『僕らの巨人大鵬卵焼き』
@kitamitio
第1話 第一部 岩内町 円山展望台
作:北 道生
「カニの爪みたいだなや。左手か?」
そう言ったのは、誰だったろうか。いつか、ずっと以前にここまで一緒にやって来た誰かの言葉なのだろうか。そんな言葉が耳の奥に今でも残っている。だが、遠い記憶の迷路に分け入ってみても、それがいったい誰だったのか、いつのことだったのか。顔も、名前も、探し出せないままだ。岩内漁港はその爪の中にある。
子供たちがまだ小さかったころに、ニセコにコテージを借りて何度か泊まりに行ったことがある。その後、私たち夫婦も、子供たちもそれぞれにもろもろの忙しさに囲まれてもう何年も過ごしてきた。互いに何とか都合がつけられる年齢になり、それじゃあしばらくぶりにまた行ってみようという話になった。四人それぞれの予定をなんとか合わせて、やっと日程が決まったのは三日前のことだ。
娘が調べたネットからの写真を見て驚いてしまった。噂に聞いていた以上に、そこはもう私たちの知っているニセコではなくなっていた。ヨーロッパの高級スキーリゾートのような街並みがスマホの画面いっぱいに広がっている。行き来する人の大半は外国人たちで、北海道にある他の観光地のどことも違う空気が流れている感じがした。硬質で、他人行儀でゴツゴツした街並みに見えた。そこはもう、家族四人が静かな夏を楽しむ場所ではなくなっていたのだ。まして三日前に予約を取るなんてことはまったく無理なことで、今回は雷電温泉にしようということになった。だが、ここ数年海外から大人気になっている北海道なのだ。その北海道が一番賑やかになる夏の観光シーズンの始まりだ。雷電温泉郷にわずかに残っていたのは、一部屋だけだった。
そこは、国道を挟んでまっすぐに海に向かう大きな窓を持つことが売りの部屋だった。その窓からは強烈に西日が差し込んできて、北海道では設置されているのが珍しいクーラーを全開にしなければならないほどなのだが、そこから見える海に沈む夕日が実に見事で、その一つだけでも大きな価値のある部屋だった。
「すんごい夕焼けだな。初めて見たこんなの!」
来てよかったという思いを互いに確かめるように、何度も同じことを言っては、流れる汗を拭きながら妻と笑った。
今年の夏はちょっと思い出に残りそうだ。そして、大きくなってしまった子供たちの心にもきっといつまでも残ってくれるだろう。そんな気がしていた。
日本海を左に見て、雷電海岸を15分ほども走れば岩内町に着く。小学校のときには遠足でやってきたこともあるので、そう遠くないことはわかっていた。私はすぐに岩内町に着いてしまうことが怖くて、何度も海岸線に車を止めて写真を撮った。
平泉から密かに逃げ延びた義経のお供として、衣川では死ななかった弁慶が刀を掛けたという伝説の刀掛け岩を有島武郎の文学碑から眺めた。ここでもまたたくさんの写真を撮った。子供たちが小さかった頃にはあきれるほどたくさんの写真を撮りためたものだが、彼らが大きくなるのに反比例するように写真の数は少なくなり、今ではほとんど家族の写真など撮る機会はなくなった。今日は、ここ何年かの空白を一気に埋め合わせてしまいそうなペースだ。
「こっから中国に渡った義経はチンギスハーンになったんだぞ」
という昔からの言い伝えを誇らしげに言う私。
「じゃあ、弁慶は誰になったの」
という妻の質問。
「だから、北海道でだけ成吉思汗食べるのか」
と大発見をしたような娘の言葉が続き
「諸説あり!」
と息子が話題を閉じてくれた。
日本海は時折夏の強い陽光を反射しながらも穏やかに水平線へと広がっている。しかしよく見ると、それはほんのかすかに揺れていた。
岩内町は小さな町並みに変わっていた。
