エリーゼを差し置いて
深見みり
エリーゼを差し置いて
「かわいい。かわいいかわいいかわいい。阿賀野が一番かわいいよ。だから大丈夫だよ。あんなお飾りの砂糖菓子みたいな女の子よりずっと、ずっと、阿賀野はかわいいんだから」
かれこれ二十分膝を抱えて俯いていた阿賀野に、何か言わなきゃ何か言わなきゃと思って走った言葉は素直だった。間違いはない。悔いもない。もう走り出してしまった。振り返ることはできない。卒業という言葉の響きがもたらす私たちの終わりのように。
私の言葉の群れに阿賀野はひとつだって動かなかった。グランドピアノの足に寄りかかったまま上靴の先を揃えて丸まっていて、節がくっきり浮き出た指には血色マスクが引っかかっている。
「阿賀野、私の声聞こえてるよね。私、阿賀野の世界にいるよね」
そう問いかけてようやく、ハーフアップにした髪をまとめる赤いリボンがコクン、と頷く。三十年前に最先端と謳われていたデザイナーが手がけたというセーラー服は、今ではちょっとおかしなセーラー服として有名だ。一般的なセーラー服より襟が大きくてバランスが悪いし、ネクタイがなぜかおばちゃんのハンカチみたいなレース生地。スカートだって無地で、膝下の長さが校則で定められている。今どき、誰が見たって古臭く感じるはずだ。
「なら、聞いていてね、呪文を。私が今から魔法をかけてあげるからね」
「魔法?」
突拍子のなさからか、くぐもった声が返ってきた。大丈夫そうだ、鼻声じゃない。
「言ってなかったっけ。魔女なんだよ、私。ちゃんと魔女学校も卒業してるの。嘘じゃないよ、嘘じゃないって言わせてよ。そういう体でやらせてよ、今ぐらい」
「なにそれ」
「だってほら、私、最後だから。明日はきっと、阿賀野とばかり話していられない。花束だってある。誰が用意したかも分からない、机に一律で用意された花束が。そんなもの持ってじゃ言えないこと言いたいの。今から」
冷静になるな。何言ってんだろ私って思うな。自分に酔ってるとか、卒業って言葉に煽られてるって達観するんじゃない。私は今までこの時のために生きて、この時のために生きてきたということにすれば阿賀野のために生きてきたということにできるから、それは何より一番私が望んだことだから、それでいいんだ。
「ほんちゃんってさ、時々難しいこと言うよね。あたし追いつけないや」
阿賀野がやっと顔を上げる。擦ったからか細く引いたアイラインがぼやけていて、目の輪郭が揺らいでいる。赤く火照った顔といつでも冷静なピアノの黒があまりにもミスマッチで、たまらず阿賀野をピアノの椅子へ座らせた。音楽室のキーボードベンチって、誰の高さに合わせてあるんだろう。やっぱり音楽の先生かな。阿賀野には少し高いようで、23.5cmのシューズが宙で踊っている。
鍵のかかった扉の向こうで先生たちの話し声が通り過ぎていく。あの子たちも卒業ですねぇ。また一年の担任に回されるんだろうなあ。音楽室はこれまでずっと私と阿賀野のたまり場だった。ないしょで入って内側から鍵をかける。私には阿賀野と二人きりになれる、澄んだ空気の場所が必要だった。
「私はいつでも阿賀野の後ろにいるんだよ。阿賀野は追いつく側じゃない」
「そういうのが分からないって言ってんの」
ごめんね、分からないままでいてね。
私は言葉を違う言葉でくるんで、阿賀野にふんわり投げつける。
「酷かったよね、今日の校歌」
午前中に卒業式の予行練習がつつがなく行われ、私は舞台上のピアノで校歌を弾いた。みんなマスクを盾にしてあくびするみたいに歌っていた。明日の式となれば、みんなちゃんと歌うんだろうか。
「せっかくほんちゃんが弾いてるのにさ。贅沢だよね、たかが校歌のためにほんちゃん使うなんて」
「話が終わったら、阿賀野のためだけに弾いてあげる」
「何弾いてくれるの」
「お楽しみだよ」
くすっ、と阿賀野は笑って鍵盤蓋を上げた。埃の群れがふわりと宙を行く。トップコートが丁寧に塗られた人差し指がミの音を丁寧に押した。水面に同心円状に波が広がるように、阿賀野の音が音楽室に染みていく。私は阿賀野に背を預けるようにしてキーボードベンチに腰掛けた。
「あがの」
「なぁに。ほんちゃん」
「……みいこ」
「そっちの名前で呼ばないでって」
「今日だけ。今日だけだから」
阿賀野は気に入らないと言いたげに鍵盤から手を離した。
あがのみいこ。なんてかわいい私の女の子。
