死神と黒猫(メイデンの手記)

Kurosawa Satsuki

メイデンの手記

私は人間では無い。

私は化け物だ。

みんなが、私を聖女だと言うので、

時折その事を忘れてしまいそうになる。

私は、ある少女によって産み落とされた。

私は、“メイデン”。

コードネームは“プリズム”。

この名前は、彼女からもらった。

それは、私が私を、他者が私を識別する為の言葉。

彼女がいるからこそ、私はここにいられる。

私は、彼女がいなければ生きていけない。

私は、彼女の光だ。

この体は、この心は、

私の全ては、彼女のためにある。

だから私は、彼女を許すのだ。

彼女が残していった“この子”を護るのだ。

……………………………

創世記1035年。

聖カタロニア教会ユリウス集会所。

イデア教の信者が集まる場所であり、

イデア教の創始者である私が管轄している建物の一つだ。

イデア教の理念十五箇条は以下の通りである。

・信仰とは、相手に押し付けるものでは無い。

・信仰とは、己のみ知る正しさである。

・信仰とは、生活を豊かにする手段でしかない。

・信仰とは、苦であってはならない。

・信仰とは、個人の思考であり意志である。

・信仰とは、他力本願の道具ではない。

・自分の信じたいモノを信じよ。

それについて、神は咎めもしないし褒めもしない。

・神というのは、各々が持っている意志が具現化されたものに過ぎない。

・正義とは、己の行いを正当化する為の手段である。

・価値観の押し付け合いは誰も幸せにしない。

・それを押し売りした瞬間、正義は崩壊する。

・己というのは、己にとって一番の敵であり味方である。

つまり、自分の敵は自分であり、

自分の味方は自分だけだ。

・言葉は、薬であり猛毒だ。

たった一言で、人を殺し、

人を不快にさせ、人の命を救い、

人の行動をコントロールする事だってできる。

・自由を愛し、自由であれ。

・神もまた、人間だ。

その他にも、アンゴルモア大聖堂や、

グレゴリウス小聖堂など、

無宗教者関係なし、入会不必要、儀式や掟もない、何処の誰であろうと教えを聞ける自由な場所も存在する。

私はユリウス集会所で、ワルツ(仮名)とともに暮らしている。

彼の名前は、ワルツでは無いのだけど、

彼が言うには、無関係の人々にまで自分の正体を知られるのは都合が悪いので、ここではワルツという名前で活動しているそうだ。

争いのない世界。

彼女が設計し、彼が創造した理想の世界。

イデアは今日も平和だ。

「ワルツ、起きてますか?」

ワルツの寝室の扉を二回ノックし、

彼の返事を待たずにゆっくりと開ける。

彼は、窓からの射光を浴び、寝息を立てながら穏やかな表情で眠っている。

私は彼の顔に近づき、彼の頬をそっと撫でてみる。

彼の肌はアイスクリームの様にほんのり冷たい。

彼は、この世界の住人ではない。

彼の言う現実がまた別にあって、

彼は、その中の集合体の一つとして生きていた。

別世界での彼は、身分の低いただの一般人だった。

お金もなければ、名誉も、愛する人もいない、

大人になりきれずに死んだしがない男だった。

彼が自死を選び、ここへやって来たのは、

ちょうど一年前だ。

「父さんは、まだ寝ているのか?」

「そう、まるで幼子のように」

メルト王国の国王アルトが、

寝室のドアの前で仁王立ちしている。

彼のコードネームは、“ペイン”。

彼女が最初に生み出した死神であり、

彼女にとって、

自身の痛みを受け止めてくれる存在だ。

アルトは、幼少期から誰にでも優しく、

正義感が人一倍強い事で周知されている。

私を含む親族でさえ、彼が感情的になる所を見た事がない。

ワルツの事を父さんと呼んでいるが、

アルトは、ワルツが本当の父親ではない事に気づいていない。

「すぐに起こしてくれ、これから大事な用がある」

大事な用というのは、月に一度行われる生命活動倫理委員会の集まりの事だ。

現在の時刻は午前七時三十分。

あと一時間で、ワルツはアルトとともにメルト王国へ向かわなければならない。

もちろん、委員会のメンバーである私も同行する事になっている。

「メイデン…か」

「ワルツ、もうそろそろ出発しますよ。

着替えはシャワールーム前の籠にありますので、

今すぐシャワーを浴びてきてください。

