【アップ】男山教会2023年4月2日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります
天川裕司
【アップ】男山教会2023年4月2日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります
【本日の礼拝メッセージ】
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=4K0Wa3C5rMI&feature=youtu.be
【アメーバブログ】
聖書や讃美歌の内容などは、こちらのブログより閲覧できます。
ぜひお気軽にお立ち寄り下さい^^
https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12797286348.html
前奏
招詞 詩編65編2~6節
頌 栄
たたえよ、主の民[こ改25]
開 会 祈祷
主 の 祈り
十戒・祈祷
子ども説教
子どもと親のカテキズム問29
「イエスさまのつとめ」
こどもさんびか
じゅうじかのうえの[旧37(1)]
牧 会 祈祷
讃 美 歌 515番(1,2)
聖書
ルカによる福音書23章26~33節(新約P158)
詩編22編25~32節(旧約P853)
説 教
「三人の十字架
~犯罪人の一人に数えられたイエス」
宮武輝彦
祈 祷
讃 美 歌 515番(3,4)
使 徒 信条
聖餐式
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 541番
祝 祷
報 告
讃美歌~♬
讃美歌515「十字架の血に清めぬれば」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=7M6EE77KZ0w
1
「十字架の血に きよめぬれば、
来よと」との御声を われはきけり。
主よわれは いまぞゆく、
十字架の血にて きよめたまえ
2
よわきものも みちからをえ、
この身の汚れを、みな拭われん。
主よわれは いまぞゆく、
十字架の血にて きよめたまえ。
3
まごころもて せつにいのる
心にみつるは 主のみめぐみ。
主よわれは いまぞゆく、
十字架の血にて きよめたまえ。
4
ほむべきかな わが主のあい、
ああほむべきかな わが主のあい
主よわれは いまぞゆく、
十字架の血にて きよめたまえ。
頌栄集 讃美歌539・540・541・542・543・544番 メドレー
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=6lHQPiZILD0
(ブログを見て下さると歌詞も閲覧できます)
2023年4月2日 礼拝説教 中心聖句
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
ルカによる福音書23章33節
主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく 助けを求める叫びを聞いてくださいます。
詩編22編25節
はじめに
主の受難週を迎える今日、十字架への道をともに学び、聖餐をささげる。
1
「人々はイエス(彼)を引いて行く途中」とは、前の夜、敵の手に捕らえられ、最高法院で裁判とピラトの尋問を経て、不当な扱いを受けたイエスの有様。「そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。」「そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。」とは、事実、イエスは、犯罪人同様に扱われたことを証しする。「田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。」マルコ福音書は、「アレクサンドロとルフォスとの父」「兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」(15章21節)と証言する。キレネは北アフリカのリビア地方(使徒2章10節)。多分、シモンは過越祭の巡礼者であり、聖霊降臨の日に回心したかはともかく、異邦人キリスト者の一人。わたしが負うべき十字架を、主が負われたことを身をもって知ったのが、キレネ人のシモン。
2
「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエス(彼)に従った」とは、ローマ当局によって禁止されなかった、あるいは、許容された、自由な行動。しかし、この大きな群れの全員が、キリストの弟子というわけではなく、本当の弟子と言える人は、婦人たちの多くの者たち。それは、「嘆き悲し」んでいたからではなく、「(まことのイスラエルの君でいます)イエスは(が、)婦人たちの方を振り向いて言われた」、主の言葉による。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々は、『子の産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房を幸いだ』という日が来る」と予告は、子孫をもつことの方が不幸というこの上ない大きな災いと神の裁きと非常な悲しみの予告。歴史的には、エルサレム崩壊(A.D.70)と幾世代にも渡るユダヤ人の悲惨。「そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める」とは、揺るぎないものに縋る心情を表す。
3
「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか」と、命の君でいますお方(イエスご自身)が、死ぬのなら、このお方を死に定めた(不信仰と背信の)イスラエルの行き先はどうなるのか、と問う。「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った」「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」当初、「都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」バラバが釈放され、「その男を殺せ」との叫びの中で、イエスは、身代わりに、十字架につけられた。それは、神の御心においては、「わたしたちのために先駆者としてそこ(至聖所の垂れ幕の内側)へ入って行」く、永遠の大祭司キリストの道であった。この御方をわたしの身代わりに死なれた「主」と信じるか。
