窓外

壱原 一

 

よんどころない事情により、今ひとつ穏やかならざる安い古アパートの一室へ急ぎ転居した。


3階建ての3階、5室が並ぶ内の中部屋で、ベランダから地上を見下ろすと車一台分の道がある。


近所は勤め人や学生が多く、朝でかけたり夜かえったりの時分に特段の変哲はない。


一転して深夜や明け方の、自室で過ごしている時間帯に、どこから現れたのか不思議に感ずるくらい怪しげな人々が、3階下の地上の道を行き来する音が聞かれる。


例えば豪快に疾駆するキャリーケースらしき車輪の走行音と、随分離れてこれに続くやけによろよろと不規則な細いヒールの靴音。


男声の「お」と「たりっ」を数拍置きの雑音混じりに延々くり返すラジオめいた音を連れて、かっしゃんかっしゃんと通過する、車体の歪んでいそうな自転車の漕ぎ音。


どうも誰かと通話している感じの一方的な発話や相槌や笑い声と、通話の相手と目される電子機器越しの胡乱な声、それらをぼそぼそ窘める様子の、全く会話に加わらない第3の声。


風呂に入っていたり寝ていたり外泊していたりで都度たしかめた訳ではないが、斯様に癖のある面々が、平日の勤め人や学生よろしく、ほぼ毎晩およそ定刻で習慣的に行き来している。


住宅街ゆえ夜は静かで、道の両側に家屋が並び高々と遮蔽されているからか、無闇に音が反響し、知らぬ間に窓が開いたかと疑うほど音が近い。


越してきた当初は気が漫ろになり閉口したが、数日過ごすと慣れて、すっかり背景と化したこれらの音の中へ入眠し、迎えたいつもの平日の朝のこと。


出掛ける準備の手始めに、朝日を浴びて換気しようと窓のカーテンを開けた途端、ベランダで窓を開けられぬよう窓枠をぎゅっと押し閉めている俯き加減の中年男と遭遇して度肝を抜かれた。


何この人。何してんの。


見も知らぬ赤の他人だった。


チノパンツにシャツ姿で恰幅が良く、整髪料で艶々の角刈り頭で、エラの張った逞しい輪郭の顔は、日焼けなのか酒焼けなのか薄ら赤茶色をしている。


意志の強そうな太い眉を潜め、臍を曲げた子供のようにむっつりと口を噤んで、親の服に縋り陰へ隠れる風に窓枠へ縋り、全身で窓の開放を拒んでいる。


心底面食らうと同時、率直なところ、面倒だと思った。


さっさと出掛けなければならないのに、良く分からない変な男にかかずらう暇なんてない。


いま振り返れば急な転居と生活の変化に翻弄され、盛大に血迷っていたと分かる。


しかし当時は結果として、その場を身じろぎ一つしない男が単身手ぶらとだけ確かめるに留め、証拠にスマホで数枚写真を撮って支度を済ませ部屋を出た。


アパートの前を行き過ぎつつ横目に自室を見上げたものの、脚立やら梯子やらの昇降器具は見当たらない。


「じゃあ屋上からだな」と要領を得ない納得をした後は、出掛け先の用事に忙殺され、男の事なぞてんで忘れて日中を終えた。


夜にアパートへ帰り着いて早々、集合郵便受け脇の壁面に白々と張り紙が貼られていて、いわく数部屋が空き巣に遭ったという。


即座に朝みた男を彷彿し、すわ通報せんとスマホの写真を検めると、撮った筈の写真に男は疎かベランダも映っておらず、みっしり生い茂った薄暗い藪の写真が、男を撮った枚数ぶん保存されていた。


狐につままれた心持ちで、とは言え明日も早いので寝る。


動揺の所為か眠りが浅く、恒例の不審な人々が行き来する音をうつらうつら聞いていた真夜中に、窓辺でボン!とそこそこ大きく重たげな物音がした。


ちょうど件の男くらいの長さと厚みの人体が、がくんと窓へ倒れ込んで頭を打ち付けた音のように想像された。


眠気と苛立ちを半ばさせ、ぞんざいにスマホを引っ掴み、素早くカーテンを引き開けたが、当然の如くベランダには深夜の暗さが立ち込めるばかりだった。


*


そんな事もあったと思い出しすらしなくなった休日前夜。


ほくほくとベッドに潜り込み、生活も落ち着いてきたし明日は久々に外出するかと近隣の商業施設を検索する過程で、例の男がこの地域のいくらか昔の行方不明者と知った。


自宅アパートに財布を含む持ち物を残し、突然いなくなってしまったらしい。


築年数に齟齬はない。


それはもしかしてこの部屋だろうか。


いやそれより


まさかあの藪


ぱっと閃いた考えに当惑して、意味もなく起き上がり、カーテンに覆われた窓を見て、目を戻しスマホを持ち直す。


全く馬鹿げている。荒唐無稽だ。


そもそも男を撮れていなかったから男の顔の記憶なんてもう曖昧で、似ている気がするだけの思い違いの方がずっとあり得る。


あの頃はかなり疲れていたし、自覚がないまま先に情報に触れていて、それであの朝なにかの拍子に男を見たと幻覚したのかもしれない。


気付けばいつの間にか夜おそい。


窓外で車輪が疾駆して、ヒールの靴音がよろめき、「お」と「たりっ」を連れた自転車が過ぎて、誰かと誰かの通話を別の誰かが窘めている。


寝よう。


気晴らしの外出先は、また明日ゆっくり考えよう。


消灯して目を閉じると、道行く音と同様に、すっかり背景と化したボン!という音が窓で鳴る。


爾来いちども見直していない藪の写真のことを考える。


あれらも思い違いや幻覚か。


それともまだスマホにあるだろうか。


確かめる気が起こらない。


どうか存在しないでほしい。



終.

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窓外 壱原 一 @Hajime1HARA

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