ああ、我が友人よ、勇ましきその足よ

@Khinchin

ああ、我が友人よ、勇ましきその足よ

彼の名前を僕はまだ知らない。なぜなら、彼はもう僕のところには来なくなってしまったし、名付け主も知らないからだ。

彼はいつもチョーカーをつけていた。そして、この田舎に似つかわしくない忌まわしい油と鉄の匂いがした。思い出されるのは彼の鋭い目つきである。彼の境遇などあまりにもその前では無力であった。どんな時でも、その目はどこか遠くを見ていた。この僕には到底思い付かないような遥かな遠くだ。


彼はある程度の周期を持って僕の家の近くにフラッと立ち寄ってはまたどこかに行っていた。僕はベッドからしか彼を見ることができなかった。追いかけようと思って近くの窓を越しても、もう彼はいないのである。その度に僕は自分を呪ってしまう。その度に彼と壁なしで会ってみたいという思いが募る。


彼は素晴らしく身軽であった。颯爽と歩き、駆け、そして争う。彼はおそらく捨てられていたから、近くのゴミ箱をよく漁っていた。他の捨てられたのと残飯争いをしていたが、ほとんど彼が勝っていた。僕の家の近くのゴミ箱も散々漁られていたので、彼のために少し豪勢な残飯を拵えたりした。彼を家に招こうともしたが、彼はその度に僕の手を振り払った。彼はいつも無言だった。だがその目が全てを語っていた。「お前の助けなどいらない」「俺ぁ一人で生きていけるさ」というように。



僕は一ヶ月に一度の定期受診に行くことになった。薬が切れたからだ。重い足で無理やりこの街で一番大きな病院に行く。重い足取りでその病院に向かっている最中、彼がいつもとは違い辿々しく歩いているのを見かけた。彼の目は汚濁した川のような緑だった。なんだか嫌な予感がした。彼は決してそのような目はしない。彼は肌を切り裂くかまいたちなのだ。今までもその鋭さが鈍ったことはなかった。そして、気づいた。彼の後ろには点々と赤が続いていた。それは彼の死神が無情にも彼にヒタヒタと足音を立てて迫っているようだった。そして、わかった。彼の足は一本なくなっていた。というよりぐずぐずになっていた。なぜかは知らない。ただわかったのは、彼はもうかまいたちにはなれないということだ。この僕と同じように。


僕はもう一度彼に手を伸ばした。そして、前と同じ結果になった。彼はただひたすらに気高かった。彼の瞳は浄化され、エメラルドの輝きを取り戻し、再び僕を睨みつけた。彼はまたギリギリと歯を鳴らした。あまりの圧力に歯がミシミシとなっているように感じられた。僕は体格差にもかかわらず、まるで蛇に睨まれた蛙のようになった。彼は確かに一本の足を失っても立っていた。あの時と同じだ。あの少年が起こしたことだ。僕の戦友を躊躇いなく撃ち殺した。僕は、かの戦友がたった三発の弾でその19年を散らせたのを真っ白な頭で見ることしかできなかった。そうだ、僕が怖いのは彼ではない。彼の重みがこの世から全く消え去ってしまうのが怖いのだ。


信じられなかったのだ。人という歴史、信頼、複雑に絡んだ関係がたった三発の弾丸で崩壊するのが。また足が痛む。血だ、鉄だ、そして油だ。轟音がガンガン頭に響く。薬莢の音、倒れる戦友、一瞬で生命が消え去る音、恐怖、銃声、少年の目、蝿、オレンジ色、汗、泥、砲撃。僕が背を翻したことによって伸びる景色、銃声、背中のわずかな痛み、そして轟音、轟音、激痛。


僕の頭は停止ボタンのないCDのように再生する。


その目をやめてくれ。また足が痛む。痒い、でも掻けない、どうしようもない奥に潜む痒みだ。もう嫌なんだ。戦友が死ぬのは。でも僕は忘れられない。覚えていなくちゃいけない。確かに存在した彼らのことを。


油、鉄の匂いがした。いつの間にか気を失っていたみたいだ。今朝飲んだ薬のせいだろうか。確かに、あの医師は副作用として意識消失を上げていたような気がする。先ほどまで再生され続けた記憶はどこか今では他人事のように捉えられる。先ほどまでが体験なら、今は映画館にいるみたいだ。どこか頬が冷たい。まだ意識がぼんやりとするのと、昼寝特有の体の怠さ、そして喉の渇きがある。そうだ、彼はどうなっただろうか。声を出そうとする。しかし、息は鋭い流れで声帯を揺らし、ガラガラと音を鳴らしたのみだった。背中が寒い。僕の体は無意識で悪夢を見ていたかのように濡れていた。


受診は後だ。彼を追おうと決めた。血痕を辿ればいいはずだ。僕の後ろにまだ続いている。足を失ってどれだけ歩いたのだろうか。彼はいまだにかまいたちなんだ、そう思った。血痕は狭い路地につながっていた。そしてその路地には小さな家があり、そこに血の足跡は続いていた。

インターフォンを鳴らそうとしたが、そもそもこの家にはそんな大層なものはついていなかった。その代わり扉の上の方にベルがついていた。ベルを鳴らす。一度二度三度と鳴らしたところで、扉は開いていることに気づいた。扉を慎重に開く。震えたお邪魔しますの声が虚しく響く。歩くたびに床がギシギシとなる。まだ血痕は続いている。そして、居間に入る。彼はどこにいるのだろうか。ついに血痕は途切れてしまっていた。おそらくこの家のどこかには、いるはずだ。居間には本棚が並べ立てられていて、畳は襤褸だった。薄く、ささくれだった畳だ。至る所に引っ掻き傷がある。そして見つけた。彼は本棚の中間あたりに鎮座していた。脂汗を垂らしているような気がした。彼はそれでも瞳に鋭さを持たせていた。ふと気づいた。居間の近くの厨房には鍋がなかった。いや包丁とまな板すらない。家主は二度と戻らぬのだ。何が原因かは知らない。生きられなかった僕なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。ただ、居間には、彼のトイレ、彼の食事が備えられているだけだった。


本棚の彼に目をやる。彼はいきなり本棚から飛び降りた。なれないのか、着地の時に少しよろめいた。彼は大丈夫なのだろうか。そう思って足を見やる。黒かった。本棚には掠れた赤があった。しかし、彼はすっくと立っていた。ただ、勇ましかった。ただ僕とは反対だった。そして、少しよろめきながら歩いて、僕に近づいてくる。僕の足に触れた。おそらく少しひんやりとしているだろう。彼はそれに少し驚いたようだった。彼は僕にとって慈悲であった。あの戦争の犠牲の赦しだった。しかし、それがまやかしであることにすぐに気づいた。僕は彼を見下げて少し微笑んで、それから彼を抱き上げた。彼は抵抗しなかった。僕はその家を後にした。まだ、彼は生きられる。僕の行く病院には確か獣医もあったはずだ。僕は重い足を交互に上げ下げして歩き出した。獣医に見せて、治ったら彼を放すことを心に誓った。また、ミシミシと廊下がなる。もうこの家に来ることは二度とないだろう。振り返って家のなかをじっくりと見た。そして扉を閉めた。衝撃でベルが微かに鳴る。


そして、少し茜の差す長い道のりをゆっくりと歩き出した。血が僕の手を汚す。ただ、残りの足は彼の生命を表すかのように動いていた。

彼は僕とは違う。まだ、彼は残りがあるのだから。まだ、彼はかまいたちでいられる。




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