と成り果てた。そこから奇跡と言えるような急速な復興と発展を遂げ、ネオンシティは今や国内有数の都市である。


 だが、都市機能の集中したシティと呼ばれる中心部とその西部には大きな隔たりがある。中心部と西部は壁で区切られているわけではなく、行き来することは自由だ。しかし都市部の人間は決して近づこうとしない。低所得者層や他都市から来た不法滞在者の巣窟。治安の悪い無法地帯。働くこともせず税金を消費する社会のお荷物。そういった揶揄と侮蔑をこめ、この辺りはいつしかシャドウタウンと呼ばれるようになった。光り輝く都市の影に存在する、社会の汚点として。


 霧島のコートのポケットには一枚の金貨が入っている。カイから手渡されたそれは、重量と貨幣の価値以上に霧島の心を重くする。霧島は仕事に対して報酬を要求するが、相手の懐事情に合わせて請求している。子供相手にそこまで吹っ掛けるつもりはなかったが、カイは「霧島が断るなら他を当たる」と言って聞かなかった。


 戦争で家族も倫理観も全て失った自分は、真っ当な人生を歩んでいるとは到底言えない。だがもっとろくでもない輩はごまんといる。年端も行かない少年にそんな奴のところへ行かれるくらいなら、自分が引き受けた方が良いだろう。そう考えた霧島は、二枚差し出された金貨のうち一枚だけを受け取った。


 夜の近づくシャドウタウンは一層冷えこむ。強い風に身を震わせながら歩いていると、細い路地にこの辺りの住人が肩を寄せ合って座っていた。ここでは何日も体を洗わないのが普通なため、冬にもかかわらず汗や脂のすえた臭いが淀んでいる。


 体格の良い霧島を真正面から襲う輩は多くない。しかし一瞬でも隙を見せれば格好の餌食になるだろう。もの言いたげな視線に気づかないふりをしながら、無言で彼らの前を通り過ぎる。


 無人の通りを歩いていると、風に吹かれて霧島の足元に何かが飛んできた。拾い上げた紙には「シャドウタウンに光を」という文言とともに現市長の写真が印刷されている。霧島が無感動に指を離すと、チラシはひらりと冬の風に舞い上がった。


 闇に紛れて消えたチラシに思いをはせることもなく、辺りを注意深く見回し細い路地に体を滑りこませる。その場にしゃがみ込んで捨てられた段ボールの山をかき分けると、小さなボタンとカメラが現れた。霧島はボタンを押して話しかける。


「俺だ。開けてくれ」


 カメラがきょろりと目のように動き、スピーカーから声が聞こえてきた。


「俺は今忙しい。他を当たってくれ」

「ここに金貨があると言ったら?」


 霧島はカメラに映るよう、ポケットから金貨を取り出す。暗闇の中だが暗視カメラか何かでこちらの様子は見えているだろう。


 盛大な舌打ちとともに鍵の開く音がした。すると古ぼけたビルの壁が割れ、扉のようにするりと開いた先に地下へと続く階段が現れる。階段を下った先の扉を開くと、壁沿いの棚にはぎっしりと本が詰まっており、奥には何台ものディスプレイが並んでいる。その前の椅子に座って頭の後ろで手を組んだ人物こそ、霧島の仕事仲間にして友人のグエンである。


「仕事を頼みたい。さっきも伝えたが破格の案件だ。取り分はこれの半分でどうだ」


 手に持ったままの金貨を自分の顔の横で揺らすと、グエンは警戒心を隠そうともせず冷笑した。


「仕事は選んだ方がいいぜ」

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