第42話 覚悟はしておいてね



 廊下を歩いてきた敦之は、篤哉とひかりには目もくれずに扉に手を掛けた。その扉は辰夫とひばりが医者と一緒に入っていった部屋だ。


 何か話をしようと思ったわけではない。こちらを一切見ない敦之に対して篤哉は咄嗟に声に出していた。


「父さん」


 敦之はこちらに振り返り、篤哉とひかりを交互に見る。


「悪いな、今は話をしている暇がないんだ」


 静かな声でそう言って部屋の中へ入ってしまった。


 静の親族である辰夫とひばりが呼ばれたのだから、息子である敦之も呼ばれて当然だ。そのことは理解していたが、納得はいかなかった。何に不満があるのかといえば、敦之が静を長い間放置していたことに対してだろうか。ずっと連絡も寄越さずに、今さら何しに帰ってきたんだ。そんな思いが湧き上がってくる。


 そんなことを考えて、それなら自分は静に対して何かしてやれたのだろうかと省みる。一緒に住んでいながら、こうして静を入院させることになってしまった。自分と敦之は何が違う?


 いや、そうじゃない。誰かのせいとかそういう話ではない。突然現れた父親に、自分は混乱しているのだ。深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。


 それにしても、敦之は随分変わってしまった。もともといつも笑っているような人じゃないが、だいぶ疲れた表情だった。昔に比べて身体も痩せている。たった二年会わなかっただけで、10歳以上も年をとってしまったように見えた。


 今この部屋でどんな話をしているのだろうか。敦之も呼ばれたということは、これでこの場に親族全員が集まっていることになる。なんとなく聞き耳を立ててみるが、当然部屋の中の話し声は聞こえない。


