風の道標ー現代最強の精霊魔術師ー
たれぞー
風、来たる
第1話
「ミスった……」
草臥れたスーツを纏う彼は白亜の壁に背中を預けながら呟いた。壁面には赤いペンキでも塗りたくらたようにベッタリと血が付着している。
彼の呼吸は浅く、額には珠のような汗が幾つも浮かんでいた。舌を打つその顔には後悔が滲んでおり、言葉の端々に苛立ちがこめられている。
「まァー、神格持ちとやり合って、この程度で済んだんならマシな方か……」
肩を押さえていた掌に視線を落とす。真っ赤に染まっており、このまま傷を放っておけば死は免れないだろう。死の実感を覚え、背筋に冷たいものが走るが逆に笑いがこみ上げてきた。
決して面白いからではない。人間とは極限の状況に追い詰められた時、意図せずして笑みを浮かべてしまうものなのだ。
今の彼はまさしくギリギリのところに立っている。今際の際といってもいい。冗談抜きで誰かに小突かれただけでも死んでしまうかもしれない。
普段の彼からは想像もつかないほどに弱々しい笑い声が木霊した。
「ははは……情けねぇザマだな。俺としたことがこんなドジを踏んじまうとは思わなかったぜ」
彼の体がふらつき、背中を壁に擦り付けながら尻餅をつく。目の前の景色は歪み、少しずつ視界が暗転していく。
体からは力が抜けていき、拳を握ることさえ出来なくなっていく。自然と目蓋が閉じられていくのを他人事のように彼は感じていた。
(クソッ……もう動けねぇ。あーあ、俺はこんなところで死ぬのかよ……つまらん死に様だ、ぜ…………)
眠るように意識は完全に暗闇の中へと沈み、糸の切れた人形のように全身から力が抜けた。次第に心音も小さくなっていく。少しずつ、しかし確実に死神の足音は彼に近づいている。
そして、生物に対して平等に死をもたらす鎌が振り上げられたその時だ。
『死ぬな、
彼の前に現れる白い光。細長く伸びていき、やがて人の形を象っていく。
語りかけられるその言葉は何人もの声が重なり合ったように聞こえ、自然と跪き、首を垂れてしまうほど威厳に満ちていた。
『契約の名の下に貴様に委ねよう────
光は彼の五体へと吸い込まれていき、辺りを照らす輝きは少しずつ失われていく。と、同時に風前の灯だったはずの彼の存在感は爆発的に膨れ上がる。
そして、二度と開かれることがないはずだった目が勢いよく見開かれた。その眼は青の輝きを放っていた。
蒼穹の如く澄み渡った瞳。それを持つ者は史実に存在するが、誰一人実際に目にしたことはない。
何故ならそれは契約の証。地水火風を統べる四神の一柱と対等だと認められた証だからだ。
「この力……これが風神との契約か」
不鮮明な意識の中、脳裏にしっかりと刻まれた記憶を引き出す。先程まで死にかけていたのがまるで夢のようだ。
傷口は逆再生のように塞がっていき、肉体に蓄積していた疲労も完全無欠に解消される。
心臓の鼓動と共に全身へ、手足の先にまで巡っていく形容し難くも偉大で莫大な力。
救世主のように死の淵から甦った彼は口角を吊り上げた。
「こんなところで死なずに済んで良かったぜ」
風鬼青嵐。鬼神との戦いを経て、現代最強の精霊魔術師として彼のその名は全世界へ知れ渡ることとなった。
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