あまり時間がないので、朝食は馬車の中で頂きましょう」

「あぁ、そうだったな。

倫理委員会の会合か…」

瞼を擦りながら低い声で彼は言う。

なぜ行かねばならんのだ、とでも言いたげな表情を私に向ける。

ここが誰のための世界なのか、

誰のために委員会で話し合いをするのかを、

彼が理解しているとは思えない。

私は、ワルツに一礼した後、

アルトと一緒に寝室を出て、馬車が停めてある正門の前でワルツを待つことにした。

正門へ向かう途中、二階と三階を繋ぐ階段で、

幼い少女がスケッチブックに絵を描いていた。

彼女は“エリー”という名前で、

近所に住む愛想がいい女の子だ。

ほぼ毎日、このユリウス集会所に遊びに来ていて、私やワルツとも親しい仲だ。

「何を描いてるの?」

私も、エリーの隣に座って彼女が持っているスケッチブックを覗いた。

文字や幾何学模様が紙一面にびっしりとあり、

エリーが描くその独特な絵柄は、

ヴェルフリを思わせる絵だった。

「キュビズム?

いいえ、アウトサイダーアートってやつね。

独創的な絵画だわ。

とっても上手いじゃない」

「ありがとう、でも…」

「何も悲観する必要はない。

後にこれが、あなたが優れている事の証拠になる」

「私が描くとよく分からないものができるの。

やっぱり、下手なのかな?」

「絵画に言葉は要らないわ。

それに、私はこの絵を下手だとは思わない」

「本当!?」

「ええ、本当よ」

私は、少女の頭を軽く撫でた。

少女は私にはにかんだ。

大人になっても、

この純粋さを忘れないで欲しいと強く願った。

「私ね、本を読むのも好きなの」

正確には、物語を聞くのが好きと言った方がいいかもしれない。

本が好きとはいえ、

活字に対して苦手意識があるようで、

絵本を読みたい時は、大人に読み聞かせてもらっているらしい。

私も、この子ぐらいの頃はこんな感じだった。

けど、大人になってから色んな書籍に触れて、

本を読むことの楽しさを知った。

この子もいつか、

心から本を楽しめたらいいなと私は思った。

「恥ずかしいけど、私は一人で読めなくて。

本当は、難しい本とか読んだ方がいいのは分かってるんだけど…」

「今はそれでいいんじゃないかしら?

嫌々読んでも何も残らない。

読みたいものを読みたい時に読めばいいのよ」

人生の学びは、本が全てじゃない。

流行りだろうがマイナーだろうが、

自分が興味を持った作品を手に取って楽しめばいい。

有識者や周りは、哲学的な本や難しい本を勧めるが、そういうのは、自分で決めさせて欲しいと私は思う。

「本との出会いもまた一興よ」

「どういう事?」

「いいえ、なんでもないわ」

聞かなかった事にしてと言いながら、

私は立ち上がり、少女と別れて一階へ降りた。

馬車に乗り込んで待つこと四十分。

ようやく、ワルツが建物から出てきた。

彼は、世話人に用意させた紺の制服を着ている。

彼が上品に羽織っているロングコートは、

完全に彼の趣味だ。

「朝食はいらない。

すぐに出発してくれ」

ワルツの言葉を聞いた御者(ぎょしゃ)が、

二頭の馬に付けられた手網を勢いよく引っ張り、

馬車を走らせた。

交通手段として自家用の航空機もあるが、

ユリウス集会所からメルト王国のお城まではそれほど遠くない為、馬車で向かうことにした。

馬車に揺られること四十五分。

私たち三人は会話をする事無く、

メルト城の城壁の前にたどり着いた。

お城の門を潜り、無言のままアルトの後ろに着いていく。

アルトは、ある扉の前で立ち止まる。

扉上に架けられたステンレスの札には、

“生命活動倫理委員会記録部第三会議室”と長々書かれている。

ワルツにとっては、脳内会議の舞台だ。

「僕はメンバーじゃないから、

会議が終わる頃にまた会おう」

アルトは、会議室には入らず、

私たちを扉の前まで案内したあと、

足早に何処かへ行ってしまった。

私は、ワルツの前に出て、会議室の重い扉を押し開ける。

最初に目に飛び込んできたのは、豪華な装飾が壁一面に貼り付けられた部屋ではなく、円形のテーブルを囲むように座る同胞三人の顔だった。

天空の民“ミカエル(コードネーム:ハルモニア)”、アルカイク帝国皇帝“イシュメル(コードネーム:ドラゴノイド)”、そして、ビクトリア帝国の女帝“リリス(コードネーム:イブルス)”の姿もあった。

