第20話
萌夏が湖中さんと話すこと30分、どうやら一通りの話が片付いたらしく萌夏がトイレに向かった。
萌夏がトイレに入った直後、湖中さんが立ち上がり、客もまばらな店内を歩いて俺の目の前にあるカウンター席に座った。
「なかなかに修羅場だったわね。あの子とお風呂入ったの?」
「入ってませんよ。乱入されただけで、すぐに追い出しましたから」
「あら。じゃお泊まりはしたのね」
「うっ……」
湖中さんが察したようににやりと笑う。
「ま、仲良くしてあげてね」
「えぇ。程々に」
「あ、そうそう。私にとっては大事な売り物でもあるから。傷はつけないでね。体も、心も」
「変なことはしませんよ。友人です」
「常連じゃなくて?」
「そっ……そうでもありますけど……」
俺が照れながらそう言うと湖中さんは笑いながら「いじるのは程々にしましょうか」と言い、真面目な表情で萌夏のいるトイレの方に顔を向けた。
「けど……だいぶ元気になってた。スランプ脱出も見えてきたわね」
「早くないですか? まだ一か月も経ってないですよ」
「劇薬なんじゃない?」
湖中さんが笑いながら俺を指差す。
「効き目はマイルドだと思いたいですけどね」
「副作用はあるのかしら」
笑いながら湖中さんがそう言ったところで萌夏がトイレから出て、俺たちの方を怪訝な目で見てきた。
湖中さんが誤魔化すように踊りながらテーブル席に戻っていくので事なきを得た。
◆
萌夏は朝から来ていたため昼過ぎに帰宅。一人で店を切り盛りすること数時間、閉店時間を過ぎて片づけをしていると、カランカランと扉についたベルが鳴った。
「やっほ」
萌夏が無表情なまま手を挙げて挨拶をしてくる。
「お客様、閉店時間を過ぎておりますのでまた明日お越しください」
「や、私客じゃないから」
萌夏はそう言って俺の前までやってきて、勢いよく頭を下げた。
「匠己さん! ごめんなさい!」
「なんか謝るようなことしたか?」
伊里とのことを言っているんだろうけど、別に謝られるほどのことでもないため、普段と同じ態度で返す。
萌夏は上体を起こしたものの、相変わらず俯いている。
「……邪魔した」
「今日は耳が悪いんだわ。聞こえない」
「……伊里さんとのこと。邪魔した」
「聞こえない」
「伊里さん! 私が邪魔した!」
萌夏が持ち前の声量で叫ぶ。近くにあるやかんから空気の震えによってボォンと振動する音が聞こえる。
「聞こえないふりしてたんだから察しろよ……別に気にしてないし、萌夏ちゃんが謝ることもない。明日からまた元通り。それでいいだろ?」
「元通りって、どこまで?」
萌夏がじっと俺を見てくる。真面目な雰囲気なので萌夏から視線を外せなくなる。
深めに呼吸をするたび、萌夏の胸が上下するのが見える。相当に緊張しているのか、少し息が荒い。
顔も赤く、鼻からは鼻水が垂れている……って風邪ひいてないか!?
