第19話
朝、目を開けると目の前に萌夏の顔があった。
萌夏は目を開けて起きていて、俺の寝顔を見ていたらしい。
「おっ……おはよ……」
「おはよ、匠己さん」
萌夏は穏やかに微笑み、その場で上体を起こす。何故か寝ている間に着替えていたらしく、ふわふわもこもこパーカーを着ていた。
少し寝癖がついているので、萌夏もちょっと前に起きたはずなので不思議だ。
俺の視線に気づいた萌夏が恥ずかしそうに頬をかいて、俺から顔を逸らした。
「や、これは寒かっただけだから。匠己さんが喜ぶと思ってわざわざ夜中に洗濯が終わるタイミングに起きて着替えたわけじゃないから。勘違いはしないでほしい」
淡々とツンデレっぽいことを言われるのでつい笑ってしまう。
「寒かったなら仕方ないな」
「ん。仕方ない。どう? 最高の一日をスタートさせられそう?」
「寝起きは上々」
俺がニット笑ってそう言うと萌夏も同じように笑う。
「ふあぁ……朝ご飯、作る?」
あくびをしながら萌夏が尋ねてくる。
「そりゃ作るだろ。なんのためにケチャップを買ったと思ってるんだよ」
「あー……その件なんだけど……青山萌夏を応援いただいている皆様に大切なお知らせがございます」
萌夏が正座をして改まる。
「それSNSで見てドキッとするやつ。大体解散か活動休止かメンバー脱退のお知らせのやつ」
「重大報告!」
「動画サイトのサムネにあるやつ。大体どうでもいいコラボ商品の宣伝のやつ」
「えー、緊急で動画回してます」
「全然緊急じゃないやつ。緊急なのに化粧バッチリで――で、ケチャップに関する大事なお知らせはなんなんだよ」
「実はね、冷蔵庫の奥にあったんだ。未開封のやつ」
「キープじゃんかよ……」
「あ、そのケチャップに匠己って書いておこうか?」
「今日はどっちを開けるんだ?」
「キープしてた方かな。賞味期限、近いし」
「ただのケチャップの話なのに妙に心にグサッとくるな」
「や、匠己さんはまだまだこれからっしょ。発酵食品みたいなもんだよ」
「どうせ俺なんか納豆だよ」
「や、生ハムだよ」
「生ハム……」
怒るに怒れないレベルのいいチョイスなので、考えこんでしまった。
◆
萌夏に見送られて一人で開店作業のために喫茶店に向かう。彼女がいたらこんな感じで仕事に向かうのか、と思うと中々に最高の一日じゃないかと感じてきた。
店の前に到着すると、まだ開店まで時間があるというのに開店待ちをしているような人を見つけた。
店の入口に近づくと、その人が、また頭から爪先まで水をかけられたように濡れた伊里だと分かった。
「う、上島さん……? また喧嘩でもしたんですか?」
伊里は顔を上げて不健康な笑みを浮かべる。
「いえ、ホースで庭の花に水やりをしている人がいて……その前を通った時にたまたま犬がホースを踏んじゃって水をかける先がズレちゃって」
「そこを歩いていたら水がぶっかかった?」
伊里はコクリと頷く。
最高の1日の人がいれば最低な一日の人もいる、ということなんだろう。
「なんかすみません……」
「マスターさんに謝られることはないですけどね……」
「とりあえず……どうぞ。入ってください。掃除とかあるのでうるさいですけど、タオルくらいは貸しますよ」
「あ……ありがとうございます」
俺はニッと笑って伊里を店内に受け入れた。
◆
開店準備中、伊里はタオルをかぶって店の奥にあるテーブル席の椅子に座っているだけで話しかけてこなかった。自分の中で何かを整理しているのか、単に気を使っているのかは分からない。
開店時間を迎え、店の入口にある札を『Close』から『Open』に引っくり返して戻ってくると、「カフェラテをください」とカウンター席に移動してオーダーしてきた。
記念すべき今日の一杯目、気合を入れて作り始めると、すぐに次の客がやってきた。
それは、白いふわふわパーカーを着た萌夏。ズボンやインナーは普段のシンプルなものなので、明らかにコーデとしてはパーカーが浮いている。
「い……いらっしゃい」
「や、来ちゃった。わ、上島さんも来てたんだ。また濡れたの?」
「あぁ……はい。実は――」
2人が話し始めた瞬間、また次の客が来店。見覚えのある美女は萌夏のマネージャーをしている湖中さんだった。
「ゔぇっ……こ、湖中さん!? なんでここが……」
「昨日、夜に返すって言ってたメール、返してくれてなかったじゃない?」
「あー……あはは……い、いま口頭で返信しても?」
「えぇ。あっちでゆっくりと聞かせて。マスター、ホットコーヒーを2つ」
「はい。一つはアイスコーヒーにしておきますね」
俺が萌夏を見ながらそう言うと湖中さんは頷いて萌夏を店の奥にあるテーブル席に連行する。大方、仕事の連絡をブッチしていたんだろうと想像する。
