第52話 へっくしゅ
千曲西中学校の校舎の三階、一番端の教室。教師が長々と唱える呪文を聞きながら、窓際の席のひかりはぼんやりと外を見つめていた。冬の空に張り付いた積雲が、太陽の光をねじ曲げて天使の梯子を作っている。梯子というよりは大きな滑り台だな、なんて思った。
教師の呪文を聞いていないわけではなかったが、XだとかYだとかの可愛げのない文字と向き合うよりも、空を見ている方がずっと楽しい。
その表情が憂いを帯びているのは、最近篤哉に会える機会が全くないからだ。ひかりにとって生きる意味とも言える彼に、もう長いこと会っていない。長いといってもまだ1週間ほどだが。
でもそれでもひかりにとっては、会えない時間は苦痛であり、忍耐の時だった。
ひかりの一番苦手な数学の授業が終わり、ようやく一日が終わろうとしていた。
「ひかりちゃん、一緒に帰ろう」
チャイムが鳴ると同時に“友達”がひかりの席にやってきて話しかけてくる。それにはいつも通り張り付けた笑顔で返した。
「ごめんね。わたし今日は委員会があるから」
「そっかー、残念。委員会がんばってね」
走り去る背中を見届けて、ひかりも席を立った。
委員会が行われる教室へ向かっていると、背中に視線を感じた。誰かが自分の後をつけている気がする。なんだろう。ストーカー? 怖いけど振り返ってみようか。
放課後の廊下には生徒はほとんどいなかったが、まだ明るい時間だし、学校でバカをやる人なんてそういないはず。以前の体育倉庫の件は異例中の異例だろうし。そんなことを思いながら振り返った。
「あ」
ひかりから5メートルほど離れたところに、見たことのある男子生徒が立っている。天空昴だ。
昴はひかりと目が合うと驚いた表情で慌てて視線を反らした。
ひかりも少し驚いたが、昴なら妙なことはしないだろうと思った。挨拶をしようと口を開く。よく見ると、昴の手には女物のハンカチ。
スカートのポケットを探るとハンカチがなかった。きっと自分が落としたのを昴が拾ってくれたのだ。
「先輩。拾ってくれたんですよね?」
ひかりが声をかけるが、昴は喋らない。というか挙動がおかしい。こちらを認識しながらも、視線を合わせずに困った顔をしている。
何も言わない昴に、ひかりはだんだん不安を抱く。まさか、また前みたいに体育倉庫に連れていかれるのでは。いや、でも結局あの時の昴は遠因ではあったが、直接的な加害者ではなかった。何より、変なことをするような人だとは思えない。
再び声をかけてみる。
「あの、ハンカチ。先輩が拾ってくれたんですよね?」
「ごめん」
「え、なんで謝るんですか」
「石ころのくせに桐生さんのハンカチを拾ってしまって」
突然の意味不明な言葉に、ひかりは横に首を傾げた。そして数秒考えて思い出した。体育倉庫の件があった時、“これからは俺のことは道端の石ころとでも思ってくれ”と、昴は確かそう言っていた。自分の言った言葉を彼は忠実に守ろうとしているのだ。
その妙な真面目さに思わず吹き出してしまった。口を押さえて笑うひかりに、昴はますます困った表情になる。
「先輩、真面目すぎ」
「いや、でも石ころだから」
頑なに石ころを演じようとする昴に、呆れながらも笑いが止まらない。変に真面目なところは、あの人に似ていると思った。
昴の方に歩いていき、固まっている昴の手からハンカチをそっと抜き取る。
「拾ってくれてありがとうございます」
敢えて目を合わせてお礼を言うと、更に視線を反らされた。
そのまま昴を残して委員会の行われる教室へ向かう。どうせ同じ委員会だから目的地は同じなのだが、彼の石を演じる意志を尊重しようと思った。
途中、空き教室の窓に映る自分の顔を何気なく見て、笑顔になっていることに気づいた。
