季節の風

森音藍斗

季節の風

 頼んじゃいないのに冬は来る。

 頼んじゃいないのに風は吹く。

 頼んじゃいないのに季節は過ぎる。

 頼んじゃいないのに世界は回る。嘘ばかりの僕を置き去りにして。


   **


 黴と煙草の匂いの部屋でも底抜けに明るい音を見つけたくて、安いギターを抱えていた、記憶は午前二時の時計を見たところでふつりと途絶えていた。

 気づけば狭いベッドの上で、掛け布団と僕とギターが馬鹿みたいに雑魚寝していた。君みたいなメロディが閃いた気がしたのは、果たして夢の中だっただろうか。君が笑ったのは僕の夢の中だけだったのだろうか。外では風がごうごうと怒鳴っていた。まともに布団も被らず変な寝かたをしてしまって、体中が痛くて寒い、それでも重い腕を何とか動かしベッドの上を探り、ようやくギターの下から掘り出した携帯電話が示す時刻は午後二時。約十二時間の睡眠。絶望感。ついでに君から数多のメッセージと、通話の不在着信。

 僕は冬を憂うので精一杯なのに。

 開けっぱなしのカーテンの間から覗くのは彩度の低い寒空でも、窓辺に揺れる木漏れ日はうるさくて、僕は冷えた足先を布団の中に匿って胎児のように凍えてみせる。痺れるように痛む膝関節に、世界は平衡感覚を失う。エアコンは天井付近を一生懸命暖めるだけで、喉が痛いのは空気が乾燥したせいだった。

 時が止まればいいと思った。

 君は僕が電話嫌いなことを知らないのかもしれない。掛け直すべきかと悩むのが嫌だった。しかしもっと嫌なのは、鳴り響くコール音を聞きながら、手の平にバイブレーションを感じながら、画面上に表示された緑と赤のふたつのボタンのどちらを選ぶべきか迷っているあの時間。着信が知らない電話番号からだったときは余計にだ。掻き立てられる焦りのうちにコール音が途絶えると、安堵と自責が同時に襲ってきて、携帯電話を水没させたくなる。

 あ、今、ちょっと携帯壊れてて。

 すみません、連絡取れないんです。

 電話いただいても出られないので、メールください、パソコンで見ますから。

 若しくは携帯を横断歩道の真ん中に置き去りにして、車に轢かせるんでもいい。あるいはベランダから遠くの景色を撮ろうと外に突き出し、手を滑らせる。

 だが、こいつがないとやっぱり困るのでしない。

 となれば、不在着信であるだけまだましだった。過ぎた罪はもうどうにもならない。僕はボタン一つで携帯を閉じた。

 ついでに目も閉じれば薄情なまでにあっさりと、ひとりぼっちになれる世界は優しい。そして同時に残酷でもあって、目を閉じたって時は止まってくれないことに鑑みると、どうしても、それは残酷にしかなり得なかった。

 あわよくば時間が巻き戻ってくれればいいなんて願いは叶うこともなく、こうしている間にも一分一秒、

 玄関のチャイムが鳴ったのは、ちょうどそのときだった。

 電話の着信より嫌いな音だった。




「何しに来たんだよ」

「いや、流石に期末試験に無断欠席されたら心配するだろ。事故ったかと思ったぞ」

 体を起こすのですら億劫な、こんなときに訪問客なんてと思いながら開けた扉の向こうにいたのは知った顔で、気が抜けたのか、馬鹿みたいなくしゃみが出た。

 マフラーを外す君の髪はぐちゃぐちゃだった。

「すごい風らしいな、今日」

「春一番かもしれない」

 底冷えする一月末。君が手櫛で髪を撫でながらそう言うのが、あまりにも可笑しかった。

「まだ当分は冬だろう」

 自分がまだ笑えることにほっとした。無造作に酷使してしまった喉は痛かった。

 君は当たり前のように僕の部屋の食器かごからマグカップを出して、水を注ぐ。

「ん」

 黙って差し出されたそれを、僕はやはり黙って受け取った。

「風邪ですって顔してんなー」

 言われるまで、自分が風邪を引いている自覚がなかった。

「風邪か」

「何だと思ってたの」

 何だと言われれば――

「怠惰?」

 ばーか、と今度はこちらが鼻で笑われる。

「お前は怠惰を理由に試験をサボるのか」

 イエスと答えても君に共感してもらえないのは分かりきっていたので、僕は曖昧に笑って終わらせた。

「この部屋、体温計ある?」

「そっちの、いちばん下の引き出しに、確か」

 君とは大学に入って知り合って、まだ一年も経っていないけれど、予告なく汚い部屋を訪問されても、前回いつ開けたか記憶のない引き出しを見られても構わないほどには気を許していた。

