万條日乗
@wlm6223
万條日乗
序文
大学の恩師から「常日頃の日常茶飯なことを書いた日記を記せ。必ず和紙に墨書きで」との連絡があったのはほんの四ヶ月前の事だった。
私は日記をつける習慣はなかったが、これも大学で習った古文の復習にでもなるかと思い、教科書を引っ張り出し、慣れぬ筆書きでこの日記をしたためることにした。
まずは私の社会的立場を詳らかにする必要があるだろう。
私は東京都麻布区生まれ、姉が一人いる。
私の学歴は京西中学・京西高等学校を卒業後、東京大学国文科へ入学し、留年せずに無事卒業。
後、大手商社大和総業株式会社へ入社。大和総業は古くからある財閥系の商社である。
三十一歳で結婚。現在は二人の姉弟の父である。東京都日野区に寓居を構えている。
職業は会社員。営業職。仕事柄、東京中を駆け巡るのだが、多忙の時は電話で用を片付けている。毎日の生活に変化はほぼなく、日ごとに大きくなっていく子供たちの成長を楽しみにしている凡夫である。
もうすぐ私も四十五歳になる。
古くから不惑と言われる歳を通り過ぎ、もう将来の自分の姿も想像できるようになった。私はこのまま一会社員としてその姿を埋没してゆくのだろう。
その事に若干の寂寞を感じる事もあるが、私にとっての人生の一大事業と言えば、この世に子供たち(しかも二人も!)を残している事である。これだけで私は果報者といっても良いと思っている。
ではそんなつまらない男の日記に誰が興味を持つかはちょっと想像できない。
おそらく民俗学者のための、現代都市部に住む人々の生活様式の資料にはなれると思われる。
日常の万の由無し事を短文で書く積もりなので、この本を「万條日乗」と名付ける。
この本がもし評価されるとすれば、書いてから数百年の歳月を経った後になると思われる。
それまでこの紙に書かれた旧弊な本が存在しているかどうかは分からないが、それはあまり憂慮していない。
というのも書を学んだ人には分かるだろうが、数千年前の古筆手鑑も現代でもなお保存されている。神田神保町の古本屋には和綴じの本もある。
その書棚の一隅にこの書を見つけた読者は是非にその感想を添えて理化学研究所事務局へご連絡をお願いいただきたい。
できる事ならこの本を見つけた場所、時期等も合わせてご連絡いただければ幸甚である。
万條日乗
三月二十日 冬。会社員は季節に関係なく職場へ出勤し、毎日の労働に就いてその日その日の日当を得るのが普通である。雇用形態は正社員であるが日当でサラリーを貰うのが普通だ。私の日当は四万八千円である。大卒初任給が日当二万円なのだからそれなりのサラリーと言える。が、生活は決して裕福ではない。住宅ローンや子供たちの学費を勘案すれば日当五万五千円は欲しいところであるが世間相場を鑑みればこれが妥当な金額かも知れない。
三月二十三日 極寒。この日、日野区の最低気温は摂氏マイナス三度との天気予報あり。夏が恋しい。
三月二十五日 まだ冬。今日も営業外回り。寒さが身に凍みる。営業職は人と人を顔を合わせて初めて仕事となる。しかし、現代の通信手段の発達からすると、充分リモートで問題ないと私は思うのだが、直接顔を合わせる事に意義を見いだす顧客も多い。即ちコンピュータで造られた人工人格ではない、という一点のみでこの外回りの意義は十二分にあるのだ。社会は人間によって回されている。そういう実感が大切なのだという。私はそう新人時代に教わってきた。今は同じ事を新人に教えている。私が教わっていた時は「なんて旧弊な」と辟易したが、今、新人を教育する立場になってみるとその意義が非常に大きいことが体感できる。
四月一日 冬開け。本日より春。日中の予想最高気温が摂氏二十二度となる。歳のせいかこの気温の寒暖差に体がついて行けない。二十代三十台の頃は「花見の季節が来たか」程度に思っていたが今はただの苦痛でしかない。