カフェラテ、ホットコーヒー、アイスコーヒーを順番に用意して提供していく。
作業が終わって一息ついたところでカウンター席から伊里が話しかけてきた。
「マスターさん、少しお話しても?」
「えっ、えぇ。構いませんよ」
「その……実は水、本当はあいつにかけられたんです」
「ウエジマさんですか?」
伊里はコクリと頷く。
「また喧嘩ですか?」
「そうですね。けど今回は別れるって言って逃げてきました。本当にスマホの通知にカノンがいたんですよ、『香』に『暖』でカノンです。やっぱり浮気されてました」
「そうでしたか……」
萌夏も中々に鋭い嗅覚をしているらしい。
「はい。まぁ……薄々わかってはいたんですけどね。皆さんに背中を押してもらったのでお礼を言いたくて」
「俺は何も。二人には俺から伝えておきますよ」
「お願いします。けどマスターさんにもお礼がしたくて。その……新しい恋……といいますか」
伊里が上目遣いで俺を見てくる。今度の今度こそ本当にモテ期到来か!? と思う。しかし、どう対処したものか。
「あぁ……ええと……そうですか――」
「止めといたほうがいいよ」
俺が言葉を濁していると、いつの間にか萌夏がカウンター席に来ていた。湖中さんを見ると苦笑いをしながら肩を竦める。
萌夏は伊里に背中を向けるように椅子を回転させて座った。俺からは萌夏の横顔が見える。少し暗い表情をしていた。
「なんでですか?」
「すぐ客を沼らせるヤバい人だから」
「じゃ、あなたはなんで通ってるんですか?」
「こっ、このお店の雰囲気が好きで! 先代から! 知ってる? このお店、毎日流れる曲のジャンルが変わるの! 今日は木曜だからUKロックの日なんだ」
「今流れてるのって……ストロークスだからアメリカじゃないですか?」
「よっ、洋楽全般の日なの!」
さすがバンドマンの女。音楽には詳しい。
「そうですか……私は別に、水をかける人じゃなければ大丈夫ですよ?」
やや伊里が優勢なのか、萌夏は苦しそうな表情で下を向く。
「水はかけてこないけど……とにかくこの人はダメ。素直じゃないし、部屋着の性癖が特殊だし。昨日だって私の家に来て風呂場で『服を脱げー!』って言ってきたんだよ」
「うーん……お風呂場で服を脱ぐのは普通じゃないですか?」
明らかに伊里が正論だ。というか萌夏の余裕がなく支離滅裂なことを言っている。
だが、伊里の視線の先はすでに俺ではなく、萌夏の小さな背中に向かっていた。伊里は萌夏を指差して、ニヤニヤしながら俺を見てくる。
なんとなく、伊里にも俺と萌夏の関係性が伝わってしまったらしい。
「あなた、マスターさんのことが好きなんですか?」
萌夏がビクッと身体を震わせる。
「べっ……別に好きじゃないし。こんなツンデレマスターとか……別に……なんとも。喫茶店のマスターのくせに全然モテなさそうだし、似合わない髭をすぐ剃ってくれるし、私のわがままにもバカな話にも付き合ってくれるし、勝手に私のエビマヨおにぎり食べるし、変なところで紳士的だし、相性50%だし、自称納豆の生ハムだし、勝手に人をドキドキさせて血圧上げてくるし。健康に悪いんだよね。まっ……まぁ……ぜっ……全然好きじゃないこともなくて……好きじゃなくもなくもないけど、私の――な人」
萌夏が早口でまくしたてる。最後は脳みそが口の筋肉を追い抜いたらしく、言葉になりきらなかった。
それを聞いた伊里は目を細めてニッコリと笑い、俺に口パクで「可愛いですね」と言ってきた。俺も肩を竦めて伊里に無言で返事をする。
「へぇ……そうなんですね。確かに。長年付き合いがありそうな感じがしますから、あなたのいうことなら信頼できそうです」
伊里はそう言って姿勢を整えて続ける。
「マスターさん、定期的に相談しにきてもいいですか? 常連……友人として。この人や前のおっとりした人と友達になりたいんです」
「あぁ……はい。どうぞ。二人共、よく店に来るので、いつでも」
「はい! あっ……今日、これから引っ越し先を探さないといけなくて。ご馳走様でした」
伊里は半分以上残っていたカフェラテを一気に飲み干して伝票を片手にレジへ向かう。
俺が会計をして、カウンター席へ戻ると、萌夏はまだカウンター席に一人で座って俯いていた。
「どっちがツンデレか分かんないな、こりゃ」
萌夏がチラッと俺の方を見て、またすぐに下を向いた。
「ごめん……フラグへし折っちゃった……」
「エビマヨの件と相殺でいいよ。湖中さん、待ってるぞ」
「……ん」
萌夏は力無さそうにニッと笑って立ち上がり、湖中さんの方へと向かっていった。
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