第5話 第三部 ケンさん
僕を野球に誘ってくれた向かいに住む双子の片割れ和田君の家の裏に、この地域のボスが住んでいた。僕が三年生の時、彼は中学一年生だった。いつも学生帽をかぶり当時の流行だった黒のグランドコート(今で言うと襟無しのウインドブレーカーと言うところか)を着ていた。ズボンは黒の学生服のズボンだったろうか。
このあたりに住む小中学生は十人程で、その中のボスだった。小学校三年生で新参者だった僕は、体格だけは五年生並だったのでかなり目立っていたのかもしれない。和田君の誘いで野球の仲間に入ると、すぐに近所のこの十人と仲良くなった。三年生が僕と向かいの双子と僕の家の裏に住む一人っ子の山下。こいつはかなりの乱暴者で、今で言うとすぐにキレテしまうやつだった。学校でも担任の先生はかなり苦労させられていた。そして、五、六年生が三人であとは中学生が五人。一番の年長はボスではなく、背のひょろりと高い顔色の悪い小島だった。
中学一年生だったボスはいつでも誰かの顔を直視して話した。誰かに言っている、という曖昧な言い方は決してしない。必ず対象となる相手にしっかり正対して、顔をしっかりと向けて話すのだ。そしてどんなに簡単なことでも、必要になったことを後回しにすることはなく、その場ですぐにやってしまう。「そのうち」とか、「あとで」という言葉は彼には存在していない。できるかどうかじゃなく、やることが大切だ。そう考えている人だった。だから、何に対しても、そして誰に対しても、ひるんだ姿を見せることはなく、自分が真っ正面から向かっていくのが彼のスタイルだった。だから当然のように、相手とはぶつかることも多く、ときには先生ともやり合っていたのだという。それでも彼は自分のわがままを通すためにぶつかるということはしなかった。中学校でのことはわからなかったが、自分の正義を貫くというこだわりを持っていたような気がした。その頃流行っていた東映のヤクザ映画のせりふを地でいくような男っぽさに心酔していたようで、言葉遣いや話し方も、いかにも……、というしゃべり方をしていた。だが、決して暴君的に振る舞っていたわけではなく、仲間の誰に対しても面倒見が良かった。村山謙吾という硬い名前だった。
「ケンさん、と呼んでくんな!」
彼は映画の台詞をきどってそう話した。他のやつが言ったならきっと吹き出してしまっていただろうが、彼はたしかにそういう言葉が似合う雰囲気を持っていた。かっこよさと言うよりも、汚れた純真さとでも言えばいいのだろうか。とにかく、美しく着飾った魅力なんかじゃない、何か薄汚れた身なりに隠された人間的な温かさとか、優しさとか、信頼感のようなものを感じさせていた。
当時子供たちが着ている服は毎日同じなのが当たり前で、ズボンにはたいていヒザ当てがしてあり、履いているのは「タングツ」と呼んでいたゴムの一体整形された黒色の靴がポピュラーだった。毎年成長するのにあわせて新しいものを買ってあげられる今と違い、ダブダブだったり、袖や丈が短くなってしまったのを着ているのは当たり前のことだった。男の子たちは外で遊ぶのが当たり前で、家の中でゲームをしているなんてことはごくごく珍しい時代である。雨でも降らない限り、近所の仲間たちと「何かして」遊ぶことが子供たちの生活だった。服が汚れていたり、破れていたりすることは子供の姿としては当たり前なことなのだ。
その仲間達のボスが「ケンさん」である。彼は、僕たちの前では怒ったり脅かしたり命令したりという姿はほとんど見せなかった。彼は遊びの中心であり、野球の相手であり、遠出の時の用心棒だったり兄貴であったりした。夏休みに行われる町内会のソフトボール大会の選手決めや練習場所の確保も彼の差配によっていた。つまりほかのグループとぶつかったときに、うまいこと調整してくれていたのである。その方法が、どんなものだったかは知らないが、彼が間に入るとなんともスムーズにことは運ぶのだ。だから彼はリーダーとして僕たちの中心に存在していた。もっとも僕たちの知らないところでは結構なワルだったようで、中学校での問題生徒ぶりは同級生の兄を通じて知った。実際彼の体にはタバコの臭いが染みついていたし、顔や手に「戦いのあと」を見つけることもあった。
一度だけ彼がそんな「ワル」の姿を僕たちに見せたことがあった。そのとき彼は中学校三年生で、もういっぱしの町の「アンチャン」的な風貌になっていた。学生帽はかぶらず真っ直ぐな黒髪を右目に垂らしては掻き上げるのを得意のポーズとしていた。これも、東映ヤクザ映画のポーズだったかもしれない。つま先の異様にとんがった革靴を履き、裾の広がった学生ズボンの上にはジャンパーの前をはだけたまま羽織っている。胸ポケットはタバコが入っていると感じさせるに十分な膨らみ方をしている。時にはズボンのポケットから銀色のメリケンを取り出してもてあそぶこともあった。この頃には、彼は僕たちと一緒に行動することが少なくなり、町の中心部である商店街や当時はまだ廃線になっていない岩内駅周辺の方に興味は移ってしまっていたようだった。
