TAKE FIVE
うさみゆづる
ツバサくんの話
ツバサくん
ツバサくんは美しかった。栗色に緑が混じった気難しい瞳なんて冬だ。そのうえ体臭はさびしくて清潔。五分刈りの丸い頭から淡く日焼けたうなじを通ってすとんとまっすぐに落ちる背筋が、水田にひとり立ち遠くを見渡そうと首を伸ばす鷺にも似ていたのをふと思い出した。わたしは、まだ定まらない心持ちのまま先生に、いつ死んだの、と聞き返しながら、水面を揺らして飛び立つ鷺の様子を目の奥にじっと見た。
先生は、さっき電話があった、とかすれ気味に低く答えた。自殺だった。聞けばツバサくんは、わざわざ県外の海にまで行って飛び込んだらしい。大学は夏休みに入ったようで、先週こちらに帰省してきたかと思うと一昨日になって突然ちょっと出かけてくるとひとり家を立ち、今朝ぷかぷか海に浮かんでいたのを地元の人に発見されたのだと言う。テレビのニュースでは最近よく海水浴の光景が流れているし、この時期の海はきっとどこでも遊ぶのには気持ち良いのだろうが、旅行でもなんでもなく、ただ死ぬためだけに行く海となると、それは一体どんなふうなのだろう。海は隣市にだってあるのになあ、どうしてツバサくんは遠い海を選んだのかなあ。実感が追いついてこない体でぼんやりと思っていたら、先生はわたしの悲しみを補うように涙ぐんで、
「ツバサが帰ってきたら、お通夜に……きよちゃん、来てくれるかい」
と乾いたしわくちゃの手で顔を半分覆った。
先生はツバサくんの親だった。いや、本当は親じゃない。先生は隠していたようだけれど、ツバサくんは先生の知り合いの子供であって血さえ繋がっていないことをわたしは知っている。今いるこの書道教室で何十枚も字を書かされたあとにわたしたちはよく一緒に遊びに行っていたし、その時に本人から教えてもらったのだ。ツバサくんは、先生の子供じゃない。けれども先生は親子だと言い張り、教室の裏にある木造の古い建物が二人の家だった。南に面した縁側には庭があって、狭いながらもそこには薔薇とか牡丹とか、他にも名前のわからない綺麗な花がたくさん咲いている。きっと先生が毎朝欠かさず手入れをしていたのだろう、そのどれもが瑞々しく風と嬉しそうに踊っており、小学生の頃わたしたちはこっそりこの花の蜜を吸って秘密のおやつにしていたものだ。
あの日もわたしは、耳元でしつこく羽音を立てる蜜蜂を払い除けながら、花壇のそばの大きな石に座り込み、彼らから奪い取ったかすかな蜜をちうちう吸っていたのだけれど、隣ではツバサくんが思い出したかのように、「おれさあ、本当はハジメさんの子供じゃないみたい」と言ったのだった。西日が金色に散らばる日だった。花の根元を咥えたまま喋るせいでププッとラッパみたいな音が出るのがおかしく、わたしは最初、話の内容そっちのけでそれに笑ってしまったのを覚えている。茂る草花の隙間を、鋭く突き刺してくる日の光に目を細めながら、おならみたい、とわたしが言うと、ツバサくんは不機嫌そうに目元へ影を細かく集めて、おならじゃねーし、咥えていた濃いピンクの花をヤギみたくむしゃむしゃ食べた。やわらかい風が吹き、生きた植物の甘いにおいがぷんと鼻の奥に塗られる。「それおいしいの」「おいしくない」わたしはおかしくてまた笑ってしまう。
「ハジメさんって、だれ」
聞きなれない名前を当然のように用いる彼に聞いた。するとツバサくんは、
「習字の先生のこと。おれはハジメさんって呼んでんの」
と言って、普段バレるから一日ひとつにしろとわたしを咎める薄い唇に、この日ふたつ目の花をもいでまた咥えてみせた。ずるいと思ったわたしも花に吸いついたが、彼は今の自分の行動を自覚してか、珍しく何か言うこともなかった。
「ツバサくん、先生の子供じゃないの? じゃあお父さん、誰なの?」
「わかんねー。けど、先生の知り合いがおれの本当の親なんだってさ」
光に自ら焼かれにいくようにおもむろに立ち上がった彼は、ズボンのポケットに小さな山が浮き出るくらい強く拳を押し込んだ。
この仕草はツバサくんが強がる時に決まってするもので、きっとこの時も三歳下の私に強がっていたのだろうと思う。事実、彼はこの日を境にどこか切羽詰まった感じになった。わざと乱暴で強い言葉を使ってみたり、過剰なわがままを言ってみたりして先生を困らせた。人の袖を背後からくいくい引っ張って振り向かせようとするようなそれは、良く言えばいじらしくて可愛いけれど、悪く言えば鬱陶しい行動だったにも関わらず、先生は、最後にはいつも笑ってツバサくんをゆるすのだった。それが当時のわたしにはとても不思議に映って、しかし、今思うとこれこそが親というものなのかも知れない。
先生に通夜の日程を聞くといつも生徒に配っているご褒美の飴も持たせてくれた。三個のうち二個をブレザーのポケットに落とし入れ、残りのぶどう飴を口に入れてから教室を出る。この前家に残暑見舞いのハガキがいくつか送られてきていたけれど、やっぱり外にはねっとりと肌に這うような濃い熱気が残っていて、それでも夜はほのかにまろやかだった。すぐそこの通りに出て振り返ると先生はまだ教室の玄関先で立っている。白い玄関灯の中でわたしに気づき、「早く帰りなさい」と叫んだかと思うと骨ばった大きな手を鷹揚に振った。紺色のポロシャツから伸びる腕が細くかわいている。先生の纏う品の良さを、わたしはこの時初めて、儚げに感じた。
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