アンソブラエティ

かまつち

アンソブラエティ

 ああ、久しぶりだな、友よ。いったい最後に、こんな風に話してから、いくらの月日が経ったのだろうか。君とこうして会って、落ち着いて話すのは、とても懐かしいと思うよ。本当に嬉しいと思うよ。


 いや、なに、すまないね。さっきまで少し、色々あったからね。ちょっとしたことがあったんだよ。いや、そんなこと言ったって、納得してはくれないか。ああ、せめて、ほんの少しぐらい、遅刻してでも、落ち着いてから来るんだった。こんな顔は見せたくなかった。


 何があったかというとね、いや、それがね、恥ずかしく思えることなのだけど、父さんと口喧嘩しちゃったんだよ。ああ、とても悲しいよ。後悔しているんだ。でもね、それでもまだ、やっぱり、あいつが許せないや。自分が悪いって、分かってるのにね。


 素直であったら、自分がもっと、利口だったら、大丈夫だったのかな。もっと上手く立ち回れれば、良かったのかな。分からないよ。あの人は、僕のためを、いくらか想って、働いているんだと言う。だけど、僕は、それを裏切っている。父は父で、そこまで出来た人間ではないけど、それでも、僕よりは上なんだ。


 分かるかい、君に。自分が怒りを感じている相手に、引け目を感じている時の心情が。僕は今、それを感じているんだ。自分の心が、乱れているんだ。


 ああ、違う、僕はこんな恨み言を君に言いたいがために、会いたかったんじゃないんだ。すまないね、ただ、今は悲しいんだ。自分の劣った部分を見せつけられているようで。


 元々、僕はこんな悲しみとは無縁だった。僕は、良くも悪くも能天気だったんだ。なのに今じゃあ、大きな絶望を背負い込んでる。


 僕の中の何かが、狂い出したのは、いつだったろう。ああ、そうだ、思い出した。あの冬の寒さ、あのひんやりと冷えた、アルミ缶。ブルタブを一度開けば、とても心地の良い匂いがするんだ。最も良いのは、その風味で、あの液体を飲んでしまえば、全てが溶けていくような気がするんだ。悲しみも、幸せも、何もかも。ああそうだ、あれのせいで、僕は狂ったんだ。


 あの年は、人生の、大きな節目だった。僕の将来に関わることがあったんだ。僕は、初めてほんの少しではあるけども、努力をしていた。人生における、初めての努力ってやつを。初めての挑戦だったからなんだろう。僕は、日が経つごとに、心が擦り切れていくのを感じたんだ。精神的に、疲れていったんだ。


 初めは、元気に、無邪気に笑えるような人間だったのに、いつからか、素直に笑うというのが、出来ないような人間になっていた。笑うことさえ、億劫になっていた。仲の良い同級生と、話すことさえ、面倒に感じることもあった。


 心が弱ったら、どうなるか。人は、何かに寄り掛かろうとするんだ。それが何かは、人それぞれで、全くもって、異なるものが多い。ただ、共通して言えることは、そういった人達は、もう元には戻らないということだけだね。


 今の僕は、人と話すこと、笑うこと、そういったことに、億劫になることはないけれど、それでも時折、気を病むことがある。まるで、悲しみというものが、心の一部として、同化してしまったかのように、消えることはないし、それを消すことにさえ、なんだか恐ろしさを感じてしまうんだ。