「話って言うのは、また親父の事か?」

私たちが、会議室の決められた席に着席した後、挨拶もなしに早々口を切ったのは、

アルカイク帝国のイシュメル皇帝だった。

彼とアルトは兄弟であり、互いに憎しみ合っている。

私が彼らの仲裁人として動いてはいるけれど、

これ以上放っておけば、二人は戦争を始めるかもしれない。

それだけは絶対に阻止したい。

彼らの喧嘩にも、世界中に蔓延る惨劇にも不寛容なワルツ。

けど、ワルツの力がなければ平和を維持する事も、二人を止める事もできない。

とはいえ、戦争にまで発展するのは、

戦争を知らず、戦争行為は悪であると向こうの世界で教育を受けてきたワルツにとっても面白くないことだから、戦争が起こりそうになったら、真っ先に止めてくれるだろうと私は信じている。

私は、隣にいるワルツに体を向けながら訊く。

「これで何回目?」

「百十九回目だ」

「いつまで逃げる気?」

「いつまでも逃げてやるよ。

逃げた先が闇とは限らないんだ」

「逃げて、逃げて、嫌なことから逃げ続けて、

逃げる為に創ったこの世界からも逃げたいの?」

「俺は、この世界が理想だと思っていた。

自分だけの都合のいい世界だと思い込んでいた。

けど、俺が知らないうちに徐々に崩壊していった。

戦争があった。

虐殺があった。

略奪があった。

幼い子供が泣いていた。

勝者が正義を語った。

それに多くの民が右手を上げた。

子供たちが、また生贄になった。

なんだよこれ、

まるで、現実と変わらないじゃないか…」

この男は、この期に及んでまだ悲劇ぶっている。

自分の言葉に酔っている。

妄想に取り憑かれた哀れな男。

彼の酔いを覚ますのは、いつも私の役目だ。

「私も痛いのですよ。

止めるのか、続けるのか、

そろそろはっきりしてもらわないと、

私たちが報われないじゃない」

私は、なるべく彼を傷つけないように、

幼い我が子を叱る母親のように柔らかい言葉で言う。

世界の悲惨さを語る彼自身も、

そういった弱い者が嘆いているのを見て見ぬふりしてきた側だ。

募金活動にも非協力的な態度を示し、

メディアで報道された悲惨な光景の数々を他人事のように流し見していたのだ。

彼に相応しいコードネームは、

“エゴイスト(偽善者)”又は“フール(愚者)”といったところか。

「馬鹿言うなよ、親父」

私の言葉を遮ったのは、イシュメルだった。

「人は都合のいいものにしか目を向けない。

世界がどうなっているのか、

身の回りのものが、当たり前がどういう過程でできたものなのか知らずに生きている。

それが真実かどうかなんてどうでもいいのさ。

まるで他人事のように弱者を哀れみ、

強者の言葉に酔いしれる。

これが、アンタらの望んだ世界だ。

アンタが生きていた世界も同じだったんじゃないのか?

ここは、アンタの理想なんだろ?」

イシュメルは、前のめりになりながら向かい側に座っているワルツを鋭い眼で睨みつける。

ワルツは、イシュメルの目をじっと見つめて微動だにせず、彼から次の言葉を待っていた。

「それとも不満か?

なら、俺がアンタの代わりに壊してやろうか?