 君が出してくれた体温計で計った熱は三十八度を超えていた。

「病院の診断書があれば追試験受けられるって聞いたことがあるけど」

と携帯を開き、ご丁寧に大学公式サイトで確認しようとしてくれる君に、僕は待ったをかけた。

「いいよ、来年また履修し直す」

「もったいないじゃん、せっかく講義ここまで出席してきたのに」

 出席だけはしていたけれど、碌に聞いていなかった授業だ。今の僕に、追試を受けるようなモチベーションはなかった。しかしそれは風邪で体が重いからかもしれなくて、喉と関節と頭の痛みさえ取れれば、案外けろっとしているのかもしれない。

「でも病院代高いじゃんね、自然治癒したい。寝てれば治るだろ」

「お前の風邪の治しかたはお前のほうがよく知ってるだろうから、何も言わないけどさ」

 君が引き出しの前から立ち上がる。

「風邪薬ぐらい買ってこようか? あと、何か食べるものとか。コンビニのお粥とか」

「いや、いい」

と立ち上がりかけた君を断ったのは、食欲がないからではなかった。

 薄情なまでにあっさりと、ひとりぼっちになれる世界が怖かった。

 ひとりぼっちになるのが怖かった。

 いや、風邪菌が蔓延したこの部屋に、君を引き留めるわけにはいかない。もしかしたらこの季節、インフルエンザだったらおおごとだ。買い物どころか、さっさと帰ってもらわなければいけないのに、

「米があるなら適当に何か作ろうか」

 そう言う君に、首を横に振れなかった僕は、やっぱり優しくなかった。

 返事をしない僕を見て台所に立つ君の優しさと対照的だった。

 布団に潜る。ギターを抱えて。

「――ちょっと待てそのギターは何だ」

 見つかった。

 1Kの小さな部屋だった。

「お前、試験前日に俺と勉強会して、家帰ってギターで夜更かしして風邪引いたんなら、それは流石に、怒るぞ」

「いや、これは」

 図星を差されて何も言えない僕から有無を言わさずギターを取り上げ、君は腰に手を当てる。

「ノート見せてあげたのは誰だっけ?」

「……すみませんでした」

 講義に出たはいいものの、その殆どが睡眠時間と化してしまった僕に、ノートを貸しただけでなく勉強会まで開催して、単位取得に貢献してくれた君に、逆らう権利など存在しなかった。

 溜め息をつきながら台所に戻る君の背に、僕は声を掛けた。

「君はもう試験全部終わったの」

「明後日、二外がひとつ。でも大したことないやつ」

 必修科目である第二外国語は他の単位と違って、成績の付けかたが明確で教師も厳しい癖に、落とすと後が面倒だ。それを大したことないなど、一度言ってみたいものだ。

「別に、普段の授業の積み重ねがテストに出てくるだけだよ。小テストより簡単だって先輩が言ってたし、俺は小テストと出席で点数稼いでる自信あるからってだけ――そんなこと言うなら、お前も真面目に授業受けてみろ、万年一夜漬け大学生が」

 ちょっと愚痴れば三倍になって言葉が返ってきた。病人なんだからもう少し労わってほしい。

「風邪引いたのも半分自業自得だろ」

「君は母親かよ」

 耳に痛い言葉を封じてしまおうにも、ギターは手の届かない遠くに片付けられてしまった。僕は仕方なく頭まで布団を被る。

 自分の部屋で、君が米を研ぐ音を聞きながら布団で縮こまっているのは、情けなくもあり、温かくもあった。

 まだ風は低く鳴っていた。




 ザ・男飯みたいな雑炊が出てくるまで、どうやら眠ってしまっていたようで、目が覚めるとベッドの横の折り畳み式ローテーブルに、雑炊の他に机にノートが広げられていた。やはり君は、明後日の試験をそこまで楽観視しているわけではないらしかった。

 あまりに大量の雑炊が鍋を満たしているので聞くと、しばらく食べるものに困らないように多めに作ったのだそうだ。何とも細やかな配慮に頭が上がらない。味は可もなく不可もなく、強いて言うならちょっと塩味が足りないけれど、これは風邪のせいで僕の舌が鈍っているだけかもしれないので黙っておいた。