「私が阿賀野美依子を救ってあげるからね」
私たちがセーラー服を脱いでから、もっと言うと私が「笠井美依子」になってから、初めてほんちゃんに会った。駅地下の老舗の喫茶店で。
ほんちゃんは卒業から八年経ってもあまり変わらない印象だった。肩までの直毛ときゅるりとした二重の目。顎下に目立つ黒子がふたつ。かつて鍵盤の上を駆けていた細くて長い指にはシルバーリングがはめられていて、お揃いになったね、とほんちゃんは笑った。
私にはアメリカンコーヒーが、ほんちゃんにはメロンクリームソーダが運ばれてきて、ようやく口が回り出す。あれだけセーラー服を着て毎日一緒に駆けずり回っていたのに、八年という月日がしっかりと私たちを隔ててしまっていた。きっとほんちゃんが私の結婚を知って連絡をくれなかったら、私たちはこの先会うことはなかっただろう。
「おめでとう。阿賀野じゃなくなったんだよね」
「おかげさまでね。笠井になったよ」
「相手はどんな人? 大学の人? 会社?」
「どんなって、知ってるでしょ。悠くん。三組の」
「あ、あの笠井か。ってことは、あの後上手くいったの?」
「ううん。どうにも。だけど成人式の同窓会でね」
「中学一緒だったもんね」
柄の長いスプーンでバニラアイスを掬って、ぱくっ。何かを口に運ぶ時に目を閉じるクセが変わっていなくて、ああ目の前にいるのは本当にほんちゃんなんだな、と思う。
「今は私なんて呼べばいいんだろ。もう阿賀野じゃないでしょう」
「もうあんな子供じみた事言わないよ。美依子でいいよ」
ほんちゃんは、あら、と言葉を漏らした。あの頃、「子」が付く自分の名前が嫌いだった。古臭くてありふれてて。だから、友達には下の名前で呼ばせないようにしてたんだっけ。可愛らしい自意識。
……ほんちゃんの私が知る本名は本田千奈、だ。でももうほんちゃんだってほんちゃんじゃないはずだ。あなたはほんちゃんを卒業して何になったの。
「じゃあ、美依子。今日会ってくれて、ありがとう」
「会いたかったよ、ほんちゃんに。八年間ずっと」
「本当?」
「本当」
「うそ。あが――、美依子は大切なことほど嘘で包んじゃうんだから」
名前に詰まりながらも流暢に言葉を並べるほんちゃんに、あ、と思う。
「本当だよ。信じてよ。私あの日のピアノの音が忘れられないんだから」
嘘も、ホントも、この女の子にかかれば信じずにはいられない。この子の何が好きで一緒にいて、何が嫌いで八年連絡を取らなかったのか、掌に乗せた雪が解けるように浮かび上がってくる。
「あんな酷いことをした私に、会いたいって、思ってくれたの」
「あの日のこと、酷いことしたって思ってるんだ。ほんちゃん」
コーヒーの苦味が私を冷静にしてくれるはずなのに、冷静にする力より走り出した衝動の方が強くて、目の前で優しくメロンソーダを吸い上げるほんちゃんに槍を向けてしまう。
あれは酷かった。暴力だった。
いや、あれは優しさだった。絹のヴェールだった。
「酷い以外の何物でもないでしょ。私まだ若かったよ。魔女なんだって言いながら言葉の力を信じてなかった。だから、あんな事したの」
薄くリップを塗ってある唇を人差し指でなぞりながら、ほんちゃんは言う。
キスはいくらしても減るもんじゃないとは言うけれど、私は消耗品だと思っている。あの日のほんちゃんとのキスを境に、そう思うようになった。私の存在を確かめるような、そんな優しい唇が私の鬱々とした気分を取り払ったのは確かだし、これを超える程のキスなんてもう訪れないのだと悟らせた。私にとって大切なキスだったよ。あれは。なのに、ほんちゃんにとっては、「あんな事」なんていう言葉で括れちゃうものなの。
あの日、ほんちゃんは日が暮れるまで私に優しすぎる言葉を並べ続けたけれど、私はその言葉の波に抗うように悠くんに女の子がいることを頭に刻み続けた。悠くんが選んだのはショートカットの髪から覗くうなじが滑らかな女の子で、私ではなかった。私のものにならないなら、他の誰のものにもならなければいいのに。ほんちゃんが魔法だ魔女だ言うより前に、私はそんな呪いをかけていた。私の方がよっぽど魔女だったよ。
ほんちゃんの瞼の上に散るラメの天の川。あの頃のほんちゃんにはなかったな。
私、左の薬指に悠くんとの未来を誓ったよ。何一つ悔いなく幸せだよ。ほんちゃん、あなたは今幸せなの? その薬指の光に嘘はないって、言い切ってくれる?