四月三日 ここで一度自分のある平日の過ごし方を書いておく。休日を除けば大体同じような過ごし方をしているので、ここだけ読めばあらかたの会社員の営業マンの生活が分かると思われる。
午前七時 起床
午前八時 通勤。最寄駅から会社のある東京駅まで通勤快速で三十分の通勤。ちなみに日野駅から自宅までは徒歩で五分。
午前九時 始業。十五分ほど今日のスケジュールを同僚・部下たちに伝えて確認し外回り。
午前十時 大口取引先の和田興産の出井部長と今後のエネルギー供給のあり方・エネルギー業界の進展について話す。所謂石油由来の原料がここ数年で原料費微増で真綿で首を締められているようだとのこと。エネルギー源としては原発か太陽光でいいと思われる向きもあるだろうが、それらは単純に電気を生み出すだけのものであり、プラ製品の原料にはなり得ない。即ちモノが作れない。和田興産はピペットの輸入に頼っているので原産国からの値上げ要請には反論できないとのこと。ではプラスチックの代替原料に切り替えれば良いのではないかと思われるようであろうが、それが簡単にできれば誰も苦労はしない。
午前十一時十五分 遠田株式会社の細田部長と面談。ヘンプ製品の売上げが好調とのこと。遠田社の製品は麻を原料とした衣料品の生地の生産加工である。遠田社の強みは国内の契約農家と直接麻の取引をしていること。これなら輸入品と比べて輸送コストもかからず税関であらぬ疑いを掛けられることもない。しかし原料を麻にしている宿命か、その製品の寿命は短い。化繊であれば十数年の耐用に使えるが、ヘンプ生地では数年で生地そのものが痛んでくるとの事。「地球環境にやさしい」との触れ込みで販売しているのだが、そのコストは結局消費者が払わされているのだ。 午後十二時 昼食。池袋「十番館」でラーメンを食べる。この店は若年層に評判が高く、私のようなおじさんが列に並んでいると若者が怪訝な視線を送ってくる。
午後一時 新人の徳田達也君と合流して大塚の株式会社イー・アール・エス訪問。ここと私は長い取引実績がある。私ももうすぐ現場を離れる歳だ。私の将来の後任として徳田を推しているのである。徳田君もその事は重々承知しているようで決して無茶や無謀な事は言わない。取引が長いというだけで社会では重要な信用になるのだ。徳田君をイー・アール・エス社へ連れて来るのはこれで八回目。もう顔と名前は売り込み済みだ。あとは実務を引き継ぐだけだ。私が明日にでも退職しても社に禍根を残すことはない。それは寂しくもあるが嬉しくもある。
私は今の会社で定年を迎える積もりはない。しかし社の看板を使ってビジネスをやってきた以上、それなりに恩義は感じている。だから恩返しではないが、よくあるように「営業マンが取引先を引き抜いて転職・独立した」というのはしない積もりだ。
午後二時半 徳田君と小休止。イー・アール・エス社の最寄駅大塚駅近くの喫茶店でコーヒーを飲む。徳田君は頻りにうちの会社は終身雇用できるかどうかを気に掛けていた。前途ある若者に「できっこないだろ」と現実をぶつけずに言葉を和らげて説明する。
午後三時 株式会社アワーズ社へ徳田君と訪問。ここもうちの社との取引は長い。徳田君もすっかり馴染みの顔になっていた。本多専務と面会。徳田君を売り込んでおく。
午後四時半帰社。今日の営業日報を書く。慣れているとはいえこの営業日報書きは苦手だ(苦手なだけでできないとは言ってない)。今日までの売上げ進捗を管理する。まだ月初ということもあり大した進捗なし。