「萌夏ちゃん、ちょっと座って」
俺が椅子を引いて座らせると萌夏は不服そうに俺を見上げてきた。
「あっ……ま、まだ返事聞いてない!」
「一日や二日で心変わりなんてしないよ」
そう言いながら萌夏の額に手を当てる。明らかに発熱している熱さだ。
「こんな体調悪いのに来たのかよ……」
カウンターの向こうからティッシュを取って萌夏に手渡す。ちーん、と鼻を噛んだ萌夏が「や、元気」と鼻の詰まった声で言った。
「ね、匠己さん。あれやってよ」
「あれ?」
「熱を測るのにおでことおでこをくっつけるやつ」
「意味ないだろ……」
「あるよ。私がさらに発熱する」
「カイロかよ!?」
「や、使い捨ては困るな」
「俺、使い捨てカイロも何回か使うんだよな。何回か振ったら暖かくなるだろ?」
「匠己さんがものを大事にするのは分かったけど、使い捨てとか、何回も振るとか縁起でもないこと言わないでほしいよ」
「じゃ、一生大事にする」
「ちょっ……な、何言ってるの!?」
「なんてな」
萌夏は唇を尖らせて「むぅ」と非難の目を向ける。
「ま、けど薄っぺらい言葉だよな。『一生大事する』なんてさ」
「激しく同意。一生なんてね、どうなるかわかんないよね」
萌夏はそう言うとふらつきながらテーブルにもたれかかる。
「大丈夫じゃないな……家、送ってくよ。タクシー呼ぶからあっちのソファで寝てな」
「……タクミーがいい」
突っ伏した萌夏が呟く。
「タクミー?」
「ん。タクミー」
「なんだよそれ」
「匠己さんの背中、私乗る、匠己さん歩く」
「じゃあおんぶで送れってことだな!?」
「ん。それがタクミー」
「仕方ないな……普段、売上に貢献してくれてるからサービスだぞ。それだけだからな」
照れ隠しにそう言うと萌夏は「ツンデレだなぁ」と弱々しく笑って目を瞑った。
◆
片付けを終え、店を出て萌夏をおんぶして歩く。
「軽いな」
「中身は激重だけどね」
萌夏はそう言って俺の右肩に顔を乗せた。
「普通だよ、普通」
「そっか。ならいいや。顎ドリル〜」
萌夏がいきなり俺の肩を顎でグリグリしてきた。
「いだだ……次やったら降ろすからな」
「はい、ごめんなさい」
萌夏がシュンとした態度で謝ってくる。
「風邪引いてるんだから大人しくしとけよな……」
「ん。大人しくしてるから聞いてもいい?」
「いいぞ。なんだ?」
「おっぱい、当たってる?」
「今すぐにおろしていいか!?」
「顎ドリルしてないじゃん」
「顎ドリル、もしくは胸が当たってるか確認してきたら降ろすからな」
「りょ。じゃその2つはしないから聞いてもいい?」
「なんだ?」
「私のこと、好き?」
ドクン、と胸が跳ねる。
返事はせずに、ひたすら歩く。
萌夏はそれでも何も言わず、ただ背中で萌夏の鼓動だけが早くなっていくのを感じる。
萌夏の家に向かう途中、公園に生えている金木犀の木を見つけて立ち止まる。
「萌夏ちゃんのこと、好きだよ」
そう言って萌夏をおんぶしたまま金木犀の木に近づく。僅かに花が咲いていて、ほんのりと秋の香りがした。
「ふっ……た、匠己さん……わたし、鼻詰まってて匂いわかんない……ふふっ……」
「あ……そっか。ごめんな」
「や、いいよいいよ。けどすごく早いね。先走り……カウパー金木犀だ」
「言葉は選べよ。今日のことは多分死ぬまで覚えてることになるからな」
「や、それは困る。告白の言葉が『カウパー金木犀』なのかぁ」
「萌夏ちゃんが勝手に言っただけだろ!?」
「記憶は都合のいいように改変されていくんだよ。多分、10年後には匠己さんが金木犀の木の前でカウパーを垂れ流してたって話になってる」
「次カウパーって言ったら降ろすからな」
「カウパー」
俺はその場で萌夏を降ろして振り向き、萌夏を抱きしめる。
「匠己さん、私ね、言ってなかったことがあるんだ」
「なんだ?」
「今度メジャーデビューするんだよね。ヨネって名前で歌手やってて。曲も作ってる。今日お店に来てた人はマネージャーなんだ」
「うん。知ってた」
「そっか。ま、そんだけ」
会話が途切れたところでびゅーっと風が吹き去り、身体を離す。
至近距離で見つめ合っていると萌夏が目を瞑り、すぐに目を開けた。
「あ、風邪うつっちゃうからキスできないや」
「じゃ、これで」
俺は萌夏の額に自分の額をぶつける。
コツン、とぶつかった瞬間から、燃えるような熱さを感じた。
「あっつ……帰って寝ような」
「ん。看病よろしく」
熱で火照り、若干涙目になった萌夏が笑いながらそう言う。
「おんぶするか?」
「や、歩ける。手、繋ごっか」
萌夏が手を出してくる。二人で指を絡めて手を繋ぎ、萌夏の自宅までの残りの道のりを、並んで歩くのだった。
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