猫が死んだ

とりたろう

猫が死んだ


 飼い猫が死んだ。

 今年で8歳になる白ベースにぶち柄の猫。妻の花臣が死んだ年から飼い始めた、名前は『奏』。

 なんとなく名付けたつもりだったが、よくよく思い出せばこの世に生まれてくるはずだった娘の名前と同じであることに後から気付いた。

 いつから自分はそんなにも愛情深い人間になったのだろうか。あんなにも従兄弟達の悪行に加担しているというのに、これじゃあまるで娘が産まれてくることを大層楽しみにしていたみたいだ。実際、生まれてきて欲しいとは強く思っていた。でもそれは親や親戚達に催促されていたからであって、子供が欲しいからではない。

 子供が――奏が生まれてきてくれても、自分には愛せるかどうかわからなかった。愛してあげたい、とは何度も思っていた。しかし、自分諸共捨て去って自由を選ぼうとした父親と同じ血が流れていると思うとゾッとする。自分のことしか考えられない父親を見てきたのだから、自分だってそうなのではないか。何度もそう思っては息が詰まった。

 花臣にも言ったことがある。でも「そう感じている時点で貴方は愛していますよ、この子のこと。大丈夫です」と優しく言われるだけだった。それ以上は何も言えなかった。多分、否定して欲しかったんだと思う。『最低最悪です』『お前に愛せるはずがない』みたいなことを言って欲しかったのかもしれない。病弱で、優しい妻にそんな言葉を強請るほどに自信が無いとは思わなかったのをよく覚えてる。


 

 猫の奏は骨になった。

 動物病院に相談した所、火葬をしてくれる所があるという。オススメしてくれる所に早速決めて、ペットの簡易仏壇まで用意してもらった。懇意にしていた獣医さんからは「寂しくなりますね。貴方といる奏ちゃん、本当に楽しそうに居られたから……」なんて言われてしまった。確かに奏との日々には彩りがあった。猫が与えてくれた癒しには助けられていた。

 昔は傍に花臣がいて、花臣の容態をずっと気にしていた。その為、直球に言うとやる事がなくなり、自分の時間が出来た。それから、初めて自分は常に何かをしていないとダメな人間なんだと他人事のように思った。花臣と、生まれてきてくれるはずだった奏がいなくなってしまってから虚無感に襲われることが何度かあったのだ。

 

 猫の平均寿命にしてはやけに早く旅立ってしまった奏を1人悼む、土曜日の午後。仕事も予定も無く、桜の庭が見えるリビングで虚無感に浸る。奏が気に入っていた玩具とキャットフードを祀る。

 ふ、と1人で笑ってしまった。

 だって、この部屋には3つも仏壇がある。こんなにも広い部屋に、1人で住んでいるのが馬鹿らしくなってきた。もしみんなが生きていれば、賑わい具合が丁度良いと思う。こんなに部屋が広いことにも気が付かなかっただろう。


 そんなことを思っていると、ピンポーン、とインターフォンが鳴った。


 来客だろうか。こんな時間に尋ねてくる者なんて、恐らく血族しかいない。

 訪問者が成あたりだと気が楽で嬉しいのだが。

 片方が義足になった脚を庇いながら立ち上がり、玄関へと歩を進める。もう4年こんな生活をしていれば、不自由そうに見えることも慣れてくる。

 誰がいるかを予想しながら引き戸をガラリと開けた。


「はい…………え?」


 息が詰まった。

 身体が全ての生きるための動きを放棄する。

 

「ただいま、造さん」


 花が開くように柔らかく微笑むその人。白いワンピースをまとう見慣れた姿。


「……花……臣…………」



 妻だった。

 間違いなく、8年前に死んだはずの妻だ。


 

 


 


 


 *







「造さん、本当に変わらないですね」

 彼女の顔色は普通。そして、ほんのり赤い。生前とは異なり、丸い頬が膨らんでいた。

「いや……かなりくたびれたと思いますよ」

 視線を下に向けながらそう返す。紛うことなき生きている人の素振りに耐えられない。

「そうですか?うーん……確かに少しだけ疲れてそうですけど」

 視界の端で、隣にしゃがむ彼女が首を傾けているのが見えた。

「それを歳とったって言うんだよ」

 午後の柔らかな風が、吹き込んでくる。何かを大切に運んできているように、優しかった。

「……花臣は」

「はい」

「今楽しくやってる?」

 変なことを聞くな、と思った。相手は死んでる。それを自覚できているのに。

 抑え込むように自分の手を組んだ。そうでもしないと、叫んでしまいそうな衝動があった。

「穏やかではありますね」

「そっか」

「造さんは?」

「ぼちぼち」

 そっか、と返される。簡単な返事だけど、全然苦しい気持ちにはならない。

 花臣と結婚して良かったと思ったひとつだったなと思い出した。

「でも飼ってた猫が死んじゃって」

「あら」

 布と畳が擦れる音が聞こえた。

「それは悲しいですね」

「悲しくないよ、寂しいだけだ」

 花臣を見た。すると視線がぶつかった。

 相手はこちらの顔をずっと見ていたのだろうか。

「……そうですね」

 今度は花臣が視線を下に向けた。

「ああ……寂しいだけだよ花臣」

 彼女が生きてる時には、こんなに話さなかった。

 こんなに自分の気持ちを明確に伝えなかった。

 そんなことを思い出した。



「君がいなくなって寂しいよ、花臣」


 風がまた吹き込む。今度は春一番のような、強い風。


「家のことより、君のことをもっと考えるべきだったとずっと後悔してるよ」

 

 もう無いはずの脚が痛む。

 4年前のことを、思い出しそうになって、頭が痛んだ。この脚を失った時の恐怖は未だに忘れられずにいる。


「言えなかったことはこんなにも、こんな幻覚を見る程に後悔してしまうんだな」


 花臣を見る。花臣の瞳以外がぼやけているような感覚に陥った。

 ピントが花臣の瞳にだけあっているよう。


「幻覚なんかじゃないです」


 花臣は目をそらさない。自分も、逸らさない。凹凸がピッタリハマっているように、動かない。


「私、造さんにずっと会いたいって思ってたんです。病院にいた時も、もっと元気な体で貴方に会いたかった。こんな体を見ないで欲しくて、何も言えずにいました。やり過ごそうとしていました。身体から溢れてしまいそうなくらい、貴方と語りたいことがあったのに」


 風が強くなる。

 花臣が連れていかれてしまうと思った。


「造さん、私も貴方にいえなかった事が沢山あります!私貴方のことが大好きです!臆病だから慎ましい女を演じようとしていました。でもそれを今私は後悔してます。貴方にもっと、ストレートに伝えるべきだったって!」


 眠気に襲われはじめる。でも、花臣の声に耳を傾けること、視線を外さないことは徹底した。夢であっても、何も取りこぼしたくなかった。

 花臣の瞳がキラキラと輝いている。

 ああ、泣いてるんだ。

 でも、とても綺麗だった。


「私は、造さんに会えて幸せでした」


 

 きっと夢だ。都合の良い妄想。

 でも、夢ではなかったと思っておきたい。

 あの花臣の言葉は、なんだか本物のように思えた。

 

 

 

 




 


 

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