第2話 願いの終わり。

 机の上の携帯からアラームが鳴っている。


 リビングの床に敷かれた布団から、のそのそと男が起き上がり、そのアラームを止めに行く。


 部屋に散らかっている物などは特にない。それは彼がミニマリストだからという訳ではなく、貯蓄に回しているせいで使えるお金が少ないからだ。


 3年前に卒業した中学の卒業アルバムといつのものかわからない数冊の雑誌。スカスカの本棚にあるのはそれだけだ。


 壁際にある本棚の前を横切って、机の上で充電してあるスマホに手を伸ばす。

 画面をタップして、アラームを止める。表示が切り替わり、今の時間が表示される。


「…だりぃ。」


 いつも通り6時なのを確認すると、前日の洗濯物と一緒にユニットバスへ歩いていく。廊下の給湯器を起動して、まだ半分眠っている頭にシャワーで水をぶっかける。

 当然最初は冷たい水が頭に直撃する。


「あああああ!」


 四月終盤の朝の冷えた空気に冷水の相乗効果で、一気に彼の目が覚めた。

「うるさい!死ね!」


 リビングの奥にある母の部屋から怒声と壁を叩く音が聞こえてくる。

「…ハハァ。今日も平常運転ね。」


 男はそう小さくつぶやいて肩を落とす。


 ささっとシャワーを浴びて身だしなみを整えると、リビングに戻ってくる。


 布団を部屋の隅に片付けて、椅子に腰かける。


 椅子に浅く座わると携帯のロックを解除して、通帳アプリをタップする。更に通帳アプリのロックを別のパスワードで開くと、画面が切り替わり個人情報が表示される。


『神代境介さん!お待ちしておりました!』という文字がフェードアウトして、今の保有資産が表示される。


 預けている金額は20万円。二年間ほぼ毎日バイトして、ぎりぎりまで切り詰めた生活を送って、ようやく手に入れたお金。


 それを見た境介は穏やかな表情で笑う。お金は好きだ。自分がバイトした結果が、金額というわかりやすいもので返ってくる。


「ねぇ境介、今月のバイト代まだ入らないの?お母さん、毎日本当に苦しいのよ。」

 奥のゴミだらけの部屋から境介の母親が起きてくる。


 髪はボサボサで肌も荒れている。おおよそ女性としての魅力を感じないような外見だ。服装もシャツに下着という気の抜けたものだった。


「お母さんおはよう。バイト代なら昨日引き出して来たよ。はい、これ今月分。」

 境介は準備しておいた封筒を差し出す。母親はそれを無言で受け取ると、中身を数えだす。


「ふーん。じゃあ、これ今月の生活費ね。」


 そう言うと、母親は封筒の中から二万円を取り出すと、境介に返却する。

 境介がそれを受け取ろうとすると、母親はお金をひっこめる。


「お金をもらったらありがとう、でしょ?」


 母親は不機嫌そうな顔をして、境介の方を睨む。それは元々境介が稼いできたお金だとか、そういうのは全て無視してそんなことを言ってくる。


「ありがとう。」


 境介がそう言うと、母親は嫌々お金を差し出す。


「全く…お母さんはあなたと違って大変なの。鬱病になったことないあなたにはわからないでしょうけど、毎日生きるのが辛いのよ。そんなあなたに、こんなに優しくしてあげてるの。この家の家賃も電気代も水道代も全部お母さんが払ってるのよ。あなたはお母さんがいるから生活できてるの。お願いだからもっとしっかりして。ね?」


 境介はいつもの疲れたような笑顔を浮かべる。


「ごめんね。」

 その反応を見て、母親は大きなため息をつく。


「はぁ、なんでこんなダメな子になっちゃったのかしら…お母さんはあなたのことを愛してるから注意するの。あなただけが頼りなのよ?」


 境介はその言葉に対して毎日繰り返している反応を返す。


「うん。わかった。朝食作るね。」


「なるべく早くしてね。」


 母親はそう言うと、椅子に座ってスマホをいじり始める。SNSのアプリを開いて日課にしている投稿をする。それが終わると、次は普段から監視しているアカウントの投稿に噛み付いていく。「はぁ、これだから男は…」「幸せアピうざ…」「チー牛じゃん。こいつ絶対モテない…」と、ぶつぶつ言いながら手を動かし続ける。


 恭介は廊下にある小さなキッチンで朝食を盛り付ける。今日はトーストとサラダ、水道水。それらを手早く準備して、リビングのテーブルに運んでいく。


 先に母親の分を置くと、無言で食べ始める。スマホは決して手放すことはない。


 境介も自分の分の朝食を置くと、席に着く。


「いただきます。」


 そして、スマホで今日のニュースなどに目を通していく。「月曜ドラマの主演女優結婚!?」「KPOPグループが世界で大人気!」「行方不明者の実態。認知症患者が関係?」と、見出しと画像がたくさん出てくる。


「ごちそうさま。」


 自分の興味があるニュースに目を通して、すぐに朝食を終わる。


 母親の分の食器も洗って、外出の準備をする。前日の深夜まで準備していたので最後は本棚に忘れていた中学の卒業アルバムを仕舞って終わりだ。


「お母さん、そろそろおじいちゃんの家行こう?」


 境介は椅子で携帯を弄り続ける母親に声をかける。


「え?なんで?」


 母親はポカンとした顔で聞き返す。


「今日、親族皆で集まってご飯食べる日だよ。」


 境介はカレンダーアプリの「親族とご飯」という予定を見せる。


「はぁ…今日だったか。うざ…境介だけ行ってきよ。お母さんのことは上手く説明しといてね。」


 すぐに携帯に視線を戻す。自分が行く気はないというのがひしひしと伝わってくる。


「…わかった。なら俺の分の交通費頂戴。」


 境介がそう言うと、母親の表情が再び歪む。


「はぁ!?お金ならさっきあげたでしょ!?」


 すぐに母親の右手が机の上の封筒に伸びる。このお金はすでに自分の物らしい。そして、それを盗られる事を恐れている。


「片道5000円くらいかかるんだけど。」


 金額の大きさを聞くと、母親は渋々封筒から一万円札を取り出す。


「チッ!全く、こんなにお金にがめつい子になるなんて…」


 ぶつぶつと文句を言いながらすぐにSNSのアプリを開いて、何かを書き込み始める。境介はそれに対して文句を言わない。


「ありがとう。行ってきます。バイバイ。」


境介はリビングの扉をそっと閉めると、玄関に向かう。


 靴を履きながら、背後にいる母親の気配を感じることはなかった。SNSに没頭する指の音だけが、リズミカルに耳に入ってくる。


 そう言ってリュックを背負って、家を出る。境介からすれば、毎日見てきた光景だ。先立った父親の最後の頼みで、ずっと母親の面倒を見てきた。どれだけ文句を言われても、全て母親が望む通りに振舞ってきた。


 境介はいつかこっちを見てくれるかもと、淡い期待を持っていたのだ。


 玄関の扉を閉めるその時まで。


 当然だが、母親からは「行ってらっしゃい」の一言すら返ってくることはなかった。

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