俺なりのやり方で俺がぶっ壊してやるよ。

なぁ、黒澤さん」

イシュメルはそう言って、

ワルツを凝視したまま下品に笑ってみせた。

こう見えて彼は真面目である。

彼なりにワルツを想った上での発言なのだ。

「お前の罪はここにいる誰よりも重い。

これは、お前の無責任が招いた結果だ。

己の失態を恥じ、悔い改めない限り、

悲劇の連鎖は終わらない。

もう一度言う、全部お前のせいだ。

お前の罪は重いぞ、黒澤咲月」

イシュメルは、怒りの篭った野太い声でワルツを責め立てる。

それでも彼は、イシュメルの話を黙って聞いていた。

彼は、イシュメルの言葉にどう返せばいいのか分からないようだった。

「ほんと、憂さ晴らしの対象よね。私たちは」

と、リリスが言った。

それが、どういった意味なのかは教えてくれなかったが、いい加減私たちを解放してくれと言っている様にも思えた。

「まあ、それはいいけど。

民衆の敵としての役割は慣れているもの。

どんな政策をしても、石を投げてくる奴は多い。

それは、私だからじゃなくて、多くの国でよくある事例なの。

彼らにとっては、正義も大義も後付けでしかない。

どの世界でも、どの時代でも、どの国でも、

パブリックエネミーは必要よ。

要するに私たちは、貴方や民衆にとって憂さ晴らしの対象なの。

当時の私は、それに反抗したかった。

それだけなの」

「お前らは勘違いをしている」

「どういうこと?」

「俺の中では結論が出ている。

俺はもう、お前らを縛るようなことはしない。

責任を押し付けることもない。

お前らはお前らで自由に生きろ」

それは、親が大人になりかけの子供に言う台詞だった。

責任放棄と言ってもいいのかもしれない。

もちろん、悪い意味ではなく。

親としての最後の責務、

大人になった者を社会に組み込むための呪文だった。

「お疲れ様、みんな」

ワルツはそう言って、静かに席を立った。

………………………………………

会議を終えた私たちは、

この後行われる社交パーティーの会場に向かった。

会場の奥にある舞台では、

オーケストラの一団が美しい音色を奏でていた。

私とワルツは、改めて合流したアルトからシャンパングラスを受け取り、

しばらくの間オーケストラの演奏に耳を傾ける。

そこへ、先ほど会議室の前で別れたアルトが、

シャンパン片手に私たちのところにやってくる。

「それよりお前、コミュ障は治ったのか?」

「失礼な奴だな。

今の俺は、初対面の人とでも話せるくらいには、

コミュ力あるんだぞ?

社交辞令のやり方だって、

何となくだけど理解してる。

話す相手が少ないだけだ」

アルトが悲しげな表情で目をそらす。

冗談交じりに返したつもりが、

余計にアルトを困らせてしまったみたいだ。

「フールの仮面の正体は、お前なんだろ?」

「まだ確定した訳じゃないが、

おそらく、俺の中にあった何かだろうな。

今はもう、その脅威は完全に消えたが…」

「質問を変えてもいいか?」

「どうぞ」

「結局、お前は何がしたいんだ?

この世界は、お前にとってなんだ?

俺たち死神は、お前にとってなんだ?」

「それが分からないからここに居る」

「自分の世界に閉じこもっていては、

一生分からないままだ。

なあ、お前はいつまで逃げる気なんだ?」

ワルツは、シャンパンを一気に飲み干して、

空になったグラスをテーブルの上に置き、

アルトに背を向ける形で扉の方へと向かった。

「どこへ行く?まだ始まったばかりだろ?」

「ちょっと、外の空気を吸いに行ってくる」

「そうか、また後でな」

アルトはそう言うと、婚約者のいるところへ足早に去っていった。

私も、こっそりとワルツの後を追う。

ワルツが向かった先は、人気のない裏庭だった。

そこには、ミカエルの姿があった。

二人は何やら、話をしているようだ。

会議室では一言も喋らなかった彼が、

こんな夜更けに、わざわざワルツを裏庭に呼んで何を伝えるのだろう?