 既に朝飯とは呼べない、本日一度目の食事を咀嚼する間、君は部屋の隅で僕のギターをいじっていた。教えてやると言いながらまともに教えたこともなかったが、君は僕が弾くのを見ているうちに、勝手に上手くなっていた。

「結局、病院どうするの」

 君が顔を上げて聞く。僕は喉の痛みを我慢しながら口の中のものを飲み込み、答える。

「行かない」

「追試は」

 病院に行かないのだから受けられない、と言おうとしたところで、勉強を見てくれた君に、申し訳ない気がした。

「やっぱ病院行ったほうがいいかな」

「俺はそう思う。インフルじゃないか確かめてもらったほうがいいし」

 その可能性に気づいていて、ずっとこの男はうちにいたのか、と、今更言ってももう遅い。

「病院が嫌ならついてってやるよ」

「優しいな」

「だろ」

 君は冗談のようににやりと笑った。

 喉の痛みに空腹を誤魔化されても、体は栄養を欲していたようで、どんぶり二杯目の彼の手料理を口に運ぶ。僕は気づいていた。広げられたノートは、明後日の語学のものではない。今日終わったはずの、君と一緒に受けていた授業の、まとめ直し。

 馬鹿みたいに優しいやつだった。僕とは対照的だった。周りの友人にも人気があるし、どこにでも誘われるし、女にもモテる、そんなやつだった。黴と煙草の匂いには、似ても似つかないやつだった。それが、こんなに僕の家に、今だけじゃない、かなりの頻度で居ついているのが不思議だった。

 授業もまともに受けないで、ノートを見せてもらってばかりいる僕だった。ギターもろくに教えてやらない僕だった。風邪を、ひょっとしたらインフルエンザをうつすかもしれないことを分かっていて、君を帰しもせず、飯まで作らせている僕だった。

 つくづく優しくなくて、全く嫌になる。

 食後の煙草を灯す。吐いた煙が君にかかる。風向きが悪い。悪いのは僕じゃない。

「病院行くなら今から出ないと、そろそろ閉まるんじゃないか」

 そう言ってまた携帯を取り、近所の病院を検索する彼の傍らから、ギターを奪った。

 無音の部屋を、弱まる気配のない風音が圧するのが怖かった。底抜けに明るい音が聴きたかった。

 何も考えず思いついたまま奏でたコードは、手が強張っているせいであまり綺麗には響かなかった。

 再びギターを弾きだした僕に、君は何も言わなかった。どこそこの内科なら夜までやってると言いながら、立ち上がって、食べ終わった僕の食器を取った。

「置いといていいよ、後で洗う」

「いつ洗うんだよ。風邪が治ったらか?」

 言い返せない僕を捨て置いて食器を台所に運ぶ君に、まだ消えない煙草を灰皿に立てかけ、ついていって僕はせめて給湯器のスイッチを点けた。

「僕」

 君は食器を洗い始めた。僕は隣でただ見ていた。僕の声は掠れていた。

「君が風邪引いても、同じようにできる自信はないよ」

 同じようにできない自信があると言っても過言ではなかった。それを先に伝えておかないと、フェアじゃないと思った。

「いいよ、そのためにやってるんじゃないし」

「じゃあ、何のためにやってるんだ」

 口から滑り出てきたその言葉が随分と滑稽に聞こえることを、言ってしまってから自覚したけれど、もう時は巻き戻ってくれなかった。君も怪訝な顔をした。変なことを口走ってしまったのは、自分でも分かっていた。

「俺がお前に優しくしちゃだめか」

「だめというか」

 君に見せて助けになるようなノートはひとつもないし、君が風邪を引いても看病には行かない。飯を奢ってやるわけでもないし、ギターのひとつも教えてやれない。君が優しくしてくれたことを言って広める友人もいない。