子どものころには、あんなに広いと感じていた場所やものすごく大きく感じられていたものが、大人になってから再び訪れた時にはどこも記憶の中よりもずっと小さく、ちっぽけなものだと気づいてしまうことがある。子供の頃は友達ができるたびに知らない場所に遠征して新しい発見に胸を躍らせた広く大きな町だったはずの岩内町が、本当は小さな町だったことに今更ながら気づいている自分がいた。そしてただ一人感傷に浸っていた。当然ながら、子供たちや妻にしてみると、この町はどこにでもある「通過するだけの町」でしかない。「思い出補正」と若者たちの間では言うらしいのだが、自分で自分の記憶を美化してきたと言うことなのだろうか。
「おう、コンビニあるじゃん」
「スーパーもあるよ」
「あのなあ、ここは昔岩内線っていって、列車通ってたんだぞ。」
「海岸線には線路跡ないよ」
「小学校のときはさ、SL乗って比羅夫までスキーに行けたんだぞ」
「なんか、タラマルって、道の駅あるみたい」
「トイレターイム!」
このまますぐに通り過ぎてしまうことに耐えられない私は、子供のころの記憶をたどりながら、山に向かい少しだけ車を走らせた。5分もすると着いてしまったこの場所は、舗装された道路が左右に建てられたいろいろな施設の玄関前まで続き、今では立派な観光地になっていることがわかった。
四阿のような作りの展望台があった。
「あの灯台のあたりでさ……」
左側に伸びた防波堤の先端近くにある灯台を指さした。
「……浮き輪、浮かべてさ、その穴めがけて飛び込んだんだー。」
「けっこう、高さあるでしょう?」
指さす先を娘は展望台の大型望遠鏡でのぞいている。
「輪っかの中通るの?」
妻は自分のことはすっかり棚に上げてそう言った。
「子供ん時だから」
「やっぱ、体育の先生って、子供のころからやんちゃなんだ。」
「度胸あったんだね。子供のころは!」
皮肉にしか聞こえない妻の言葉だったが、「度胸……」という言葉が記憶の迷路の中に分け入って、密かに隠れ続けていた答えを探し出してくれた。
あれは叔母の声だ。
「わたしゃ、二度も死にかけてるから!」
それが叔母の口癖だった。
子供のころに何度も聞いた話がある。
太平洋戦争の終わりに、祖父と叔母たちは樺太に住んでいた。父は赤紙で招集され、千葉で戦地へ向かう待機中に終戦を迎えたという。
「あと一週間戦争が続いてたらな、南方で死んでたべな、きっとよ!」
それが、父にとっての戦争だった。
「二度も死にかけた」と会う人ごとに熱っぽく語る叔母は樺太で終戦を迎えたが、直後にソ連兵に追いかけ回されていた。1945年8月15日にポツダム宣言を受け入れて、終戦となったはずだった。だが、8月9日に参戦してきたソ連は、15日以降も攻撃を仕掛けてきたのだという。叔母は、終戦の次の日に畑でソ連の飛行機に機銃掃射され九死に一生を得たのだ。
「キジュウソウサってやつさ!」
「機銃掃射だろ?」
「そう。キジュウソウサ!すんごいんだからあの音。バリバリ、バリバリって!」
叔母は体中の力を振り絞って擬音を発した。両手のこぶしが白くなっている。
「畑の土がさ、もう、二メートルも三メートルも跳ね上がんだ!……ちょうど、ほれ、ハネの両側に鉄砲ついてるから、道ができるみたいでさ……。走って逃げてる私らの両脇通って、ズダダダ、ダダダダ……って、前のほうまで撃たれたんだ」
普段は饒舌すぎる叔母の話を誰もが途中で止めようと話題を変えるのだが、この話にはだれも口をはさめない。そしてそのたびに、ずいぶん昔に見た「禁じられた遊び」という映画のシーンを思い出し、あのナルシソイエペスのギター曲が頭の中に流れ始めるのだった。
