第3話アデリーヌ悲しみの果て
アデリーヌは、両親と一度ちゃんと話し合うべきだと決心した。しかし、心の準備が整うまでは時間がかかった。過去の傷があまりにも深く、両親の前に立つことさえ恐ろしかったのだ。しかし、ある日、アデリーヌは自問した。「これ以上、傷つくことを恐れて逃げ続けるの? それとも、素直な気持ちを伝えてお父様やお母様と話し合う?」アデリーヌは、自身と真摯に向き合う決意を固めた。商会の業務を一緒に屋敷を出た使用人達に任せ、メイドのマリーに付き添われ、屋敷を訪れることにした。
両親はアデリーヌが来たことを家令から聞くと、玄関に飛んでいった。両親の表情は緊張に包まれていた。「アデリーヌ。」お母様が震える声でアデリーヌを呼ぶと、アデリーヌは暗い悲しみを宿した眼差しで両親を見つめた。父親が言葉を続けた。「アデリーヌ、私達は...」「待ってください。」アデリーヌが冷たく遮った。「私の話から聞いてください。」とアデリーヌが言うと、家令が「ここではなく客室にいかれましたら……」と声をかけた。父親が少し慌てて「そうだ、そうだな。客室に行こう。」家令に案内されて客室に行くと、既にお茶の用意がされていた。両親からソファを勧められ、マリーが控え目に退くと、アデリーヌの後ろに静かに佇んだ。
お母様が、涙を堪えるように、瞳を潤ませながら「アデリーヌ……」と声をかけた。「私の気持ちを聞いて下さい。」とアデリーヌは本音を吐露し始めた。
「幼い頃から、お二人に愛されていないと感じていました。エリーヌはあまりにも可愛がられ、私は置き去りにされていたのです。エリーヌと私は一体、何が違ったのでしょう。なぜ私はお二人から愛されなかったのですか。」お母様の眼から涙が零れた。「アデリーヌ、許してちょうだい...」「謝ってほしいのではありません。」アデリーヌは怒りを露わにした。「あなたたちは、私を全く放置していました。私には誕生日さえありませんでした。病気の時に看病してくれたのは、マリーです。苦しいときもそばにいてくれたのはマリーだけ。私はお祖母様に、ただ勉強を課され、期待値を押し付けられるばかりでした。お母様知っていますか? 私は紺色以外のドレスは持っていないのですよ? それでいてエリーヌには何でも与えられていました。公平だったとは言えますか?」
祖母はアデリーヌがおしゃれをする事を許さなかった。理由は母親が父親を誑かしたからだ。その娘のアデリーヌもおしゃれなぞに興味を持ったら、ろくな娘に育たないと思ったのだ。
父親がアデリーヌに「私達は愚かだった。アデリーヌ、許してくれ...」「許せません!」アデリーヌは強い口調で言い切った。「幼い頃から、あなた達には愛されていないと思っていました。それは今も変わりありません。」母親は泣き崩れ、父親も頭を垂れた。アデリーヌの言葉は、両親の心を深く刺したのだ。
しかし、アデリーヌの話はまだ終わっていなかった。「けれども、私はお二人を憎んでいるわけではありません。」アデリーヌはそう続けた。「ただ、放置されたのが許せないだけです。それに、私自身の環境にも問題があったことは、今なら良くわかります。」両親は顔を上げて、アデリーヌの言葉に耳を傾けた。
「私には愛されなかったという過去がありますが、未来はまだあります。過去を変えられないように、未来も変えられないわけではありません。」アデリーヌは両親に手を差し伸べた。「私たち家族として、もう一度やり直しませんか? 過去に囚われず、これからを大切にしましょう。」母親は顔を上げるとアデリーヌの手を取った。父親も同じくアデリーヌの手を取り、3人は抱き合った。