午後五時半 営業経営会議。前年期の売上げ進捗と今後の営業活動の方針を決める。前年期の成績は好調だったため営業部長の半田は得意げだった。だがその笑顔もいつまで続くか分かったものではない。今はどの業界でもそうなのだが会社設立から十数年経ったところでも倒産は当たり前だ。しかしそれを見越してか人材の流通はかなり多い。つまり、会社が潰れても従業員たちには大ダメージにはならないのだ。会社が駄目になっても従業員までもが駄目にはならない。これは個人的には非常に良い事だと思う。
午後六時半 残務整理。デスクワークは苦手だ。だが部下がいる以上そういった煩瑣な作業からは逃げられない。これも人を使う立場の人間の宿命か。
午後七時半 終業。寄り道せず帰宅。
午後八時十五分 帰宅。シャワーを浴びて家族と共に夕食を摂る。今日は妻が夕飯の支度をしてくれた。子供たちはゲームに夢中だ。夕食の後片付けは私がやった。料理を作ったほうが片付けをやらないというのは我が家での不文律だ。妻は読書。読書と言えば紙の製本された本を想像する方も多いと思うが、今やよほどのマニアでない限り紙の本は手にしない。況んや、本棚というものはもはや死語だ。私はホームシアターで映画を観た。アンドレ・ツルゲーネフ原作の「朝焼けの斜光」だ。原作ファンとしてはなかなか上手い映像化だと思った。
午後十一時半 就寝。
これが私のある一日の全てであり大体の日常である。
四月六日 春の初めはどうも具合が悪い。花粉症のせいでもあるがくしゃみが止まらない。
それでも営業職は外周りが基本なので「外に出たくありません」とは言えない。
ということで毎年のように産業医に相談して抗花粉症の注射を打ってもらう。筋肉注射のため結構痛い。
午後十時半から外回り開始。今日も笑顔を振りまく。
男は度胸、女は愛嬌というのは逆ではないかと思う。
愛想のよい男と度胸のある女が世の中の出世街道を走って行くように見える。もっとも、これは私個人の見聞によるものだから世間一般に言えるかどうかは疑わしい。
四月八日 いつも通り出勤。いつも通り退社。夜、自宅で映画「向日葵畑」を観る。
四月十一日 土曜日。次男蒼空の小学校対抗サッカー大会を観戦。三対三で試合は縺れPK合戦で辛勝。蒼空の将来の夢はJリーガーらしい。頑張れよ。いつでもいつまでも応援してやるぞ。
四月十二日 日曜日。日曜の朝ぐらいはのんびり寝ていたかったが長女蒼依のピアノの発表会を観に日野公会堂へ出掛ける。まだ幼かった頃はピアノに向かうのも嫌がっていたのにここ数年は熱心にレッスンしている。どうやらライバルが登場し、闘志に火がついたらしい。広い筈の公会堂に一台のピアノの音がその空間を支配する。蒼依はちゃんとピアノを弾く事で芸を身につけたかのように見えたのは親の贔屓目か。
四月十三日 朝から円安のニュースが飛ぶ。普段であれば一ドル四百円前後で推移していたのが急遽四百四十五円まで下がる。市場は混乱している模様。投資家たちは青ざめているだろう。
四月十六日 我が社の購買部が円安で悲鳴をあげる。とにかく原価の値上がりはあらゆる物に降りかかってくるとの事。止むなし。米帝(Great Empire of Americaの日本での通称。旧アメリカ合衆国)は何を考えているんだと会長クラスが政治家に圧力を掛けるべく横の連絡を取り始める。こういった事ができるは流石財閥系総合商社ならでは。
四月十九日 日曜につき子供たちが家から出払う。妻と自分だけになると、何か不穏な空気になる。自分で言うのもなんだが、夫婦仲が悪い訳ではない。今の我が家が子供たちがいて初めて成り立っていると実感する。
宅配で一週間分の食料品が届く。せっかくの休日で子供たちもいないのだから夫婦水入らずで買い物でも行けば良かったのだろうが、わざわざ不便を取る気にもなれない。
四月二十三日 桜の開花宣言あり。小春日和というより初夏の風が吹く。
四月二十七日 桜散る。葉桜芽吹く。