普段クラスメイトに対して作り笑顔をすることは幾度となくあったが、こうして自然に笑顔になることはまずなかった。なんでだろうと考える。すぐに答えは見つかった。昴はやはり篤哉と雰囲気が似ているのだ。篤哉と似ている人だから、自分でも気付かないうちに心を許していたのだと。
告白されて振った相手に優しくするのはあまり良くないのかもしれないが、何となく邪険にもできない。ひかりは不思議な気持ちで委員会に出席した。
委員会が終わると、帰り道でまた昴と鉢合わせになった。今日は縁があるなとひかりは苦笑する。昴はまた何も言わずに視線を反らしている。
そんな昴の視線に回り込み、ひかりは笑顔で言った。
「先輩は石ころなんかじゃないですよ」
驚いて固まっている昴を残し、ひかりは走っていった。走りながら、無性に篤哉の顔を見たくなった。
ひかりは一人の帰り道が好きだった。物語を空想したり、空に浮かぶ雲を見て何の形か想像したり、大好きな人に想いを馳せたり。自分の好きなことを自由にできるこの時間が好きだった。
それらは“友達”との帰り道ではできないことだ。だから、委員会のある日は少しだけ寄り道をしたりして、好きな時間を満喫していた。
この日も遠回りして帰って来た。今度は篤哉とどんなデートをしようか、なんて考えていたひかりは、家の前の道に誰かが立っているのに気づくのが少しだけ遅れた。
その人影に目の前に立たれて、下を向いていたひかりは足を止める。見上げた顔は、見覚えがある顔だった。
「よう。ずいぶん遅いじゃねーか」
ぎこちなく笑う金髪の少女。以前体育倉庫でひかりに暴力を振るった不良のリーダー格の少女だ。
一瞬で顔が強ばる。すぐに辺りを見回した。
「他にはいねーよ。今日はあたしだけだ」
「何の用ですか」
かろうじて言葉が出てきた。足がすくんでいる。でも大丈夫。もう家はすぐそこだ。いざとなったらひばりを呼べばいい。
ひかりがそんなことを考える一方で、リーダー格の少女は何かを口ごもる。あの時とは違う様子に少し違和感を覚えた。
「あの、さ……ええと……」
害意がなさそうなことに安堵するが、どうもリーダー格の少女の様子がおかしい。いや、そんなことはどうでもいい。自分に酷いことをした人間にわざわざ付き合うこともないんだ。そう思い、ひかりは少女の脇を通り抜けようとした。
「あ、待てよ! いや……ちょっと待って」
腕を掴まれる。暴力を振るわれるかと咄嗟に顔を庇うが、少女はすぐにひかりの腕を離した。
「何がしたいんですか? もうわたしに構わないでください」
「いや、だから……ああもうっ!」
少女はいきなり道に正座をし、頭を地面に付けた。
「この間は酷いことしてすみませんでした! あたしを気が済むまで殴ってくれ!」
家に向かいかけたひかりの足が止まる。少女が家まで来た理由は途中からなんとなく気づいていたが、まさか道端で土下座をするとはひかりも思わなかった。
土下座のままぴくりとも動かない少女を見て、ひかりは息を吐いた。
「わたし、暴力とか嫌いですから。それにそんなところにいたら通行の邪魔になりますよ」
地に付けた少女の頭は動かない。彼女の欲しい言葉は想像がつくが、ひかりだって心に傷を負った。そう簡単に言ってやるもんかと思っていた。
「許してくれとは言わない。ただ、償いをさせてほしいんだ」
だんだん面倒になってきた。なんでそんな自分勝手なことに付き合わなければならないのか。もう家に入ってしまおうかと思ったが、道の真ん中で微動だにしない少女をこのまま放置しておくこともできない。
考えを巡らせて、少女に対する処遇を決めた。
「じゃあ、もっと自分を磨いてください。不良もやめること。先輩には金髪似合ってないですし」