二人の真剣な表情を見て、会話の内容は私にも関係がある事なのだろうと思った。

私は、物陰に隠れて聞き耳を立てた。

「酔いは覚めたか?」

「いや、相変わらずだ」

「アンタは人を幸せにしたかった訳じゃない。

自分が幸せになりたかっただけだ。

自己満足の世界、自己満足の作品、

それがアンタの書きたかった世界だ。

なあ、見てみろよ。

アンタが描いた夢と、

その夢のせいで狂ったこの惨状を」

「ああ、知ってる」

「俺らは、アンタの為に多くを語らない。

だが、これだけは言ってやる。

自分に酔ってないで、いい加減目を覚ませ。

そして、主を間違えるな。

俺らもアンタも、辻褄合わせの作品じゃない」

ワルツは、ミカエルが話を終えると溜め息をつく。

その表情から見るに、わかりきった事を言うなと呆れている様子だ。

「じゃ、俺の代わりに生きてくれないか?」

月明かりの下で、鈴虫の合唱が聞こえる。

夜風が靡く中、二人の間を沈黙が支配する。

私は、二人の動向を静かに見守る。

ミカエルは目を逸らし、

ワルツは、静かに泣いていた。

…………………………………………

奇妙な夢を見た。

グランドピアノが置いてある一室に、

黒澤玲香とアルトがいて、

アルトの隣には、彼の婚約者であるジュリアが、

彼の事を心配そうに見つめている。

それを俯瞰して見ている私。

まるで、演劇の一幕を鑑賞している時のようだ。

アルトは、化粧台の鏡で自身の顔を見ながら怯えている。

彼の顔が、灰色の結晶で覆われている。

よく見ると、手首や胸など、所々が結晶化していた。

呼吸が乱れ、錯乱状態に陥るアルト。

私は、彼の頭の中を覗き見た。

彼は、玲香の痛み(記憶)を見ていた。

自身の体から生えてきた結晶を食べるアルト。

玲香の痛み(記憶)が彼の頭に流れていく。

彼女がノートにアルトの姿を思い描いた時のこと。

彼女が虐待されていた時のこと。

同級生から言葉にできない恥辱を受けた時のこと。

腐った大人に、自ら体を差し出した時のこと。

そして、生まれたばかりのワルツ(黒澤咲月)を置いて飛び降りた時のこと。

自分を壊したい、殺したい、

そういう彼女の願いが、その一つ一つの記録が、アルトの脳内を侵食する。

アルトは、ワルツの息子ではなく兄弟だった。

真相を知る前でも、ワルツに対して無意識のうちに兄のような振る舞いをしていたのもその為だ。

「僕は、自分の姿が醜くなっていくのが怖いのでは無い。

自分という存在が分からなくなるのが怖いんだ。

自分の存在意義を失うのが怖いんだ。

痛いんだ、すごく、痛い…」

震えた声でアルトが呟く。

アルトの顔は、涙と結晶でぐちゃぐちゃになっている。

これでは、彼の整った容姿が台無しだ。

アルトは、玲香の方に視線を向けて叫ぶように言う。

「なぁ、玲香、僕は誰なんだ?誰なんだよ!?」

「ペイン、君は痛みだ…私の、痛みだ」

「痛み?僕は、あなたの身代わりなのか⁉︎」

玲香は、それ以上答えなかった。

…………………………………

そして、それは現実になった。

私が夢で見た出来事が実際に起きてしまった。

イデアの世界に冬が来た。

本来ならば、初夏の季節だというのに、

陽の光を奪われてしまった。

氷点下二十度という極寒の地を、

禍々しい空気が漂っている。

七階のフロア、グランドピアノが置いてある一室。

玲香の返答を聞く前に、アルトは気を失った。

倒れたアルトを、彼の寝室まで担いでいったのはワルツだった。

寝室に着いたワルツは、なるべく慎重にアルトをベッドに寝かせた。

突然、メルト城にけたたましい爆発音が鳴り響いた。

私とワルツは部屋を出て、

足早に爆発音がした場所へと向かった。

城内の至る所で、黒煙が上がっている。

ワルツがアルトを寝室に運んでいる間、

イシュメルが、メルト城で爆破テロを起こしたのだ。

「よう、兄弟」

三階、天井が突き抜けた大広間の中央。

そこに、イシュメルはいた。

「玲香を探してるんだろ?