おわりに
詩編22編は、主の受難を告げる預言。その救いの実りは、「命に溢れてこの地に住む者はことごとく主にひれ伏す」全面的な救いであり、「子孫は神に仕え」「主のことを来たるべき代に語り伝える」、神の恵みによる契約の実現と信実。
(Mynote)
二〇二三年四月二日(日曜日)、今日も礼拝できる環境が与えられて居る事を神様に感謝する。
〈子供メッセージ〉
『子供と親のカテキズム問二九』
「イエス様は、どうしてイエス・キリストと呼ばれるのですか?」
「『イエス』とは主は救い、『キリスト』と油注がれた方と言う意味です。昔、預言者が祭司や主は油注がれて、その務めに就きました。イエス様は、聖霊によって油を注がれ、神様によって完全な預言者、祭司、主として、救い主の力に就かれました。」
教会で為される全ての良い事、世界で為される全ての良い事・信仰に通じる物事は、イエス様が救い主である事を信じる事に繋がる。人々の救いと教会(信仰)とは、イエス様が執り成して下さる。
〈公同礼拝〉
『ルカによる福音書』(第二三章二六〜三三節)
『詩篇』(第二二篇二五〜三二節)
福音書も過去の記録・歴史が記されて居る。イエス様は罪が一つも無いのに関わらず、両脇に罪人が置かれ、共に(一緒にされる形で)十字架に付けられた。教会の中で成される事は、十字架を欠いて成立しない。全ては十字架による救いに恵みが在り、イエス様が十字架に掛かられて全ての人の罪が許された…と言う事を信じる事が、生まれながらの罪人の人間にとって最大の恵みに成る。
イエス様は「されこうべ」と呼ばれる丘に向かった。何故?自分が死ぬ為である。人々の為に死ぬ為。しかしそれは死ではなく、三日目の甦り・罪人の永遠の復活を約束するものだった。ピラトはイエス様に一つの罪も見出せなかった。だからムチ打ちにするだけでイエス様を釈放しよう…と考えた。「イエス様を十字架に付けろ!」と大声で要求し続けた群衆(人間)もそうすれば(ムチ打ちにすれば)、おそらく気が済むだろうとして。しかし群衆は更に声を上げて姿勢を強靭なものとし、「イエス様を十字架に付けろ!代わりにバラバを釈放せよ!!」と叫び続けた。詰り大勢の人間がイエス様を殺したのである。ピラトは結局当時のユダヤの習わしに従いその恩赦でバラバを釈放し、イエス様の方を十字架に付けた。我々現代人を含め全ての人間は、この時イエス様の代わりに磔刑から逃れたバラバに身を置き換える事が出来る。十字架刑とは当時、本当に辛い極刑である。
イエス様のその十字架と同じ十字架を、クレネ人・シモンも途中から負う事に成る。この時(十字架を背負わされて街道をずっと歩く)イエス様は多くの群衆の目前を一歩ずつ歩いて行かれ、その間、その群衆の多くから唾を吐き掛けられ、罵られ、辱められた。その群衆の中からクレネ人・シモンが選ばれ引き出され、イエス様の十字架を負わされた。この時又その群衆の中でイエス様の弟子と呼べるのは、初めからイエス様の事を悲しみ泣いた婦人達だけだったか知れない。
「エルサレムの娘達よ、私の為に泣くな。寧ろ、あなた方自身の為、また自分の子供達の為に泣くがよい。『不妊の女と子を産まなかった胎と、含ませなかった乳房とは、幸いだ』と言う日が、今に来る。その時、人々は山に向かって我々の上に倒れかかれと言い、また丘に向かって、我々に覆い被されと言い出すであろう。もし、生木でさえもそうされるなら、枯れ木はどうされる事であろう」(『ルカによる福音書』第二三章二八〜三一節)
当時、不妊と言うのは本当に悲しい事だった。当時の人々の習慣により、そうさせられ、そう信じる様に成って居た。でもイエス様はその不妊を悲しむなと言う。それは子を亡くす事、子が死ぬのを見ずに済む事が幸いだと言う事。大きな患難がやって来て、その様に成る時代が来るからだと言う。子を産む事の災いが改めてやって来る事を教えられた。それ迄のユダヤ人始め全ての人々の常識を覆される事を、救いと共にイエス様は教えられた。全ての人は生きる上で、様々な試練・患難がやって来た時、必ず安心・安全を求めるものだ。ここで言う「生木」とはイエス様の事を表して居る。「枯れ木」とは朽ちる死を指し、ユダヤの廃れた律法や当時の人々の習慣・主義の持ち方を意味する。
大事な事はいつでも「我々人間が何を信じるか?」である。人間の習慣か、神様に依る真実の救いか?
イエス様は自らの人生を賭し、神様が与えられたその盃(役割)を以て全ての人の永遠の救いと成られ、人々の信仰を大いに励まされ力付けられた。この励ましと力付けは全ての罪人にとって最大の救いであり恵みである。最後に残されたのは希望である。この希望は神様が一人子のイエス様を通し、全ての人々に与えられた救いに在り恵みに在る。イエス様の両脇で十字架に付けられた二人の罪人も、一人はイエス様に文句を言い、もう一人はイエス様に「あなたは今日、私と共にパラダイス(天国)に居る」と言われ救われた。
【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/
Table Café~
「罵られた救い主」THE DAILY with Arthur Hollands 2023/04/06
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=fN7dZRDKBHk
中川牧師とめぐる旅:イスラエル到着
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=_IFxOMCTj6c
不思議のパルプンテ
https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos
(お暇な時にぜひどうぞ)
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