五月一日 ゴールデンウィーク初日。今日から五月九日までは旗日が続く。なんでも何かと働き過ぎな日本人のために時の政府が次々とこのゴールデンウィークに祝日を制定して今に至るとのこと。だが、現代では日給で給与を貰っている都合上、こうも長期休暇があると収入に響く。響きはするが家族持ちは旅行なり何なりへ家族を連れ遊ぶ事になる。我が家は初夏の暑気を忘れるため北海道へ七泊八日の旅に出る事にした。
五月二日 昨日は混雑のため一日がかりでの北海道への移動となる。飛行機や鉄道のダイヤ乱れはなかったのだが、どういう訳か人が多いという理由だけで交通網に遅延が発生する。これは日本の七不思議にしてよいと思う。
今日は函館の朝市で烏賊の躍り食いを食べる。長女は気持ち悪がったが、次男は大喜びだった。昼も夜も新鮮な海鮮料理を食べる。満足する。
五月八日 北海道旅行最終日で帰宅日。旅行中、子供たちは大はしゃぎだったが帰路、飛行機の中で熟睡していた。往路の飛行機の中では上空から見る雲海に見とれていたが復路では全く興味無しの模様。
五月十一日 連休明けの仕事始め。東京の気候は温順。ここ日野区の住宅街にも春の浮かれた風が吹く。
ここ日野区は昔ながらの住宅街だ。当初は東京都内でありながら辺鄙な田舎町だったらしいが中央線の高速化と線路を増やした事で都心へのアクセスも格段に至便になり、一時は駅前はマンションだらけになったという。そのマンションが老朽化して「やっぱ戸建てが一番いいね」という世間の風潮が巻き起こって今に至るという。往事の面影は微塵も残っていないらしい。昔の日野区の写真(なんと映像ではない!)を観た事があるが、駅前からして殺風景で緑が見えていた。
追記 現在では高尾山あたり大月近辺までが住宅街になっている。大月―新宿間は中央線で約三十分かかる。
五月十五日 花粉は収まった。今日も通常通りの一日だった。が、円相場がついに一ドル四百五十円を切った。これでは貿易赤字が続出して会社を畳まねばならない中小零細企業も出てくる筈だ。この自体に金融庁もようやく重い腰を起こすに違いないと流言が蔓延る。
五月十八日 壊滅的な円相場を鑑みて内閣総理大臣から緊急の記者会会見が行われた。もちろん金融庁のトップも同席していた。
政府としても現状を打開するために特別予算を組む事、そして各種の税率アップをする事が発表された。税率アップ? 何がどう転んでそういう結果になったのか理解に苦しむが、現在ではあらゆるものに税がついている。もう新規の税など作りようがないほどあらゆるものにだ。人頭税もあるし都心部では排ガス除去税まである。それに加えて更に増税だと? 政府の意向がどうにも汲み取れない。
五月二十日 突然のニュースが入ってきた。米帝がウガンダ共和国に対して事実上の宣戦布告を公示した。米帝の公式発表によれば「前世紀で禁止になった核兵器開発を行い、世界平和の協調を乱す行為が認められた」からだそうである。核兵器と言えば大元は米帝が開発した兵器だ。そんなことも忘れたのか。そもそもがだ、国威発揚と大統領自身の力強さをアピールしたいという魂胆が丸見えなのだが、どうして米帝市民はその単純すぎる思惑に疑義を唱えないのか。これが米帝市民への極素朴な疑問である。
五月二十九日 梅雨入り。短い春も過ぎ去り夏の準備が始まった。即ち高温多湿の時期の到来である。この時期から秋までが営業マンを最も苦しめる季節である。東京の場合は冬でも気温摂氏十度を下回る事はほぼないが、夏の気温の上昇は際限がないように思える。東京にも椰子の木やパイナップルの木でも植えれば順調に育つのではないだろうか。
六月三日 台風三号が東京を直撃。「東京を」と言ってもこれはマスコミ用語で「旧東京二十三区」と同義であり、現行の東京五十一区とは合致しない。即ち、東京都の真ん中辺りから西、武蔵野区以西には関連しない話題である。案の定、日野区は今日も曇天で風がない。雷もない。いつまでもマスコミはこの用語を使い続けるのか疑問である。