残念だが、ここにはいない」

ニヤリと不敵な笑みを見せるイシュメル。

ワルツは、獲物を捉えた鷹のようにイシュメルのことを睨みつける。

「安心しな。俺が全部終わらせてやるよ」

「違う」

ワルツは、異空間から剣を取り出し、

刃の先端をイシュメルに向けた。

「まあ、精々楽しみな」

鋭い剣の先端を向けられたイシュメルは、

異空間から大量のオートマトンを呼び出し、

少し慌てた様子で大広間を飛び出した。

「イデアの行く末は俺が決める」

その想いを胸に、

ワルツは、イシュメルを追いかけながら、

だだっ広い城内を一心不乱に駆け抜ける。

その瞳には、迷いなど微塵もなかった。

行く手を遮るオートマトンを、次々となぎ倒して進み続け、

ついに、イシュメルを追い詰めることに成功した。

「こんな腐りきった世界など、

何度やり直そうが亡ぶ運命(さだめ)だ!

ならば、貴様を殺して俺が全てを終わらせる!」

違う。

彼が望んだものは、生きとし生ける誰もが心から満たされた世界だ。

誰も傷つかない世界。

多くの血と涙を流す必要のない世界。

幸福に始まり、幸福なまま終わる世界。

それが、彼らの描いた“理想(イデア)”。

「今度こそ、自分の力でこの悪夢に終止符を打つ!」

「なん…だと!?」

目を見開き、硬直するイシュメル。

ワルツは、自身の内側から月の女神“アルテミス”の力を呼び覚ました。

今の彼に、恐れるものは何もなかった。

「なぁ、知っているか?

