ノアの方舟は、陸へ辿り着かなかった。
クロネコ太郎(パンドラの玉手箱)
方舟
「天使様はどこへ行っちゃったのかな。」
大波が船を叩きつけ、大嵐が船上に降り注ぎ、耳をつんざくような雷鳴が常に轟いている。
「大洪水から百年、もう希望は持たない方が良いかもしれない。」
ノアの子供である僕、アルベルと妹のシーシャ以外にこの船に乗るものはいない。
僕たちが今いるのは、箱舟という父、ノアが作り出した大きな船だ。ノアは人類を滅びる大洪水が起こることを未然に知り、神が伝たえた通りに船を作り、動物達を乗せた。
そして、ノアは神にいつになれば洪水が終わるのか尋ねた。
(我が使いが、そなた達の道しるべとなり地のある場所へ導くであろう)、と。
使いとは天使のことである。
しかし、天使は洪水から百年を経ても現れなかった。
「ノアは、絶望に暮れて海に飛び込んじゃって、後を追って他のみんなも死んだ。今船の中にいる人間は僕たち二人だけ。」
「どうして、私たちは見捨てられたんだと思う?」
「もう、人間が嫌になってしまったのかもしれないな。爺ちゃんから聞いた話だと、人間は争いばかり繰り返して、愚かでみじめで、醜くて、情けなくて、一人じゃ何もできなくて、群れると戦争をしてばかりいる。そんな生き物だからじゃないかな?」
「じゃあ、どうして私たちはまだ生きているんだと思う?」
「せっかく作った生き物を全部壊しちゃうのは、もったいないからじゃないかな?たまにどんな生き物なんだっけなって眺めたくなるんでしょ。」
「そんな軽い理由なのかなあ。」
「分からない。分からないよ。僕たちは愚かで、醜くかった人間達を見たことがない。僕たちは何も知らない。みんなから聞かされてきたことだけが、僕達にとっての世界なんだよ。」
「でも、そのみんなももういなくなっちゃった。」
「今は今を生きるしかないよ。何もわからなくても、明日は来るんだから。」
食料を獲るのだって容易いことではない。さらに加えれば動物たちの世話だってある。やることは山積みだ。それに、ここ最近はただでさえ、魚が獲れる量が少なくなってきている。
「そう、だよね……。」
そして、今は見捨てられたかもしれない神様に願うことよりも、シーシャを守ることの方が大切だ。
☆☆☆☆☆
「ねえねえ、あの黒い雲の上にはさ、青い空が広がっていたらしいよ。」
彼女はそう言う。
「正直言って、それ信じられないんだよね。どうイメージしても青い空なんて思い浮かばない。」
「あとね、夜には黒い空に綺麗な光の粒が浮かんでいるんだって。」
「光の粒って何なんだろう。それは生き物なのかな。」
「分からないわ。でも、いつか浮かんでいたら触ってみたいな。」
「触れるのかな、それ。そういえば、魚はどのくらい捕れた?動物たちの食事を賄うと考えて何日分くらい?」
「えーと、一日分くらいかな。」
「そっか……。」
魚が獲れる時間、日付も決まっているのだ。一気に取りだめしておかなければ、すぐに食料は尽きてしまう。
「最近、どんどん魚が取れる数が減ってない?海の荒れもひどくなっていってる私たち、大丈夫なのかな?」
「大丈夫だよ。言ったでしょ?神様は僕達のことを眺めるために生かしておきたい筈なんだって。だから、きっと大丈夫なようになってるんだよ。」
「神様ってどこにいるのかな。」
「どこにいるとかじゃないんだ。どこにもいるしどこにもいない。そういうものなんだ。」
☆☆☆☆☆
血生臭い香りが船内に充満し、船中に血痕が飛び散っている。
「ごめんなさい、ごめんなさい。」
彼女はそう言いながら、かじりつく。
「僕たちが生きるには、こうするしかないんだ。だから仕方のないんだ。」
そして、僕も動物を貪り食う。
魚が海で捕れなくなって、いよいよ僕たちは船に残る動物達を食べるしかなくなってしまった。
「こんなことをしてまで、私たちに生きる意味ってあるの?」
「生きなきゃダメなんだ。死が肯定される理由なんてないんだ。自分が生きるためなら、どんな手段を使っても良いんだ。」
「そういう傲慢さを嫌って神様は人間を滅ぼしたんじゃないの?」
「傲慢さも必要な時があるんだ。今はその時だよ。」
「どうしてそう言い切れるの?」
「どうしてだろうね。」
君がためらいなく動物を食べるには、僕がまず食べて見せる必要がある。
君がより長く生きるためにはどうすべきなのか、僕は常に考えている。
これが正しい行いである、はずがない。
神はきっと僕達の残虐な行いに憤怒しているだろう。
☆☆☆☆☆
動物達を食べつくしてしまった。食べるものなんて、もう、どこにもない。
それでも、少しでも君を長生きさせてあげたい。
「お腹すいてるよね?」
「うん……。」
「僕がさ、まだ動物が残ってないか探してくるからここで待ってて。」
「分かった。」
僕は船内を探し回るふりをして彼女から離れた。そして、ナイフを取り出す。
なんと言ったら誤魔化せるだろう。毛の生えていない動物など、人間以外に知らない。
「そうだ。」
僕は名案を思い付いた。
神様が飢えた僕らに腕をくださったといえば良い。
どこにもいるし、どこにもいないのだから、腕をくれたっておかしくはないじゃないか。
きっと彼女も納得してくれるに違いない。僕の無くなった腕も隠せば誤魔化せる。
