第13話

 月島舞は、休日を迎え、持ち帰った仕事も手につかない様子で、自宅のソファでスマホを握りしめていた。


 さっきほどから何度も同じ操作を繰り返している。


 SNSを開いては、DMの通知を確認するという作業だ。メッセージアプリを開いては閉じる。SNSのDMをリロードしてみるが、そこには蔵之介からの連絡はなかった。


(なんで……?)


 一度デートしただけの関係、それも仕事でデート途中で帰ってしまった舞の心臓はじわじわと締め付けられていた。


 自分では余裕を装っていたつもりだった。


 しかし、彼から連絡が来ないことで、不安と焦燥感が心の中に広がっていく。


 初めてのデートから数日が経過した。蔵之介とのDMはデートをする前なら、まるで彼女の生活に紛れ込むように自然に存在していたはずなのに、今ではその存在が遠く感じられる。


(私、嫌われたの……? デートで先に帰ったから? スーツでデートに行ったから? 彼に冷たい態度をとっていたから? それとも……)


 舞の思考は徐々にネガティブな方向へと向かっていく。


 蔵之介は永久就職を望んでいた。つまり、自分以外の他の女性と連絡を取っているのではないかという不安が、彼女の心を重くする。


(他の女に……彼を取られる?)


 舞の脳裏に浮かぶのは、他の女性が蔵之介の横に立つ姿だった。


 自分は彼女ではない。それに年下で甲斐性もない。だけど、どこか放って置けなくて、自分がここまで思うのだ。他の女だって思うに違いない。


 蔵之介の隣に別の女がいると想像するだけで、胸が痛い。


 そして、心の中で湧き上がる嫉妬の炎が、彼女の冷静さを奪っていく。


 蔵之介は「永久就職希望」とSNSに書いていた。


 自分以外の誰かが彼を養う可能性は十分に存在する。その事実が、舞の心をますます焦らせる。


(駄目……彼は……私の……)


 舞は知らず知らずのうちに、スマホの画面に強く指を押しつけていた。


 気づけば呼吸が荒くなり、頭の中は彼のことでいっぱいになっている。


 どうしても、どうしても彼と連絡を取りたい。彼の声が聞きたい。そして、自分だけのものにしたいという衝動が込み上げてくる。


(連絡……どうして……私には来ないの?)


 嫉妬と不安、そして独占欲がぐるぐると舞の心の中で渦を巻く。


 彼が他の女性と楽しそうに過ごしている姿を想像するだけで、全身から力が抜けていくようだった。頭の中に、彼を独占するための方法が次々に浮かんでくる。


 何か、何かしなければいけない。そんな強迫観念が、舞の理性をじわじわと侵食していく。


(連絡しなきゃ……私から……)


 舞はスマホのキーボードに指を置いた。何かメッセージを送ろうとするが、指先が震えてうまく打てない。それでも必死に彼の名前を打とうとする。


 時間が空いてしまって、なんて返事をすれば良いのか、迷いが生じる。

 さらに、彼からの返事がないことで、恋愛経験のない舞はどうすれば彼の気が引けるのか想像ができないでいた。


 その時、ふとスマホの画面が点灯した。


 舞の視線がそこに吸い寄せられる。


 通知が一件。


 慌てて確認すると、それは蔵之介からのDMだった。


(え……)


 心臓が高鳴り、指先が震える。彼からのメッセージを開くと、そこにはこんな内容が書かれていた。


「舞さん、こんにちは。恋愛マスターミツコっていう動画を見て勉強したので、次のデートは頑張ります! 忙しいと思ったので連絡しなかったのですが、我慢できなくてしちゃいました。最近お仕事はお忙しいですか? やっぱり永久就職希望の僕の相手はしたくないですか?」


 一瞬、時が止まったかのように舞はじっと画面を見つめた。


 次の瞬間、舞の中で渦巻いていた不安や焦り、嫉妬の感情が一気に吹き飛ぶ。


 代わりに、全身に喜びが溢れ出してきた。


「……や、やった……!」


 口元がにやける。ついさっきまでの冷たい不安が嘘のように、舞の心に温かい喜びが広がる。


 彼からのメッセージ。


 彼は自分のことを気にしてくれていた。さらに、次のデートのために勉強までしているなんて、その事実が彼の気持ちを自分に向けさせたかのようで、舞はテンションが鰻登りになっていく。


「わーっ! やったぁ!」


 気づけば、舞はソファの上で跳ねていた。スマホを胸に抱きしめ、嬉しさに体を揺らす。普段は冷静でクールな彼女からは想像もできないハイテンションな姿。次のデートのことを考え、彼のメッセージを何度も読み返す。