六月六日 梅雨空の日野区には湿気しかなくどうも活動的になれない。せっかくの土曜日なのだから趣味の映画鑑賞に浸りたいのだが、気分が乗らない。こんな時でも長女蒼依は電子ピアノでの練習に余念がない。次男蒼空は午前中のサッカーの練習が終わるとリビングでひたすらゲームに興じている。今時の子供たちはゲームで遊ぶばかりで自分でゲームを作ろうとしないらしい。自分の身を振り返ってみると、私の子供時分では子供向けにそれなりのプログラミング言語があって、それなりに自分でプログラミングして自前でつまらんゲームを作っていたのを思い出す。そのお陰で数学的思考方法や論理的推論の術を遊びながら学べたのだが、今時の子供はそういった学習機会を持っていないらしい。是非ゲームメーカーにはその辺りの改善を求めたい。
六月九日 ついに米帝の陸空軍がウガンダ共和国へ前線の口火を切った。米帝お得意の物量作戦でミサイルをぶっ飛ばしまくっている。その映像をこうやって自宅で生中継で観ていることに多少の違和感を覚える。
今時は米粒大のカメラもあるのだから、何が生中継されていてもおかしくはないのだが、戦争の生中継ともなると、心中穏やかならざるものがある。
技術の進歩は素晴らしい。だが使い道には要注意だ。
六月十二日 雨。大阪日帰り出張。日野駅から東京駅まで中央線で二十五分。東京駅から新大阪駅まで新幹線で四十五分。この時間と距離の乖離は何なんだ。
六月十六日 雨。またいつも通りの生活。考えてみれば家庭にいて家人と顔を合わせている時間よりも職場の人間と顔を合わせている時間の方が長い。こんな有様で真っ当な子育てができるのかと不安と疑念が起こる。
六月十九日 梅雨明け宣言あり。早速の炎暑始まる。得意先を回ってみたが米帝のウガンダ侵攻で特需を受ける企業あり。間接的にウガンダ共和国への武器への転用ができる精密機器の製造業者だった。円安も追い風になって笑いが止まらないほど右肩上がりの業績アップになっているとのこと。世界がどこでどう繋がっているか分からぬものだ。しかし当局に露見した場合はどうなるのだろうか。
六月二十五日 米帝が国連総議会で大バッシングを受ける。ウガンダ共和国は元々アフリカの政情不安だった時代を乗り越え、やっと世界秩序の一員となったのに米帝がこれをまた無秩序へと戻してしまったと各国の代表が非難する。が、米帝代表は全く怯まない。そのど根性はどこから来るものなのか、その米帝の根幹が気になる。
六月二十六日 円相場が一時一ドル四百六十円に割り込む。第二次大戦直後、一ドル三百六十円で固定だった時代があったそうだが、それよりも更に酷くなっている。日本はもはや先進国ではないと言われて久しいが、それは我が家の家計からして一目瞭然だ。
六月二十八日 早くも猛暑日が続く。埼玉県熊谷では気温摂氏四十二度を記録したという。四十二度は体温より高温でむしろシャワーの温度に近い。そんな中で生活できるのが不思議である。年々最高気温が更新されつつあるような気がするが、エアコンのなかった時代にはこの猛暑をどう乗り切っていたのか不思議に思う。
七月一日 酷暑。今日も東京は暑い。予想最高気温摂氏三十八度。暑すぎる。ちなみに南国タイの首都バンコクの気温は三十二度だそうである。エアコンの効いた社屋から一歩出ると熱波に曝される感あり。アスファルトからの照り返しで体感温度はもっと高い。加えて車の廃熱で余計に暑く感じる。この時期、営業マンに必須なのは適度な水分補給と塩分の補給だ。なのに若い営業マンが社に戻ったところで体調不良を訴えて産業医のもとへ行く。熱中症とのことで臨時に早退。やむを得ない話だが自分の体調管理もできない人間が顧客の管理ができるか、と一喝したくなる。が、心の裡ではそう思っても口にはしない。