「謝りたかったの。ちゃんと私以外の人のものになった美依子になら、謝れると思って」
頭を下げるほんちゃんの髪が素直に首を境に分かれて、出っ張った首の下方の骨を露出させた。ごめん、ごめんと繰り返す。
「頭上げてよ」
「まだ足りないよ」
「もういっぱいいっぱいだから」
老夫婦の新規客が鳴らしたドアベルでほんちゃんはやっと頭を上げた。ぐっと目を閉じていたのかアイラインが下まぶたにも転写されてしまっている。老夫婦は大学生バイトに促されてカウンターに座った。白髪が混じっている髭のマスターが奥から出てきて、にこやかに話し始める。常連さんなのだろう。
「ほんちゃん、今、幸せ? ほんちゃんが選んだ人ってどんな人?」
不意を突かれたように「へっ?」と声を上げる。
「ほんちゃんの好きな人のこと、知りたいよ」
「私ね、びっくりするよ。ほんちゃんのままなの」
「え? 指輪は偽装?」
「結婚は本当なんだけど。本田から本多になった。本が多いで本多。たまたまね」
「すごいね。そんなことあるんだ。その人、どんな人?」
「家から掃除のコロコロを切らせないことを信条にしてるような人」
あは、とほんちゃんが笑う。照れながらの笑顔の端に幸せが見えた。幸せなんだな。良かった。良かったけど、いや、良かった。良かったね。
老夫婦にコーヒーカップが届く。おじいさんはカップを顔に近づけて、「うん」と唸った。隣のおばあさんは肩を揺らしながらマスターと話している。
「……あれ気になりますよね。最近設置されたんです。ストリートピアノっていうんですよ」
「誰でも弾いていいんだってね。妻は昔弾けたんだけどね。いまはどう?」
「もう指が動かんよ。カエルのうたぐらいなら」
「それなら私も弾けるなあ。連弾しに行くか」
「そんな恥ずかしいこと!」
ほほほ、と上品に笑うマスター。底をついたほんちゃんのメロンクリームソーダ。私もほんちゃんも別々にしっかりと幸せであるという形ない事実が甘い。
「今でも弾けるの? ピアノ」
いたずらに聞いてみる。ほんちゃんは手をぐーぱーして指の状態を確かめる。かつて、ほんちゃんの指はパソコンのキーボードを叩くためにあるんじゃなかった。事務員として働いているというほんちゃんの指は、そんな、ありふれた、誰にでも代用可能なことではなくて、そう、わたし、私のために鍵盤を押す、押すために、そういう使い方がきっと、
残り少なくなっていたコーヒーを慌てて流し込む。止まらなきゃいけない気がした。
「弾ける。もう校歌は覚えてないけど」
「私だって歌詞覚えてないよ」
「あの曲は弾けるよ。美依子のための曲」
「エリーゼさんが怒るよ。そんな言い方したら」
「ううん。美依子のために弾くよ。あの日の私を救うために。弾かせて」
会計を済ませて店を出る。件のピアノは店から出てすぐの広場に堂々と鎮座していた。なんで店に入るときに見つけられなかったんだろう、と二人で顔を見合わせた。川のせせらぎの中に一つ佇む大きな石のように、会社上がりの人の群れが改札に向かう流れの中、ピアノは奏者を待っている。ほんちゃんは慣れた手つきでスカートをまとめ、キーボードベンチに腰をかける。
あの頃、三十年前のデザインだダサいと言っていたあのセーラー服はもう三十八年前のデザインになってしまったけれど、今でも現役らしい。今もあの檻の中には私たちがいるんだろう。大げさに毎日を生きることに必死だった私たちの後輩たちが、今も同じように大げさにセーラー服を罵っているんだろう。
セーラー服のほんちゃんはここにおらず、もうどこにもおらず、今からただ私のために自分のために『エリーゼのために』を弾く二十六歳のほんちゃんだけがいる。
「笠井美依子。わたし、あなたのために、あの日の私のために、弾くね」
指が鍵盤に吸い付くように位置に収まる。
あ、と思い出す。あの日、最初の音を押したのは私だったことを。
手を伸ばすも間に合わず、私の指を必要とせず、ほんちゃんは最初の一音を愛おしそうに丁寧に鳴らした。ミの音がビジネスシューズの靴音と重なる。
正しい、と思った。
エリーゼを差し置いて 深見みり @fukamiri_3
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