「はあ!?」
驚いて顔を上げた少女を気にもせずひかりは続ける。
「天空先輩のこと、好きなんですよね? だったら努力して、天空先輩に相応しくなって。たくさん恋をしてください。それが先輩にできる償いです」
顔を赤く染めて困惑している少女を残し、ひかりは踵を返して歩みを進めた。その背中に声がかけられる。
「おい、桐生ひかり!」
ひかりが立ち止まる。振り向くのは面倒だけど、言葉くらいは聞いてやろうと思った。
「あんたの恋、叶うといいな」
短い台詞を背中で聞き届け、再び歩きだした。自分に酷いことをした少女の優しい言葉がなんだかおかしくて、笑ってしまった。
ーーーー
天津川町に唯一存在する小学校、天津川小学校。冬空の下、その校庭で生徒たちが駆け回っていた。
「康太、そっち行ったぞ!」
校庭の遊具に登って辺りを見張っていた弘人の声に反応して、康太はステップを踏んで追っ手の追跡を華麗に躱す。
「そんなスピードじゃオレはつかまえられないぜ。こう見えてオレはドロケイじゃ千曲に敵は」
「バカ、反対側!」
弘人の大きな声に、慌てて振り向く。さっき躱した警察役の男子とは別に、小柄な女子がものすごいスピードで近づいてきている。
前後を挟まれた形だったが、幸いここは広い校庭だ。康太はすぐに二人の間を抜けるように走り出す。警察役の男子はその場で立ち止まってしまったが、女子の方は軌道を修正して追いかけてきた。
康太はトップスピードに乗ったにも関わらず、呆気なくその女子に追いつかれてしまった。
「へへー、康太くんつかまえたっ」
息を弾ませながら康太の肩に手を置いたその女子は、康太と弘人が最近友達になった子だ。
「くそー、速すぎだぜ彩月……」
にこりと笑う彩月。しかしその笑みはすぐに消えた。
「にがさないよ弘人くんっ」
くるりと反転して猛ダッシュ。遊具から降りて人知れず逃げようとしていた弘人も、すべからく彩月の餌食となった。
「ちぇっ、気づかれてないと思ったのになー」
「ふっふっふ。知らなかったの? わたしからにげることはできないんだよ?」
楽しそうに笑う彩月を、康太と弘人の二人は眩しそうに見つめた。
休み時間にクラスメイトたちでやったドロケイは、今日も彩月が獅子奮迅の大活躍だった。
午前の授業が終わり、給食の時間。和やかな時間のはずが、教室内は騒然としていた。康太と彩月が給食の早食い競争をしていたからだ。
「すっげー、はええ」
「おい康太、負けちゃうぞー」
「彩月ちゃんすごーい」
普段なら彩月もこんな行儀の悪いことはしないが、康太にどうしてもとせがまれたので、断れなかった。
今の自分は篤哉には絶対に見せられないな、なんて思いながら、彩月は牛乳を一気に飲み干す。
勝負は終始彩月が圧倒。ドロケイに引き続き康太はまたもや土を付けられた。
「ま、まだだ。次は午後の授業で勝負だ!」
「いいよ。受けてあげる!」
「でも午後って算数だったよな。二人とも算数得意だっけ?」
冷静な弘人の言葉に、彩月と康太の二人は顔を見合わせた。
「分数の割り算かあ。ふ、ふーん」
「え、康太くんできるの!?」
「や、やってやるよ!」
「あ、もうオチ見えたなこれ」
授業の時間になり、彩月と康太と弘人は三人で並んでドリルとにらめっこする。やがて、弘人の鉛筆が動き出した。
「弘人、お前わかるのかよ」
「いや、授業聞いてればわかるだろ」
「ううっ、わたし全然わからない……」
弘人が詰まりながらも進めていく横で、康太と彩月は揃って頭を抱えていた。
「よし、こうなったらヤマカンだ!」
「康太くん、当てずっぽうはダメですよ。わからなかったら先生のところに持ってきなさい」