こういう物語の最後は、正義が勝つと相場が決まってるんだよ!」

「クソがーー!!!」

光と闇が激しくぶつかり合い、

イデア一体を覆う。

焦りを顕にしたイシュメルも、己の中に眠る負の力を最大にまで増幅させたようだ。

禍々しいオーラが身体中から溢れている。

イシュメルの姿は、もう人の原型すら留めていなかった。

邪悪な黒い獣として、

破壊の限りを尽くす道具に成り下がった。

「答えは一つ、想いは二つ!」

ワルツは、自身の持てる全ての力を左手に集めた。

力がこもった左手を空へ翳し、

イデア全土を覆う程の巨大な光の円を生み出す。

『ホワイト……レボリューション!!!』

ワルツは、渾身の力で、

イシュメルに向けて光を振り下ろした。

魔力が全て切れたイシュメルは、

やがて抵抗を止め、力なく光に飲み込まれた。

「ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!」

イシュメルの悲痛な叫びが辺りに響く。

魔力を消耗したワルツは、地面に向かって落下した。

「舞台は終わった?」

イシュメルを倒したと思った矢先、

ワルツの背後から黒澤玲香が現れた。

「玲香…」

ワルツは玲香の姿を確認し、その場から咄嗟に立ち上がり振り返る。

彼の前にいるのは、紛れも無い玲香本人だ。

大人になる前に自ら死んでいった本物の私だ。

「間違った思想が人々を狂わし、

行き過ぎた根拠もない疑惑や陰謀論が、

差別や迫害を起こす。

今も昔も変わらない。

そうやって人は、

自分を正当化する為の言い訳を探している。

それに、どこに居ても差別はある。

形を変えて、言葉を変えて存在し続ける。

アイツが悪い、コイツが悪いと、

罪を増やし、擦り付け合う。

それの繰り返し。

百年経っても、千年経っても同じだ。

私達はきっと、鏡を見る術を知らないんだ。

少年よ、それでも人を美しいと言えるのかい?」

泣きたい気持ちを抑えきれず、私の瞳から涙があふれ出た。

玲香の言葉は、私の心を深く突き刺した。

彼女の苦しみが、私には痛いほど解ってしまう。

「私はね、血も涙もない奴が作ったあんなクソみたいな世界が大嫌いで、だからこの世界に逃げようとした。

君もそうでしょ?」

けど、結局この世界も現実と大差なかった。

時間が経つにつれて、

彼女の理想とはかけ離れてしまった。

そして、一度目の破壊だ。

その時、こんな世界なんて作るんじゃなかったと彼女は後悔した。

「何処へ行っても同じだよ。

生きてる限り、永遠に悲劇は無くならない。

いつだって、

みんな自分が一番正しいと思っている。

人はそういう生き物だ。

どんなに残酷で、どんなに愚かな行為でも、

彼らにとっては正義になる」

皮肉なことに、平和と博愛を掲げて活動している者達が、

一番の差別主義者だったという話は、数百年以上も前からある。

その者たちは、神という言葉を用いて、

自分達の都合のいいように世界を変えていった。

それには良い側面もあるが、

猫を血祭りにしたり、自殺者達を叩いたり、

権力を振りかざして好き放題したり、

他にも、魔女狩りやらで罪も無い人々をその手で殺してきた。

神の教えを破るどころか、

堕落という言葉さえ霞むくらい、

酷い行いを平然としてきた事には変わりない。

懺悔なんて都合のいいシステムがあるのは、全て彼らの為だ。

故に、信仰者というものは、

悪魔を否定しながらも悪魔に身を売った野蛮人とも言えよう。

彼らが生きた世界は、そういう場所だった。

誰かの身勝手のせいで、一体どれほどの数の人間が犠牲になったのだろうか?

「憎み、憎まれ、憎み合う。

そうやって人は、何千年という歴史を築いてきた。

それでも人は、本当の意味で分かり合えなかった。

ここまで来るのに、多くの犠牲が必要だった。

俺はもう、見たくもないし、聞きたくもない。

もう疲れた。

自分の人生に飽きてしまった。

あぁ、こんな茶番をいつまで続ければいい?

俺も疲れたよ、母さん…」

私たちは、長い間沈黙した。

玲香も、続きを話す気が失せたようだった。

ワルツは、ロングコートの内ポケットから契約の証を取り出す。

玲香も、首にかけていたネックレスを外す。

その瞬間、二人はほぼ同時に契約の証をへし折った。

鉛の破片が、地面に落ちていく。

優しく微笑みながら、両手を広げる玲香。

ワルツは、ボロボロの体を引きずりながら玲香に一歩ずつ歩み寄る。

二人の間に敵意はない。

聖女というのは、私ではなく玲香のことだった。

コードネームをつけるとしたら、”マリア”がふさわしいだろう。

「大丈夫。怖くない、怖くない」

そうよ、彼女を受け入れるの。

貴方は、黒澤玲香の呪縛から解放されるべき。

母親の死に、義父母からの虐待に、

同級生たちからの嫌がらせに、姉からの暴力に、

自身の運命に、もう苦しむ必要はないの。

「おいで、愛しい私の子」

ワルツの体は、歩を進めるごとに縮んで行く。

それは、迷子になった幼子が母親を見つけて駆け寄る時の光景に似ていた。

いわば、帰巣本能のようなものなのかもしれないと私は思った。

歩く度に、彼の背中から羽のように結晶が突き出てくる。

彼の過去、記憶が具現化したものだ。

彼は今、自分の意思で戻ろうとしている。

彼の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。

彼が、玲香の元に辿り着く頃には、

彼の体は、五歳児と同じくらいの背丈にまで縮んでいた。

玲香は地面に膝を付き、ワルツを優しく抱きしめた。

ワルツは、無抵抗だった。

母親の胸の中で、ただひたすら泣き続けた。

「もう、時間ね」

私は、自分の両手を見下ろす。

私の体が、淡い光を放ちながら薄れているのを確認する。

あの親子も同様に、

光に包まれながら少しずつ消えていく。

百二十回目の正直。

これが、あの親子が下した結末。

それでいい。

それがいい。

ここまで来るのに随分と長い時間を必要としたけれど、

これで、ようやく私も眠りにつくことができる。

玲香、咲月、

あなた達は、もう独りじゃない。

そして、どうか二人に幸福を。

ありがとう、ありがとう、永遠に。

「さよなら、わたし…」

………………………………

十七歳で子供を産んだ。

この子の父親が誰なのかは分からなかった。

自身の体を、見ず知らずの大人に明け渡したのだから当然だ。

私は、生まれたばかりの我が子を置いて、

学校の屋上から飛び降りた。

私には、零(れい)という片思いの相手がいた。

そういや、私の子は零にそっくりだ。

零は、私にも優しさをくれた。

私にとって彼が全てだった。

それでも、彼に最後まで想いを告げられなかった。

私と居れば、彼は不幸になる。

そう考えたからだ。

私は、この世界が嫌いだった。

私を生んだこの世界が嫌いだった。

ずっと逃げたかった。

私にとっての理想の世界へ逃げたかった。

私には、彼らが必要だった。

「ごめんね、さつき」

それが、私の遺言だ。


END





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