幸なるかな曇天

嶺月

幸なるかな曇天

 長月という9月の異名は夜が長くなるからだと幼い頃教わったが、長雨の月という異説も有るらしいな。鈍色の空と激しく降りしきる雨を眺めながら、秋月元浩あきづきもとひろはそんな最近知ったトリビアを思い浮かべて現実逃避にいそしんでいた。

 たまには真面目に練習に来いと言う学級担任でもある野球部顧問に捕まって、炎天下の中いやいやストレッチに参加していると、突然の大雨。天気はどうにもならないからそれは良い。涼しくなったし。

 他の部員のほとんどは要領良く折り畳み傘を用意していて、部室棟の軒下で雨宿りする羽目になったのは自分ともう一人のみ。これもまぁ仕方がない。いつものように幽霊部員を決め込むつもりで、この季節に傘も持たずに学校に来ていた自分にも責任はある…かもしれない。

 問題は。そのもう一人が5月の仮入部期間も終わらぬうちに入部を決め、夏休みに入るだいぶ前から部の雑務から相手校のデータ採りまで、八面六臂はちめんろっぴの活躍を見せる熱血マネージャー三枝若葉さえぐさわかばだという事だ。

 若葉は中学校まではリトルシニアのチームで主将を務めていたバリバリの高校野球ファンだ。中学の頃には上を目指す事を諦めて、同じくらいの志の部員たちと連敗記録を順調に伸ばしていた元浩とは心構えが違う。おそらく向こうも、全員部活動参加の校則上仕方なく入部して、時たま練習に顔を出す程度のやる気のない先輩と二人っきりなど最悪だ、と思っているだろう。

 もちろん元浩にだって言い分は有る。そんなに野球が好きならばなぜろくな実績も無い都立に入学してきたのだ。リトルシニアで活躍したのならむしろ、最近少しずつ増えている女子野球部の有る高校からいくらでも誘いが来ただろう。

 とはいえ、だ。だからと言って元浩の方から関係の断絶を決定付けるような事は絶対にできない。別に若葉を怒らせると部に居場所が無くなるからとかではない。そんな事は入部の時点で覚悟している。部活をサボったとてスマホで動画を観てダラダラ時間を潰す毎日を過ごすちゃらんぽらん少年が、一つ年下の全く接点の見出せない少女を拒絶しきれない理由はただ一つ。若葉の容姿が優れているからだ。

 中学生の時点でアスリートとして成果を出していたとは信じがたい、150cmに満たない小柄な肢体は健康的な小麦色。まだ起伏にとぼしいからこそ、その引き締まった手脚は男にびない無垢な輝きを宿している。そして動き回るのに邪魔になるからと短く切り揃えられた黒髪が縁取る細く形の良いおとがいとクリクリとよく動く大きな瞳。

 およそ元浩が思い描く可憐な少女の条件を満たした、しかし絶対に自分をうとまさく思っているだろう同世代の異性と一緒の空間を共有するというのは、特別女性の扱いに慣れているわけでは無い一般的な高校生男子には想像を絶する難問だった。

 先程から元浩はせめてこの時間を楽しいものにしようと話題を考えだしては、すげなくあしらわれるのを恐れて口をつぐむ、という益体も無い行動を繰り返していた。それどころか、視線を向けるだけでにらみ返されそうで、様子をうかが事すらできない臆病っぷり。

 それでも天気の話題くらいならば、と思って話しかけようとしたが…

「え〜…」

「秋月先輩は…」

 間の悪い事に、タイミングがかぶ

 ってしまった。天使とますます激しさを増す雨音が3秒ほどをかけて二人の間を通り抜けた後、若葉が先んじた。

「あの、何でしょう?先輩」

「い、いや…大した事じゃ…そっちは?」

「前からお伺いしようと思っていたんですが、秋月先輩は普段何をなさっているのかなって」

「いや…サボってるだけ。動画観たり、ゲームやったり」

「楽しいんですか?」

 狙いすましたデッドボール。それも豪速球だ。元浩とて貴重な青春を無駄遣いしているのは百も承知のこと。しかし正論を振りかざして叩き潰すのは往々にしてどちらの為にもならない。痛い所を突かれた元浩は思わず少女への好意をファウルグラウンに放り込んでぶっきらぼうな返答を返す。