長年の溜め息が吐き出され、3人は心から和解した。過去の傷は癒えがたいものだったが、未来に希望の灯が点った。アデリーヌ、そして両親が、これからを大切に歩んでいけると、そこにいた誰もが思った。
そんな時、突然上階から小さな足音が聞こえた。両親は顔を見合わせ、エリーヌに気づいた。「あれは...」母親が口を開く。
階段の手すりに小さな手が掛かり、金髪に碧眼の少女が舞うように降りてきた。エリーヌは、まるで天使のようだった。「もう、待ってられないわ。お姉様!お姉様!お帰りなの?」エリーヌは喜んだ表情でアデリーヌに駆け寄った。エリーヌの長い金髪の髪に、とてもかわいいピンクのレースのリボンが揺れていた。
アデリーヌの表情は曇り、突然現れた愛らしい少女に、アデリーヌは戸惑った。多分、妹なんだろうとは髪に結ばれているレースのリボンから予想は出来た。可愛い姿に、過去の思い出が蘇ってきたのだ。「あなたはどなた?」アデリーヌはあえて訪ねた。エリーヌは聞かれた意味がわからず、キョトンとしていた。母親が慌てて「エリーヌ、お部屋で待っていなさいと言ったでしょう。あぁ、アデリーヌ、この子がエリーヌよ。あなたの妹よ。」と少し早口で、母親がエリーヌを紹介した。
キラキラした目でアデリーヌをまっすぐに見つめているエリーヌに「私はいつもあなたが羨ましかった。」アデリーヌは静かに言った。「お父様やお母様から愛されて、何でも与えられた存在。私にはそれがなかった。」
エリーヌは迷いながらも、アデリーヌの機嫌の悪さに気づいて、「でも、お姉様。お姉様は私のお姉様でしょう? 私はお姉様が大好きよ?」と不思議そうに言った。
「愛されるなんて、本当は誰にでもできることなのに。」アデリーヌは振り返った。「なのに、私だけが除外されていたのですわ。」母親は口を開いたが、言葉が出なかった。父親は罪悪感から視線を逸らした。
アデリーヌはエリーヌを見つめ、嫉妬と劣等感に満ちた表情を浮かべた。「あなたは天使のようだわ。でも、私には貴方が私を地獄に突き落とす悪魔のように思えるわ。あなただけが愛され、私は置き去りにされた。公平ではなかった。貴方の幸せは私の不幸の上に成り立っている。それなのに私が大好きですって?」
エリーヌの大きく開かれた瞳から、みるみるうちに涙が零れた。アデリーヌの言葉は彼女の心を深く傷つけた。エリーヌは今まで人の悪意を知らずに育った。それが姉であるアデリーヌから直に悪意をぶつけられ、ショックを隠しきれなかった。
アデリーヌは我に返り、罪悪感から顔を覆った。しかし、心の奥底にある嫉妬と劣等感は拭えなかった。
両親はエリーヌを抱きしめた。エリーヌの目から涙が零れ落ちる姿に、両親は無意識のうちに、アデリーヌを責めるような表情を浮かべた。母親はエリーヌの小さな身体を優しく抱きしめながら、アデリーヌに穏やかではあるが、決して穏やかではない視線を注いだ。「エリーヌには罪はないのよ。今回の事とは関係ないのよ。」と静かな口調で語った。
父親も同様に、アデリーヌを非難する目で見つめた。「エリーヌはお前の妹なんだ。何故わざわざ傷つける。それでいいのか」とアデリーヌを咎めた。
エリーヌは、自分が特別な存在であるということを良くわかっていた。エリーヌは、自分が甘やかされることが当然であり、周囲もそれを受け入れるべきだと考えていた。「私のお姉様ではないの?」エリーヌは涙を浮かべながら問いかけた。その声には、アデリーヌが自分を拒絶する理由が理解できない戸惑いが滲んでいた。エリーヌは姉の冷たい反応に動揺しながらも、最終的には自分を受け入れ、優しく迎え入れてくれるはずだと信じていた。
エリーヌは母親の胸に顔を埋め、泣き続けていた。天使のような可愛らしさが、まるでアデリーヌの言葉で失われてしまったかのようだった。