先生に睨まれて、康太は結局先生に教えてもらいに行き、彩月も慌ててその後に続いた。弘人はそんな二人を見て、“算数だけは永遠に決着がつかなそうだな”と苦笑した。
こうして康太が彩月に様々な勝負を挑むようになったのは、三学期が始まってからだ。どういう思惑があるのかは分からないが、彩月は素直に受け入れていた。
彩月は学校に友達はいるが、完全に馴染めているわけでもない。転校生というのもあるし、あまり考えたくないが片親なのも一つの理由だろう。クラスメイトたちと家族の話になると、父親のいない彩月はどうしても疎外感を感じてしまうし、周りからは腫れ物に触るような扱いになる。それが嫌だった。
でも、康太と弘人は違った。片親だからと変に遠慮することもないし、本音でぶつかってくれている気がする。それが彩月には嬉しかったのだ。最初に死んだ父親のことを二人に揶揄されたのが、逆に良かったのかもしれない。
ともかく、彩月にとって康太と弘人の二人は、クラスメイトの中でも特に仲が良いと言える関係になっていた。
放課後、三人で帰り道を歩く。男子二人に女子一人という構図は、小学校の六年生にもなればあまり見ないものだが、三人は深く考えてはいなかった。
「ちっくしょー、今日も彩月に負け越したかー」
「今日は2敗1分けだったなー康太」
「いつでもちょうせんしてね。待ってるから。弘人くんも」
「オレはいいや。彩月には算数以外勝てなそう」
「えー、一人だけノリ悪いよー」
三人でいることが多くなって、彩月は学校が楽しいと思えるようになっていた。それは、本当の友達といえる子が今まで学校にいなかったからかもしれない。康太と弘人の二人に出会ってようやく自分の学校生活が始まったような、そんな気がしていた。
なんだか少しひかりの猫かぶりに似ているかもしれない、と彩月は思った。
「そういえばさ、彩月って篤哉兄ちゃんの家知ってんの?」
「知ってるよ。よく行くし」
よく行くと聞いて、康太と弘人はやっぱりかと思った。彩月と、それにひかりも、たぶん篤哉に懐いている。二人もそれは理解していた。
「篤哉兄ちゃんって中学の時サッカー部だったんだよな?」
「うん、そう言ってたよ。あっくんと何回かサッカーしたけど上手だった」
「篤哉兄ちゃんにはサッカー教えてもらう約束してるしな。いつか家に突撃する」
「それはあっくんも困るんじゃないかなあ」
そういえば、自分もよくアポ無し突撃を敢行していたっけ。なんとなく篤哉なら許してくれそうな雰囲気があったので、彩月もつい甘えてしまっていた。
今度家に遊びに行く時は、ちゃんと連絡を入れてからにしようと思った。
「よし、これから篤哉兄ちゃんち行こうぜ」
「あっくん今日はお仕事だよ?」
「じゃあとりあえず今日は家だけ教えてくれよ。場所がわからないと遊びに行けないしさ」
「わかった、それならいいよ」
三人は並んで田んぼ道を歩いていく。
こうして、篤哉の知らないところでまた一つ個人情報が漏洩していた。
ーーーー
「へっくしゅ!」
「え、何そのくしゃみー。篤哉くんかわいいー」
「はいはい別にかわいくないから」
営業時間の過ぎた店内でモップを動かしながら、篤哉はぞんざいな返しを入れる。美里に対する扱いがだんだん雑になってきてる気がしたが、まあ別にいいかと思った。
「この時期の風邪は治りにくいですから、気を付けてくださいね」
「そうですね、気を付けます」
店長に返事をしてなんとなく店の入り口を見ると、雪がちらついていた。そろそろ雪も本格的になってくる時期だ。去年の暮れのような事態にはならないように、今日は暖かくして寝よう。そんなことを思いながら床を磨いた。
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