「もう、ダメだと思ったさ。なんぼ走ったって、飛行機にはかなわねえと思った。そしたら、もうどうせ撃たれんだったら、どんな弾か見てやろうと思ったね。もう覚悟決めたんだね。私も、また、なんぼか度胸良かったもんだか。」
そうして叔母は畑の中にあおむけに寝転がって飛行機を見ていたという。
「いやね、本当はさ、頭の中でね、声がしたんだぁ。死んだ母さんの声。『ヒデコ……、そんなとこで隠れてねえで、ほら、うえ見てみれ。』そうやって言ってんだ。んで、私はさ、仰向けになって上見てたんだよね……」
すると旋回して戻ってきた飛行機は「機銃掃射」はせずにそのまま飛んで行ってしまったのだという。
「いやあ、あのパイロットもさあ、ひっくり返ったから、もう撃たれて死んだと思たんだろさ。まさか、撃たれるの見てやろって9歳の女の子はいねえと思ったんだろさ。なんか、死んだ母さんがさ、助けてくれたんでないかなーって思うんだ」
「頭の中の声が……」の部分はどこまでが本当のことなのか判断はつきかねたが、そうして叔母は一度目の死から逃れた。
それにしても、日本が降伏したことを知った上で、こんな形で小さな女の子まで撃とうとする兵士がいるのだろうか。叔母が作り話をしているのでないことは祖父たちの話からも確かめることができた。戦争で負けるということが何を意味しているのかを、現在に生きる私たちは想像することはできない。樺太だけではなく、あの異常な日々には、日本中でいろんな理不尽なことがあったのだと聞いている。
そんなことがあったものだから大急ぎで樺太から逃げ出すことになった。樺太からの引揚げの時、叔母は強烈な船酔いで死ぬ思いをしたという。今の様子から十分予想できる通りに、子供の頃も今以上に元気いっぱいだった叔母があまりにも弱っていたので、その様子を見かねた父親である私の祖父が、稚内で下船することを決めたのだ。
この時も叔母の話では「いやー、あん時はねえー、やっぱり頭ん中で、母さんがさぁ、『ヒデコ……、あんた腹痛えんだろぉ。もうここで船降りればぁ。そんなの我慢することでねえよ。もうここで降りた方がいいんだぁ。』そう言うんだわ。だから、父さんに降りようって言ったのさ……」
8月20日過ぎのことで、波はあまりないけれども、貨物船の船底に詰め込まれた引揚者たちは小さな揺れとエンジン音で多くの人たちが船酔いに悩まされていた。叔母と同じような理由で稚内に下船した人が何人もいたのだという。そして、あろうことか、その船は小樽に向かう途中の増毛沖で国籍不明の潜水艦に撃沈されてしまったのだ。船の名前は「小笠原丸」という。そのあとに続いて小樽を目指した「第二号新興丸」と「泰東丸」も大破され、撃沈された。千数百人を超える程の死傷者が出たのだという。そのことは「三船遭難事件」として記録に残っていて、叔母は留萌に建てられた慰霊碑に一度だけお参りに行ってきたとのことだった。
そんな歴史に残るような大きな事件の中で、しかもこれ以上ないというタイミングで、叔母はしっかりと生き残ったのだ。
「あんとき、私が具合悪くなったからみんな生きてられるんだからね、少しは感謝してちょうだいよ。いや、やっぱり死んだ母さんのおかげかねえ。」
祖父やほかの叔母や叔父たちに会うたびにそう言って笑っていた。こうして二度も死から逃れた叔母は、ますます元気いっぱいの人生を歩むことになったのだ。
「大鵬もよ、あんとき稚内で下船したんだと。ほんとは小樽まで行く予定だったんだとよ。わがんねえもんだな。大鵬と一緒に乗ってたんだがらな。して、大鵬も一緒に稚内からあの混んだ汽車に乗って来たんだ……。」
相撲ファンの祖父はうれしいことを思い出すような口調でそう言っていた。
叔母には何度も言われたことがある。