アデリーヌは両親の非難する視線に思わず身じろぎした。確かに自分の言葉がエリーヌを傷つけてしまったことは事実だった。しかし、同時に心の奥底で燻っていた嫉妬と劣等感の炎は、簡単に消えそうもなかった。
アデリーヌは、エリーヌの問いかけに心が重く沈んだ。彼女はエリーヌを憎んでいるわけではなかったが、エリーヌの自分を中心に置く態度には苛立ちを感じた。エリーヌが「私のお姉様ではないの?」と尋ねたとき、アデリーヌはその言葉の意味がわかり嫌悪感を覚えた。
「私も...ずっとつらかったんです。」アデリーヌはエリーヌを見ながら言った。「あなたは両親から愛されて、私は置き去りにされていた。その辛さが、今でもずっと残っているんです。」
母親は唇を噛んだ。確かにアデリーヌを愛し切れなかったのは事実だった。しかし、今となってはエリーヌを守る母性本能が勝ってしまう。
父親もアデリーヌの言葉を聞きながらも、エリーヌへの視線は慈しみに満ちていた。エリーヌを守りたい、という気持ちが勝っていた。
マリーの胸中には複雑な思いが渦巻いていた。アデリーヌが幼い頃から両親の愛情を受けることなく、一人で辛い日々を過ごしてきたことを彼女はよく知っていた。そのためアデリーヌに対する両親の冷淡な態度には違和感を覚え、心の底からアデリーヌの気持ちに共感せずにはいられなかった。
一方で、エリーヌの無邪気な表情と言動には、姉のアデリーヌを受け入れられない心情が感じ取れた。マリーは二人の姉妹の間に立ち、双方の思いを理解しようと努めていた。しかし、長年の確執があるため、そう簡単には収束できない事態に、彼女は複雑な心境を隠せなかったのである。
アデリーヌが一筋の涙を流した。そして小さな声で「私はやはり家族にはなれないのですね。」と呟いた。
母親はエリーヌを抱きしめながら、アデリーヌに気を遣う素振りはなかった。可愛いエリーヌを守ることが何より大事だったのだ。父親もアデリーヌを見ることもなく、泣きじゃくるエリーヌをひたすら宥めていた。
アデリーヌはそっと涙を拭うと、両親に「今日はこれで帰ります。」と伝えた。両親に引き止められることもなく、次の約束もなく屋敷を出た。
屋敷を離れながら、アデリーヌは心に決めた。二度とあの屋敷には絡むまい。自分は家族になれない。そう考えることで、ようやく心の亀裂が埋まるような思いがした。
数日が過ぎ、やっとエリーヌが落ち着いて両親は、ここで自分たちの失態に気付いた。しかし、時すでに遅く、アデリーヌはもう二度と両親にも、エリーヌにも関わろうとはしなかった。
代わりに、アデリーヌは育ててくれたマリーに対して、今まで以上の信頼と愛情を寄せていた。マリーはアデリーヌが幼い頃から唯一そばにいてくれた存在だった。母親はそんなマリーが気に入らなかった。アデリーヌが自分たちに懐かないのは、マリーのせいだと邪心した。やがて母親は、マリーをアデリーヌから引き離そうと画策し始めたのだった。
アデリーヌの母親は、アデリーヌが自分たちに素直になれないのはマリーがいるからだと思っていた。ある日、母親はマリーの実家に圧力をかけ、マリーと隣町の青年との婚姻を強制的にまとめてしまった。事態を収めるように仕方なく、実家に戻る為にマリーは荷物をまとめ、途中のホテルに一泊することになった。しかし、そのホテルで翌晩、炎が周りに広がる火災が発生してしまう。消防隊が到着した時にはすでに遅く、マリーは焼け爛れた姿で発見された。アデリーヌが知らせを受けた時、彼女は絶望の叫び声を上げ倒れた。
アデリーヌは棺を涙ながら見つめていた。何も考えられず、棺がしずかに降りていく最後の瞬間、アデリーヌの世界は真っ暗闇に飲み込まれた。マリーが、この世からいなくなってしまった。胸が引き裂かれるような痛みで、アデリーヌは意識を手放してしまったのだ。