「次は……もっと頑張らないと!」


 舞は蔵之介からのメッセージに心底喜び、どこか浮ついた気分で一気に前向きな気持ちになった。


 心が病んでいく暗雲から解放され、舞は今や彼に全力で向き合う準備を整え始めていた。


 ♢


 蔵之介は駅前のショッピングモールでふと立ち止まった。


 周囲にはたくさんの人々が行き交い、買い物袋を手にした家族連れやカップルで賑わっている。そんな中、見覚えのある少女が視界に入った。


「あれ……?」


 人混みの中で見かけたのは、この前助けたあの女子高生、橘美咲だった。


 今日も一人で歩いている彼女の姿を見て、蔵之介は心配になり、声をかけることにした。


「橘さん、また迷子か?」


 突然の声に美咲が振り返ると、驚きと喜びが入り混じったような表情を見せる。


 そして、蔵之介が近づくと、少しあざとく首を傾げて笑った。


「あら、こんにちは。今日は迷子じゃないですよ。買い物に来てただけです。そんないつも迷子になりませんよ!」


 彼女の笑顔は周りの誰が見ても可愛らしく、まるで画面の中の女優そのものだ。


 しかし、あまり顔を出さないようにしているのか、帽子を深く被っていた。可愛いからナンパでもされるのだろう。


 蔵之介はそのことに気づく様子もなく、ただ「そうか」とだけ返した。


 彼にとって美咲はただの近所にいる綺麗な女子高生であり、特に気にかけるような相手ではなかった。自分よりも年下では残り二年間で探さなくてはいけない永久就職相手には向かないからだ。


「そういえば、何を買いに来たんだ?」


 軽く尋ねる蔵之介に、美咲はまた少し首を傾け、あざとさ全開の笑顔で答えた。


「なんです? 私に興味があるんですか?」

「あっ、いやそうじゃない。ただの世間話のつもりだった。嫌なことを聞いたなら謝るよ」

「別にいいですよ。新しいお洋服を見に来たんです。ちゃんと流行りを知っておかないといけないので」

「ああ、女子って大変だな」


 蔵之介は女性は美容や流行に敏感だと思っているだけだった。


「そうですね。あとは、ちょっとカフェにでも寄ろうかなって思ってました。良ければ一緒にどうですか?」


 一歩近づいて、上目遣いで誘ってくる美咲。


 その仕草や表情は、男子なら誰でもドキッとするような、まるで計算されたアプローチだった。


 だが、蔵之介はというと、そのまま何の気なしに彼女の提案を軽く受け流すように答えた。


「ああ、悪いけど俺、今日は忙しいんだよな。買い物もまだ済んでないし、それに……」


 そう言いながら、彼は自分の買い物リストをスマホで確認し始める。


 完全に気を抜いた態度で、目の前の彼女に特に関心を示す様子はない。


(この人……全然気づいてない)


 美咲はそんな蔵之介の態度に少し呆れつつも、むしろ面白くなってきた。


 この人は自分の正体に気づいていない。まさか自分が女優・橘美咲だと知らないで、普通に接してくるなんて思いもしなかった。


「忙しいんですね。でも、もし時間があったら、一緒にお茶してくれたらうれしいな」


 少し拗ねたように唇を尖らせる美咲。


 普段なら、この態度だけで男たちを虜にしてしまうだろう。しかし、蔵之介は彼女の表情変化に気づくこともなく、ただ「そうか」と軽く返す。


「そりゃ、悪いけどな。俺、今ちょっと用事があるから。またな、橘さん」


 あっさりとそう言い残して、彼は買い物リストを見ながら歩き出そうとする。


 美咲はその背中を目で追いながら、内心で思わず笑ってしまった。


(なにこれ……全然効いてない)


 今まで、自分に向けられた視線や言葉に慣れきっていた美咲。


 彼女にとって初めての《普通》の反応。それが、逆に彼女の興味をより一層掻き立てる結果となった。


「あ、ねえ!」


 慌てて彼を呼び止める。振り返った蔵之介は少し面倒そうな顔をしているようにも見えたが、美咲はそれに構わず一歩近づいて、彼の目をじっと見つめた。


「じゃあ、今度の休みにでも一緒に出かけませんか? 私、また道に迷っちゃうかもしれないし」


 彼女の目はキラキラと輝いていて、そのまま誘うように微笑む。


 こんな状況なら、普通の男なら喜んで予定を空けるところだろう。だが、蔵之介はその提案をあっさりとかわす。


「んー、どうだろうな。まぁ、また迷子になったら連絡しろよ」


 そう言い残して、蔵之介はスマホに視線を戻し、また歩き出した。美咲は彼の背中を見つめながら、口元に笑みを浮かべる。


(面白い……こんな反応、初めてだわ)


 自分を見て、何かしらの反応を示すのが当たり前になっていた。

 

 彼は本当に興味なさそうだ。


 でも、それが逆に彼女の心を揺さぶる。


 蔵之介が自分に気づくまで、彼を少しからかってやろう。美咲はそんな企みを胸に抱きながら、再び彼の背中を追いかけることを決めた。


「じゃあね、蔵之介君。また連絡するから!」


 美咲が蔵之介の名前を呼んだことに、彼は気づいていない。


 軽く手を振って答えたが、その様子は本当に無関心そのものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る