 相変わらず暗く静かで陰鬱とした院内の空気は、篤哉の不安を一層掻き立てていた。


「あつにぃ……」


 隣のひかりが腕を掴んでくる。ひかりだって静のことが心配だろう。ひかりを不安にさせるわけにはいかない。


「まあ、お金のことはちゃんと話をしないとな」


「え? 話ってお金の話?」


「そりゃそうだろ。もうばあちゃんの入院も半年以上になるからな。入院費がすごい金額になっててもおかしくないと思うし」


「そう、なのかな」


「それしか考えられないよ。うーん……俺も少しだったら払えるけど、果たして俺の貯金で足しになるかどうか」


「そうだよね、うん」


 ひかりの表情に少しだけ明るさが戻ってきた。篤哉はほっと胸を撫で下ろす。





 しばらくすると、辰夫たちが部屋から出てきた。辰夫とひばりの表情が暗くはなかったことに、篤哉は少しだけ安堵する。敦之は部屋に入る前と同様に疲れた顔をしていた。


 薄暗い廊下に親戚一同が全員集まった。


「久しぶりにみんな集まったことだし、うちで宴会でもしようか」


「昨日もやりましたよね? そして酔いつぶれましたよねあなた」


「いやあ、昨日は久しぶりのお酒だったから。どうです? 敦之義兄さん」


 辰夫が笑顔で言うと、敦之は疲れた表情のまま首を横に振った。


「すまない辰夫くん。私はこれから行くところがあるんだ」


 今度はひかりの方へ向く。


「ひかりちゃん、大きくなったな。見違えたよ」


 ひかりに対しては少しだけ笑みが浮かんでいた。敦之なりの気遣いだろうか。


「そうかな。少しは大人っぽくなれてますか?」


 ひかりの言葉に笑みを返す。そして、敦之は篤哉の顔を見る。今度は笑ってはいなかった。


「父さん、今どこで寝泊まりしてるんだよ」


「千曲駅近くのホテルだ。心配するな、こっちにいる間お前には迷惑かけない」


 そう言われて篤哉はなにも言えなかった。たぶん二人きりになったら会話に困るだろうし、“うちに来ればいいのに”という言葉は篤哉の喉から出てこない。

 そういう篤哉の気持ちを理解した上で迷惑かけないと言ったのか。

 何にせよ、自分たち父子は歪だと思った。




 病院の前で敦之と別れ、ひばりが真っ先に愚痴るように言った。


「実の妹には何一つ声かけてくれなかったんですけど。なんなのあの人」


 そんなひばりに、三人は苦笑した。






 その後、篤哉は桐生家へ招かれた。


 家の中に入ると懐かしい匂いと景色が迎えてくれた。

 家具の配置などはだいぶ変わっていたが、この家で過ごした思い出は今でも思い出せる。

 昔はなかった高そうなソファにひかりが座り、篤哉はその隣に座る。


「いやあ、家だと気兼ねなく飲めるというのがいいね」


 ソファの上座に陣取った辰夫は、ひばりがコップに注いだビールを機嫌良さそうに飲んでいく。機嫌は良さそうに見えたが、昨日の宴会の時よりもペースが速いような気がした。


「パパってお酒飲んだらすぐ寝ちゃうのに好きだよね」


「まあ、これは大人にならないとわからないだろうね。ひかりと一緒にお酒を飲める日が楽しみだ」


「ねえ、そういえば篤哉くんはお酒飲まないの? もう二十歳になったんでしょ?」


「なんとなく自分を見失っちゃうのが怖いというか。それにたぶん俺は弱いと思いますし」


「えー、そんなの飲んでみなきゃわからないでしょう」


「そうだぞ篤哉くん。人っていうのは何度も吐いてお酒が強くなるんだ」


「あはは、今日はやめておきます」


 そう言うと、ひかりがむっとした顔になる。


「まさかあつにぃ、今日は帰るとか言わないよね?」


「え、普通に帰るつもりだったけど」


「えーなんでー! だってもうバスないし、歩いて帰るつもり?」


「まあ、それしかないかなあ」


「せっかく来たんだから泊まっていけばいいのにー」


「ひかり、あんまりわがまま言わないの。篤哉くんだって色々あるんだから」


「じゃあ、せめて帰るまで相手してよね?」


「お安いご用だ」


 篤哉が帰るまでひかりは本当に隣を離れなかった。色々な話をしたが、篤哉はどこか上の空だった。

 もし今日病院で何もなければ、篤哉も桐生家に泊まったかもしれない。しかし、静の担当医の話や敦之のこと、一人で考えたいことがある。

 




 夜になって、ひばりの運転で家まで送ってもらうことになった。


「ひばり叔母さんが飲まないでいてくれて助かりました」


「んー、今日は上手に酔えそうな気がしなかったからね」


 “そもそもあなたはザルでしょう”とツッコミを入れそうになったが、それはやめておいた。なんだかひばりはいつもと違ってしおらしい。いや、これは失礼かもしれない。


「それにね、なんとなく今日は篤哉くん帰るって言いそうだったから。一人で色々整理したいんでしょう?」


「ええ、まあ」


 自分の思考がひばりに読まれていたことに少し驚いたが、同時にその気遣いに感謝した。ひばりはよく人を見ている。


「じゃ、あたしから一つだけ言っておくわ」


「なんでしょう?」


 運転席のひばりは前を見ながら真面目な顔になった。真面目というよりも、まるで前の車を睨むような顔だ。篤哉もなんとなく姿勢を正す。


「覚悟はしておいてね」


 それだけ言ってひばりは押し黙る。


 ひばりの言葉が脳に浸透するのに少しだけ時間がかかった。今日の出来事に照らし合わせ、そして意味を理解する。


 目の前が真っ暗になった。身体に力を入れようとしてもうまくいかない。しまいには涙が流れてしまいそうになる。心の中には“なぜ”という言葉しか浮かんでこない。


 でも、ここで泣いてしまうのは男らしくないと思い、なんとか堪えた。


 ひばりを見ると、悔しそうな目をしていることに気づいた。篤哉は何も言えなかった。


 そのまま20分ほど沈黙したままドライブし、家の近くまで来てようやく篤哉が口を開いた。


「ひかりには、なんて言うんです?」


 車を停めて、ひばりが下唇を噛む。10秒くらいして、少し笑いながら言った。


「篤哉くんに任せても、いいかな。無責任かなあ」


 初めて聞くひばりの真面目な弱音だった。ひばりだって辛いんだ。もちろん辰夫だって。だったら、その辛さを自分にも背負わせてもらいたいと思った。


「いいですよ」


 なんとか笑顔で返すと、ありがとうと掠れた声で言われた。





「次回は篤哉くんも一緒にお医者さんの話を聞いてもらいたいの」


 別れ際にそう言ってひばりは帰っていった。


 ひばりを見送って、我が家の守り神と守護天使に挨拶をしてから家に入る。


 “覚悟はしておいてね”というひばりの言葉がずっと頭から離れなかった。


 静は見た目ではわからないくらい元気に見えた。何日か前には自分のひかりと彩月に対する気持ちを聞いてもらったし、今日はいつも通りの静も見れた。


 いつからなのだろう。いつまでなのだろう。可能性はもうないのだろうか。その時がもし来るとしたら、自分はどんな顔をすればいいのだろう。


 覚悟とは、何に対する覚悟だろう。


 ぐるぐると頭の中を廻る問いかけは、全て曖昧だ。曖昧で答えが出せない。答えを出すには、自分も医者の話を聞かなければいけないのだ。


 ふと、このタイミングで帰ってきた敦之のことを、まるで死神のようだと思ってしまった。 慌ててそれを振り払う。いくら歪な関係だからといって、自分の父親をそんな風に思うのは人としてダメだと思った。


 しかし、急に目の前に現れた父にどう接していいかわからないと思っている自分がいることを、篤哉は感じていた。




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神蔵敦之 かみくら あつゆき


篤哉の父親。41歳。仕事で遠くへ出張していたが、とある事情で帰郷する。物静かで生真面目な性格。

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