腕が無くなると、不便だろうか、辛いだろうか、後悔するだろうか。
「腕がなくなっても生きていればの話だけど。」
僕は覚悟を決めた。右手でナイフを持ちながら、左肩の少し下あたりを狙って……。
「なに、してるの……?」
振り下ろしていた手が、彼女の手によって止められた。
「なんで、付いて来たんだ?待っててって言ったじゃないか。」
「だって、もう動物なんてどこにもいないことくらいわかってるもん。ねえ、それナイフ?今、手を切ろうとしてた?」
「……。」
「私に腕を切って、あげようとしたの?」
「仕方なかったんだ。だって、何かを食べなきゃ、君は生きていけない。」
「じゃあ、腕を切ったら君はどうなるの?私がそれを食べて、君は無事でいられるの?」
「無事ではいられないかもしれないけど、頑張って生きるよ。」
「嘘だわ。きっと、腕を切ったら私よりも先に死んじゃう。私、それくらいのことわかるもん。」
「もし、僕がいなくなったとしてもね、僕は君の中で生き続けるんだ。」
「私が君を食べたから?でも動物さんたちを食べても私の中で生き続けてはいないよ?」
「君の体を形作っているのは、君が食べた動物達だ。君が生きているということは、動物たちが生きていることと同じなんだ。だから、大丈夫だよ。君が僕を食べて生き続ける限りは、僕は君の中で生き続けるんだから。」
「……嫌だよ。それじゃあ、もう二度と話せないじゃん。」
「君は僕を好きなのかい?」
「分からない。でも、アルベルがいなくなったら寂しい。」
「……僕は君にとても酷いことをしようとしていたのかもしれない。」
「どうして、分からなかったの?」
「僕は君がいなくなったら哀しいし、寂しいけど、シーシャは違うのかと思っていた。でも、考えていることは同じなんだね。」
「当たり前だよ。私はアルベルを失いたくない。失わないためにはどうすれば良いの?」
「一つだけ方法がある。」
「ほんと?」
「船の上にいこう。」
☆☆☆☆
僕らは船の上に行き、二人で大波を眺めている。
「最後の最後まで必死に抵抗した末に、こうする他どうしようもないなんて笑えるよ。結局、死を否定することはできなかった。死が肯定されるはずがないなんて言えていたのは、本当はまだ余裕があったからなんだろうね。」
「二人で、死ぬのね。」
「最初からこうしていれば、動物たちを食べる必要もなかった。」
「本当に、良いのかな。」
「良い悪いを考えてもこれ以外に選択肢がないから、僕たちは選ぶしかないんだよ。」
「……。」
「さあ、心変わりしてしまわないうちに、海へ飛び込もう。人間は弱いんだ。迷っていたら、考え直してしまうかもしれないよ。他に方法なんてどこにもないのに。」
「うん……。」
今日は昨日までの波が嘘のようにおとなしかった。それ故に普段よりも海が地平線に見える。
「今日は静かね。雷もおさまっているし。」
「僕たちを出向かえてくれているのかな。」
「そうだと良いけど。」
そう言った彼女は、ふと一点を凝視する。
「なにか見つけたの?」
「あれ、なんだろう?」
彼女がさした方向の先には、小さくて白い何かが浮いていた。
「あれは、羽?」
彼女が一枚見つけたのを皮切りにその方角から次々と羽が流れてくる。
「どこかで鳥が死んじゃったのかな?」
「でも、鳥は僕らが食べつくしてしまったはずなんだけど。」
「ねえ、羽が流れてきた方向へ行ってみようよ。」
「でも、僕らは今、死ななくちゃならないだろ?」
「行ってみてからでも、良いでしょ?」
「……。」
気が変わってしまわないうちに、行かなきゃならない筈だ。しかし、僕は首を横に触れなかった。もしかしたら、という希望がそこに見えていたから。
「行こう。」
船を進めるごとに羽が多くなっていく。そしてしまいには一面海上が羽で覆われた。
「凄いわ。こんな景色、見たことない。」
「空も心なしか、明るくなっているような気がするな。」
また、しばらく船を進めた。すると、今度は徐々に羽が減っていく。
「羽、少なくなって来たわね。」
「うん……。」
「あれ?お空がいつもよりも明るいわ。」
「ほんとだ。」
普段なら筋骨隆々と言った感じで居座っている紫の大雲の厚みが薄くなっている。
さらに船を進めていくと気が付けば、雲一つない空へ様変わりしていた。
そして、とうとう僕たちは、光を見つける。
「うそ……。」
「光が、空に浮いてる……。」
ノアが言っていた夜空に浮かぶ光。本当だったのだ。本当に星はあったのだ。
「綺麗ね。」
「だな。」
☆☆☆☆☆
聞こえるはずのない、鳥が鳴く声が聞こえた。
僕たちは音が聞こえた方向に向かって、進み続けた。
そしてとうとう辿り着いた。
「まさかこれがあの──様の羽だったのね。」
シーシャがそう言う。
「神は僕らのことをずっと見ていたみたいだ。随分と意地の悪いことをするな。」
「それでも、私たちを最後まで見捨てないでいてくれた。」
「ああ。」
地は朝を迎えようと陽に照らされる。太陽と星々が混在している。朝日が昇りたてゆえにまだ星が見えるのだ。
星々が瞬き、まるで僕たちを歓迎しているかのように光っている。
そして、空は澄み渡り、遠くに広がる青が徐々に僕たちを包み込んでいった。
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