「君が僕に優しくする、理由がない」

「偽善」

 君がふわりと笑った。

「そういうことにしたいなら、それでいいよ」

 彼の口調は嫌味を言っているようには聞こえなかった。

「そんなつもりじゃ……」

「間違ってないしね」

 君が水道を止めたのは突然だった。BGMを失って、君の声から笑みが消えて、それで僕は、君の笑顔が偽りだったことをようやく知った。

「勝手にお前に優しくした俺に、見返りがないのがそんなに気に食わないか」

「気に食わない」

「そうか、優しいな」

「――優しいなんて」

 僕は優しくない人間のはずだった。

「いいから寝てろ」

 彼の声が不意打ちのように穏やかで、

 あ。

 これだ。

 この音、昨夜夢の中で見つけたはずの音。

 外では風が吹き荒れる日、食器を洗う軽やかな音と、君の声。君みたいなメロディ。

 今度こそ逃すわけにはいかなかった。

 底抜けに明るい音を留めたくて、僕はベッドに戻ってギターを取った。

 痛む喉と、震える指と、ぐるぐると頼りない思考回路と、優しい君の笑い声。取り残されたままの僕。

 まるで僕だけがまだ午前二時にいるみたいだった。




 風邪引いてるときにひとりぼっちって心細くない? と、買い物を断った僕の真意を無邪気に見抜いた君は、結局夜が耽けるまでうちにいた。

 病院は明日に延期。理由は、寒いし風が強いから。寒さは明日も変わらないよと君は、僕を布団に押し込んで、一瞬だけ換気のため窓を開けた。

「虐めじゃん……」

「空気が悪いと治るもんも治らないだろ」

 空気が悪いのは、さっき僕が煙草を吸ったせいだった。

 一気に冷たくなった部屋の空気を徐々にエアコンが暖めるのを、布団の中で待っているのは別に苦痛ではなかったけれど、僕は君の正論に何を返せばいいか分からなくて、敢えて文句ばかり言ってみた。我ながら小学生みたいだと思った。

「どうして」

 うとうととし始めたら、無意識に言葉が転がり出た。

 ベッドを背凭れにして床に座った君が、ノートから顔を上げずに相槌を打つ。

「何?」

「どうして君は、僕なんかにまで優しいんだ」

 こんな、優しくない僕にまで。

「言っただろ、偽善だって」

 君の答えは変わらなかった。体が弱ると心も弱る。普段は隠した本音が漏れる。

「僕は君が優しくするような人間じゃない」

 言ってはいけない言葉が零れる。

「僕は優しくされるべき人間じゃない」

 いいじゃないか、優しい人は優しい人同士で楽しくやっていてくれれば。優しさに優しさで返ってくる世界はきっと優しい。僕は優しくないから、その循環には含まれない。優しくない行為に、優しくない言葉に、優しくない返事が返ってくる。それは自然の摂理であって、勉強しなければ試験ができないように、夜更かしをすれば風邪を引くように。

「僕じゃ君が偽ってまで欲しいものはあげられない。僕は優しい人間じゃないから」

「そういうところ」

 ……どういうところ?

「お前のそういうところ、本当優しくて、好きだよ」

「……何が」

 彼の台詞に脈絡が見い出せないのは、君が悪いのか、それとも俺の頭が回っていないのか。

 わからない。けれどいくら考えたって、君が優しくない僕を優しいと言う理由もないし、好きと言うなんてありえないことは、厳然たる事実で。

 混乱する僕に、君は背を向けたまま言う。

「俺は優しくない自分が嫌いだから、人に優しくすると決めたんだ」

 言っただろ偽善だって、と、君はあまり嬉しくなさそうな声を出す。

「でも俺はそれでいいと思ってるよ。お前は俺を優しいやつだと言ってくれた」

 木漏れ日の消えた冬の夜。風の音は鳴りやまない。

「俺はお前に優しくするが、そこに、お前が優しい人間だとか、俺がお前を好きだとか、そういうことは関係ない」

 ああ、うん、それはいいな、と思った。

 僕が優しくなかろうが嫌われていようが、君が優しいことに変わりはない。

 冷たくて残酷で、そしてそれはとても優しい世界だ。

 僕はようやくほっとして目を閉じた。半分夢の中で僕は言う。

「僕も優しいひとになりたいな」

「もう充分だよ」

 君の声が、だんだん遠ざかっていく。

「俺の独りよがりの偽善を、優しさと受け取ってくれる」

 君が言う偽善は、最早偽りなんかではない気がした。でもそれを上手く言葉にできるとは思えなかったし、考えるには、もう僕の頭は疲れ切っていた。

 君は思案するように汚い天井を見上げて、ややあって肩を竦めた。

「俺はお前を優しいやつだと思ってるし、そこそこ好きだよ」

「そこそこかよ」

 俺の笑いを含んだ突っ込みに、君の笑い声が明るく重なった。そうだ、この和音だ。このコードはカポタストなしの純粋で澄んだGメジャー。何の捻りもないツービート。底抜けに明るいメロディー。

 瞼が落ちるのを、もうそれ以上止めることはできなかった。覚えておかなければ、Gメジャー、と何度も脳味噌の中で唱えつつ、起きたときまで覚えていられる自信はあまりなかった。

 夢の中で君が笑うのを見た。

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