 ただ出来ることというのは、一時的に、不安を忘れてしまうことだけ。あれを飲むことで、苦しみを溶かすことだけなんだ。


 僕はあれを何度もやめようと思った。でも失敗したんだ。あれを飲んだ時の甘美さ、それが忘れられないんだ。


 君は僕があれを飲む瞬間を、何度も見てきたね。そして心配もしてくれた。僕はその気持ちにいくらか、嬉しくなって、それでやめようと思ったんだ。


 最初は上手くいって、なんとか我慢も出来ていた。頭痛が何度か起こったけれど、それにだって耐えられた。そしていくらかの間、あれを飲むことをやめられたんだ。


 でもやっぱり無理みたいだ。これだけ我慢しても、まだ飲みたいと思うんだ。あの甘み、あの快楽。もはや、あれが僕にとっての、一番の救いだと思えてしまうんだ。


 脳にまで染みついてしまった、あの快楽を、再び僕は、欲しいと思ってしまっている。




 僕は、今日この時まで、あれを飲まないようにしていたのに、でもやっぱり飲みたいと思ってしまった。父が僕を叱る、あれが一つのきっかけだったよ。


 僕は近いうちに、父に怒られるだろうと思っていた。僕が落ちぶれているのを父が見て、怒るのだろうと。


 僕はそのことを、ずっと考えていた。そして、その時の光景を想像していた。とても、心を傷つけるような光景だった。


 矛盾しているように見えるかもしれないが、僕は父に、子供としての家族愛に近いものを感じているんだ。


 しかし、今までの人生で、彼との間にあったいざこざのせいで、その愛と同じくらいの怒りも感じていたんだ。


 怒りの対象に怯えるということの屈辱と、劣等感が、余計に僕を傷つけた。でも、僕はそれに耐えなければいけなかった。


 さっき僕は、父と口喧嘩をしたと言ったね、しかし、本当は、僕は彼に何も言えなかった。ただ彼が、僕のことを叱っていただけなんだ。


 僕は気の弱い人間であるから、彼に何も言えなかった。僕は正論らしい正論を言えず、頭の中で何かを思考することさえもおぼつかなかった。


 父のあの、怒りのこもった声、顔、あれを思い出さないようにしているのに、どうしても思い出してしまう。


 その上、父の怒りは、僕への、父としての愛情の上に成り立っているんだ。僕が父の怒りをそっちのけで、反論なんてものは言えるわけがなかった。


 僕には、堪えるという選択しかなかった。ただ辛かった。そんな僕を救ってくれるのは、あれしかなかったんだ。


 僕の今の不甲斐なさも、不幸も、怒りも、悲しみも、それら全てが永久に消え去ることも、なくなることもないけど。


 例え、あれを、もっと飲み干すことで、今以上の苦しみを味わう、地獄に、自ら足を踏み入れることになっても。


 僕はそれでも、あれを飲むことにするよ。僕の苦しみをほんの一瞬でも忘れさせてくれるあれこそが、あれだけが、僕のたった一つの、逃げ場なんだ。


 君にも分かるだろう、地獄、そこまでではないが、緩やかな、悪夢にずっといることの辛さが、悲しさが。




 僕は分かったよ、何かに依存するということことが、どういったことなのかを。それはとても単純なことのように思えた。


 何かに依存するなら、その依存先は、きっと、自らの身を、破滅させてしまうようなものなのだと思う。


 とびっきりの感覚の抑揚こそが、人の苦しみを救うのだと、そして人はいつしか、その感覚の激しさについて行くことが出来なくなり、その身を以て、破滅させてしまうのだと。




 ありがとう、友よ。僕の話を聞いてくれて。私の中にあった罪悪感というのものが、いくらかは和らいだと思うよ。


 君は、僕が、いつの日か、体を壊して死んでしまうと思っているだろう。しかし、僕は、それで良いとも思えてしまっている。


 僕の心は、まるで他人事かのように、破滅を求めているのだと思う。非日常的な人生、激情的な人生に、その身をやるために。




 おや、もうこんな時間か、やっぱり、誰かと話をすると、時間が経つというのはあっという間だ。なんだかまだ、 名残惜しいとも思うけど、まあ、しょうがないか。


 僕は、僕のこれからの人生に対する、心の持ち方というものを決めたよ。君にこの話しが出来て良かった。


 それじゃあ、今日は、これでお別れだ。また会おう。ええ、さようなら。ああ、さよならだ。

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