七月三日 夜、客先で暑気払い。金曜日なので羽目を外して飲みたかったが、なんせ相手は顧客である。酔っ払っても弁えるところは弁えなければならない。いつもそうなのだが客先にいると自分の思考が客先モードに切り替わって酔うに酔えない。
七月五日 次男の誕生日。もう誕生日プレゼントで喜ぶ年ではないがケーキを手土産に帰宅する。
七月六日 ウガンダ共和国フレッド大統領、米帝の首都攻撃で殺害される。米帝は「新しい秩序を造る」と息巻いているが、その実は在来の文化破壊、国民総洗脳による米帝化であることは日本人であればすぐに思い出すだろう。現地で進駐軍がどんな悪さをするのかも日本人は知っている。一刻も早くウガンダ共和国が脱米帝化の旗を掲げて文化的・政治的・経済的自主独立を打ち立てる事を願うのみである。
七月十日 今日もいつも通りの生活が続く。今日も暑かった。今日と変わらぬ明日が来るのに憂欝を感じる人もいるようだが、ただの会社員だけではなく、夫として父親として真っ当な生活を送れている証左であると私は考えている。
七月十一日 長女蒼依から進路相談を受ける。こうして我が子とまじまじと対面すると、その成長ぶりに舌を巻く。蒼依は音楽学校へ行って将来はピアニストになりたいという。私にとっては音楽関係の世界は未知だ。しかしピアニストへの道は細く険しく長いことは容易に察知できた。私は親として子供の将来は子供に決めさせてやりたいと思う。しかし、産まれてから今までの蒼依の生涯を知っている、いや、知っている積もりになってみると、こんな小さな子供にそんな夢のようなことが本当にできるのかと不安が過る。
しかし蒼依の人生は蒼依のものだ。誰であれ親であれその決断に異議を申し立てるのは理不尽というものだ。私は蒼依の本気を信じて「ライバルは多いぞ。頑張れよ」とだけ言った。
七月十四日 報道では連日ウガンダ情勢が流されている。早くも闇市が建ち並び、その中を米帝進駐軍たちが闊歩している。これは記録フィルムで見た日本の敗戦当時と全く同じではないか。米帝は確かに歴史から学んでいる。どうやって戦争を仕掛け、どうやって勝ち、どうやって敗戦処理と銘打って侵略していくか。その先例を示してしまったのが日本であることを恥に思う。これからも世界の米帝化は進んでゆくのかも知れない。もしそれを食い止められるとしたら、それはイスラム圏諸国しか今の私には思い浮かばない。
七月十八日 土曜日だというのに蒼依は朝からピアノに向かいっぱなしである。先日の蒼依の決意表明を聞いてしまったら、そのピアノの練習の邪魔になるのは憚られた。蒼依の本気は確かに私に伝わった。今は私が蒼依にしてやれる事といったら練習できる環境を整えてやる事ぐらいしかない。
七月二十二日 炎暑。だが仕事は続く。これが会社員の悲しいところなのだが、どんなに雨風が吹こうとも、どんなに旱に遭おうとも、仕事は続けなければならないのだ。基本的に会社員はデスクワーク主体になりがちである。であるからエアコンの効いた室内での勤務となるので、理屈としては季節は関係ないのでる。が、われわれ営業マンは外回りが基本である。即ち、エアコンは関係ない。それでも建築作業員に比べれば一時でもエアコンの恩恵に預かられるのだから不平を言ってはいけないのであろう。しかし、ものには限度というものがある。エアコンの効いた部屋と猛暑の外との行き来はそれだけで体力を消耗するものなのである。そこを理解してもらえる事は非常に少ない。かといって何らかの会社側からの補填を要求する訳にもいかない。もし本当に体力的に無理があるのならば異動か転職をするしかない。われわれ営業マンは靴底を擦り減らしてサラリーを稼いでいるのだ。