秋口だったろうか、小学校のグラウンドでいつものように野球が始まった。珍しくボスが子分のような二人の中学生を連れて来てバックネット裏から見ていた。ゲームは学級対抗のような形で行われる。試合展開は均衡し、しだいにみんなが夢中になって来た。いつものようにボールの判定を巡ってヤジが飛ぶ。相手チームのピッチャーをやっていた子の兄がヤジの中心になっている。初めて弟の野球を見に来たらしく、小学生たちの野球を見下している雰囲気もあった。いつまでも判定に不満を言い続け、審判へのヤジを二度三度と繰り返すうちに、バックネット裏からその様子を見ていたボスがキレテしまった。
「おい、ちょっと来な!」とその兄をバックネット裏に連れ込んだとたん、顔面パンチを二、三発。そして先のとがった革靴で腹に蹴りを入れた。相手は一言も発するまもなくうずくまってしまい、口の中が切れたようで血が見えていた。相手も中学生だったが別な学校なのでボスのことは知らなかったようだ。その間ほんの一、二分。再び顔を見せたボスは何事もなかったような表情で主審の子に「始めれ!」と一言。それですべては終わった。
ベンチからバックネット裏の様子を見ていた僕たちチームの一員は、初めてボスの荒々しい面を見ることになった。彼は全く顔色も変えずに語気も荒くなく、さっきまでと同じようにガムをかみながら野球を見続けていた。その後ヤジが飛ぶことはなくなりいつも以上に力の入った野球が終わった。オレンジ色に染まった秋らしい夕暮れの中を一人、二人と帰って行き、ベースやら何やらを小屋に片づけている僕たちを見ることもなく「帰るべ!」とひと言を発してボスと二人は帰って行った。ボスにやられた相手はいつの間にかいなくなっていた。表情も変えることなく、あのとがった靴で平気で蹴りを入れる。そんなボスの恐ろしさを強烈に味わったことだろう。彼は、その後二度と弟の野球についてくることはなかった。そして、この時の様子は誇張され、ボスの怖さと強さはまた一つ上乗せされて語られることになったに違いない。
その年も終わり、中学校を卒業したボスがその後どうなったのか聞くことはなかった。彼が僕たちの仲間として一緒に行動することは二度となかった。道で会った時でも、今までのようなにこやかな顔は見せてくれなかった。むしろ、あえて無関係のふりをしていたような気がした。あのときに自分の本性を僕たちに見せてしまったことを後悔しているのかもしれなかった。そして、もうこの時で彼の子どもとしての時間は終わったのかもしれない。それを自分の立場として、態度として彼は示したのかもしれない。
中学を卒業した「ケンさん」がその後どんな生活をしたのか、仲間の誰もが詳しいことを知らないようだった。それでもやはり、その存在感の大きさから噂として伝わってくる話も少なからずあった。一説には函館で船乗りになる勉強をしているといい、また一説には、札幌で夜の仕事についたという。その噂は、私たちが短い間で見てきた、「ケンさん」のケンさんらしさを形作り、記憶を塗り固めるための作業だったかもしれない。「あいつならきっと、こうなっているに違いない」という記憶の定着作業が、私たちの少ない記憶にたよって行われたからなのだろう。村山健吾の「ケンさん」というイメージが、私たちの中で変わることのない人格を持って歩き始めた結果なのだ。
私よりも四歳年上だったケンさんは、いつまでたってもあのときの中学三年生のままだ。私たちをとりまとめ、他のグループと交渉し、ときには力づくで懲らしめてしまう。そうやって、自分の中にあるかっこよさを気取って生きていく。十五歳で私たちの前からいなくなってしまったケンさんは、いつまでもそのときのイメージをまといながら私たちの心の中で生きていくのだ。そして、今も、時々あの時のように先のとがった靴を履き、前髪を垂らした風貌のまま私たちの前に現れるのだ。
兄のいなかった僕にとってボスは兄代わりの存在だったような気がしている。ほかのメンバーと写った写真は全くないのに、彼と一緒の写真は二枚ある。自分からしゃべることが苦手だった僕から、ボスはいろいろ聞き出し、からかいながらもあの十人の仲間に伝えてくれた。四歳ほどの年齢の開きが上手く関係を作れたのかもしれない。そして、ボスは一人っ子だった。
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