「アデリーヌ様、お食事の時間ですよ。」「お嬢様、今日もお日向ぼっこが良いかもしれませんね。」両親がアデリーヌの世話のために雇ったメイドたちが、何度声をかけても、アデリーヌからは何の反応も返ってこない。ただ虚ろな瞳で天井を見つめているだけだった。商会の仕事は従業員が頑張ってくれているので心配はなかった。食事は口にすることすらできず、幾度かかけがえのないスープが冷めていく。排泄の世話も必要となり、メイドたちは恥ずかしい思いでアデリーヌの身体を拭き、ガーゼを取り替えるしかなかった。
「ああ、可哀想に…。」「大丈夫でしょうか、このままでは…。」メイドたちは胸を痛めつつも、アデリーヌが少しでも体力を失わないよう、細心の注意を払っていた。
そんな最中、マリーの死を知らされ、愛する妹の最期を見届けられなかったマリーの兄のアルトが訪ねて来た。アルトは仕事のために遠い町に行っていたのだった。
「アデリーヌ様。この有り様では、マリーも安心して旅立てません。」アルトはアデリーヌのベッドサイドに座り、優しく手を取った。「妹が娘のように大事にした人の、こんな姿を見たくはありません。どうか、もう一度この世に生きる意味を見出して欲しい。」
メイド達もアルトに同調し、アデリーヌへの声かけを続けた。
「お嬢様、商会の方々も心配なさっています。」「しっかりお食事をとって、体力をつけてくださいませ。」「私共もずっとそばについております。」アルトはマリーとの思い出をアデリーヌの横で何度も何度も話して聞かせた。「マリーは良く手紙でアデリーヌ様の事を書いて来ました。」と懐かしそうに話して聞かせた。
商会の従業員達も時間があればアデリーヌのそばでひたすら話をしていた。そんな献身的な介護が続く中、ある日アデリーヌは太陽の光を浴びながら、ゆっくりと瞼を開けた。
「マリーマリーは…………ここは?」細い声ではあったが、はじめてその場にいる人々に気づいたのだった。メイド達は安堵の表情を浮かべアデリーヌに駆け寄った。
アデリーヌの母親は、マリーを追い出したことを深く後悔していた。マリーがいなくなってから、アデリーヌの衰弱していく様子を見るたびに、自分の行いが娘の愛する人を奪い、結果として娘をこんなにも苦しめているのだという現実に打ちのめされたのだ。
母親は毎日祈りの中で神に懺悔し、涙を流しながら許しを請うた。「もし私がマリーを追い出そうとしなければ、こんなことにはならなかったのに…どうか娘を救ってください。」と祈る母親は、かつての姿とはかけ離れたものだった。
アデリーヌが少しずつ回復していく過程で、母親は彼女のそばに寄り添い、できる限りの支えを提供しようと努めた。マリーの兄であるアルトにも頭を下げて、ずっとアデリーヌのそばで支えてくれていたことを感謝した。メイドたちと共に、アデリーヌの食事や身の回りの世話をし、彼女が少しでも元気を取り戻すために尽力した。
そしてある日、アデリーヌの目に少しずつ生気が戻ってきたとき、母親は涙ながらに娘に謝罪した。「アデリーヌ、本当にごめんなさい。私は間違っていた。謝ってももうどうにもならないけれど、あなたを苦しめてしまったわ。」
アデリーヌはまだ完全に回復していないが、母親の懺悔の言葉に耳を傾け、やがてその胸の内に少しずつ変化が訪れた。彼女が再び立ち上がる日が来ることを、母親もメイドたちも心から願っていた。まだ長い回復の日々が待っている。しかしアデリーヌの目に、かすかな生気が戻ってきたことだけは確かだった。
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