七月二十五日 今年も七月最後の土曜日、隅田川花火大会の日がやってきた。今年も一家揃って鑑賞となった。座席は第一会場のものが取れた。毎年のことだが数十万人の人手には圧倒される。この花火大会で一番大事なのは席取りではなく交通手段の選び方だ。都心での開催となるので車は駄目。電車で行く事になるのだが、これが結構渋滞する。特に帰り道では満員電車となる。真夏の満員電車を想像して欲しい。稀に急患も出るのでその辺りも勘案すると、浅草から新宿までタクシーで移動して新宿から電車に乗る方が格段に良い。肝心の花火は夜闇の東京の繁華な光にも負けない迫力と可憐さがある。号砲のあと、東京の夜に咲く光の花が儚くも煌びやかに散っていく様は何とも言えない。暗い夜に花火は舞い上がり閃光を放ち、ゆっくりと放物線を描いて消えてゆくのである。その一瞬一瞬の連続が夜闇に舞い落ちていく姿は現物ならではの迫力がある。この光景は一度見たら忘れられない、生涯の宝物である。
あとがき
この文章は西暦二三二五年三月二十日から七月二十五日までの私の日記である。このあとがきを含め、古語で書くのには難渋したが本書を手に取ってもらい古い日本語を使う読者になるべく伝わりやすいように書いた積もりである。序文でも述べたがこの日記は東京大学国文科長田典通教授の薦めで書いたものである。何故私が選ばれたかというと、国文科卒で古語の読み書きにも通じ、今は市井の中の一凡人として現代を活写でき、過去の人々に現代の有様を伝える事のできる人物ということだそうである。
私は国文科卒でありながらその道をついに究める事なく大学を卒業し、財閥系の企業に勤務している一般人である。それが却って今回のプロジェクトに適任であったと判断されたのは、何かの皮肉か冗談のような話である。
その今回のプロジェクトというのは簡単に言えば「タイムマシンの試作実験」だそうである。
目下、このプロジェクトは半官半民で開発されており、いきなり犬猫や猿といった生物、ましてや人間を過去に送るのではなく、非生物、つまり本で実験しようというものである。
もしこのプロジェクトが成功すれば、西暦二三二五年現代の古本屋か大学の蔵書室のどこかにこの本が収容されている筈である。序文でも述べたが、この本を発見せられたならば是非、理化学研究所事務局へご連絡いただき、その発見の経緯・場所等も合わせて教えていただきたい所存である。
今日の技術力ではまだ未来への転送はできず、過去への転送のみ可能であり、しかも「約三百年前のみ」との制約の中でこの本が作成された。
もしこの本が現代で発見されれば実験は成功、もし発見できなければこの本はどこかの時空の海の間隙を漂う存在となったということになるのであろう。
和紙に墨書きで書くよう指示されたのは、この方法であれば千年以上の保存がきく事が判明しているからであり、記録メディアとして相当な長寿であるからである。しかもその再生には特に再生装置に依存しない点からでもある。
なにぶん文章も書き慣れていない、筆遣いもなっていない拙著ではあるが、今後の科学実験の礎になると思うと、かつて学究に勤しんだ者としては有り余る光栄の機会に恵まれた、と思っております。私のような少々国文学を囓った程度の浅学非才が約三百年前の国語を模した文章であるため乱文乱筆はご容赦のほどお願いしたい。
最後にこの本が偽書でない証拠として明治以降の元号を記して締めくくる。
明治
大正
昭和
平成
令和
安治
冠誠
典慈
貴丈
弘永
享明
天賀
戒明
京則
西暦二三二五年七月二十七日 著者記す
万條日乗 @wlm6223
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