「あんたね、男のくせにそんな度胸なしでどうすんだね。わたしゃね、二度も死んでんだかんね。怖いもんなんてなんもねえよ。度胸出してやってみれば何でもできんだよ」
そう、怖かった飛び込みも、夜中の度胸試しも、やってみればなんてことはなかった。叔母の言うとおりだった。あれから数十年たって叔母は今でも元気いっぱいだが、「カニのつめみてえだな」という、その言葉はとうに忘れてしまっていた。岩内に引っ越すと決まったときに、叔母と一緒に岩内港の写真を見ていたことがあった。そのときに彼女がそんな言葉で盛り上げてくれていたことがあったのだ。あれは、あのときの叔母の言葉だったのだ。
漁港側に伸びている防波堤にある赤灯台は、小学校の卒業文集の題名になった。砂浜が広がり海水浴場になっていたのは漁港の右側に伸びる東埠頭の外側で、そのずっと向こうに積丹半島の山々が連なっている。今はもう半島を一周する道路が完成していて、私が生まれたあの半島の裏側までも海沿いを行くことができる。そして私たちが立つこの場所は、円山展望台と言う呼び名に変わり、今は夜景を楽しめる観光スポットになっているらしい。小学校の頃、ここは「かんのんさん」と呼ばれるスキー場になっていた。
「小学校とか中学校とかの時はさ、スキー授業があってな、みんなスキー担いでここまで歩いて登って来たんだ。」
「スキー授業って、バスで行くんじゃない、普通」
娘は手稲山でスキーを覚えた。三歳のころにはボーゲンのスキーの先端を後ろ向きになった私に手で押さえられたまま、下まで長い時間をかけて滑ったものだ。
「ここまでバス通ってなかったからな」
「大昔っしょ、それ。いつのことさー。」
そう言った息子は、釣りに連れて行くとミミズもイソメも素手で触ることができないので、いちいち針に餌をつけてやらなければならない面倒くさいやつだ。おまけに、亥年生まれのこいつは、スキー板をはかせるとリフトを降りたとたんにそのまま下まで突っ走ってしまう危険な奴だったので、ひもを結び付けて後ろから引っ張りながら滑らせてやらなければならなかった。
「……東京オリンピックのあと……、かな」
「東京オリンピックって、前の?……」
「そう、1964年」
「昭和の話だよ、昭和の。昭和39年」
妻は私が年をとったことをからかうような言い方をしているが、自分だってたいした違いはないことはわかっているようだ。
「それって、『ALWAYS』の世界でしょう」
「そうそう、ALWAYSの世界は、OLDMANたちの安らぎの時なの」
確かにALWAYSはOLD DAYSだけれども、今とちゃんとつながっている。若者だけが今を生きてるんじゃなくて、今ははるか昔からの今がずっとつながって今になっている。だから、OLD MANだって、今を重ねて生きてきたのだ。大昔なんてのは、ずっと後になって振り返った時だけの言葉で、やっぱりその時はその時代の人々にとっての「今」だったのだ。「昔のこと」というだけで馬鹿にするべきじゃない。いつの時代にだって、その時代に合ったライフスタイルはあるのだ。こうしている今も必ず昔と呼ばれる時代が来るし、この子たちだって、きっといつかそう考えるときが来る。
「お前、大鵬、知ってる?」
野球以外のスポーツにはあまり興味を示さない息子に相撲のことを聞くのは初めてだった。
「ずっと前に亡くなったんじゃないの。確か、千代の富士より前の横綱? 白鳳が記録破るとかどうとか言ってたんじゃねえの?」
「大鵬、岩内にいたことあんだぞ!」
雲がいつの間にか流れ、すっかり顔を出した夏の太陽が港の周辺を明るく照らし出した。近くに止めた車のフロントガラスも青空と化し、ほんの少しだけ残っていた雲が滑るように動い
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