「どうでもいいだろ。全員部活加入なんて規則が有るから、しょうがなく入っただけなんだし」

「あ…生意気なことを言ってごめんなさい。でも勿体ないなって思って」

 若葉の方は先輩に対する無作法に気付いたのか、体育会系らしい律義さで謝罪してきた。素直に謝られた元浩としては自分の大人げなさに恥じ入る他ない。とは言ってもまだ割り切れずにいたので相手の言葉に乗って、取り敢えず会話を続ける、という方法で関係の修復をはかる。

「勿体ないって?」

「秋月先輩のポジションってセンターでしたよね。部のファイル見たら一番50mのタイムが良かったし、レギュラー取れるんじゃないかなって」

「勝てなきゃ別に試合に出られたって嬉しかないぜ。こっちこそ前から聞いてみたかったけど、なんでうちみたいな何のとりえもない都立に来たんだ?選手としてはもう良かったのかもだけど、それならそれでもっと熱心にやってる高校にした方が良かったんじゃないか?」

「一番の理由は学費なんですけど…」

 思った以上に世知辛い理由が返ってきて、未成年としては降伏するしかない。しかし若葉の言葉には続きが有った。

「2年前の都大会で準決勝まで勝ち上がったんですよ、うちの学校」

「あ~、それは先輩たちが話してたなぁ。その時一人だけ1年で…」

「そう!若林わかばやし主将キャプテン!」

 それは夏の大会を経て引退した3年生たちにとってのヒーローである、1年生からレギュラーを勝ち取った元主将の名前だ。おまけにここ十数年で最高の結果を出した時のスタメンともなれば、同い年の部員からも慕われるのも無理はない。だがそんな瞬間風速のような結果だけで進学を決めたのか。そんな疑問を抱いた元浩に若葉は熱く語り続ける。

「うちの家族、夏大は毎年ベスト8から球場で観に行ってたんですけど。準決勝の最終回、うちは2点ビハインドの展開だったんです。一人ランナーは出たけど、2アウトまで取られちゃってベンチもスタンドもお通夜だったんですよ。でも1年生だったキャプテンだけが諦めてなかった。5回もファールで粘って、見事同点2ラン決めたんですよ!私あの時本当に感動しちゃって。強豪校でヒーローになってプロになるだけが高校野球じゃないなって!」

 本日の大雨をどうやら乗り切ったようで少しずつ小さくなる雨音の中、若葉のほとばしる情熱が元浩に叩き付けられる。そのあかく染まった頬に、ふと先輩に対する遠慮も会釈もぎ取るほどの情熱以外の何かを感じ取った元浩は少女のつむじを見下ろしながら確認してみる。

「ひょっとして三枝、若林先輩のこと…」

「あっ!」

 小柄な体を目一杯動かして語っては推察されるのは当然のことなのだが、秘めた想いを他人に知られてしまった乙女はさっきまでとは別の意味で火を噴くほどに紅潮した顔を両手で隠す。 その年頃の少女らしい仕草に当てられた第三者としては先程までの自分のときめきが馬鹿々々しくなって、どうやらそのまま勢いを失って止みそうな雨の気配をうかがって目を逸らすしかなかった。

「まあ、何だ…先輩も部活は引退して時間は有る訳だし、アタックしてもいいんじゃね?」

「あの、だ…えっ、あ、あの…」

「わかってるわかってる、誰にも言わないから」

 もうシトシトとすら聞こえなくなった微かな雨音にもかき消されそうな声色で何やらどもっている若葉を見かねて、元浩は強引に話を切り上げて軒からそっと手を伸ばして、雨の具合を確かめる。

 まだ霧雨の如く空気は湿っているがこのいたたまれない空気の元にいるよりはましだ。そう判断した元浩は陽光を透かす曇り空の下へと歩き出す。

 これはそれだけの話。殆ど幽霊部員の元浩に誰よりも熱心だった元主将と熱血マネージャーの間を取り持つ人脈など無いし、マネージャーの言う今からレギュラー奪還のチャンスなど追い求める情熱も有りはしない。ちょっと憎からず思っていた少女の想い人を知ってしまったのは幸か不幸か、それだって別に真剣に恋していた訳でもないから失恋とすら呼べない。

 そんな暦の上ではとっくに秋になっている暑さを少し冷ます、通り雨の物語。

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幸なるかな曇天 嶺月 @reigetsu_nobel

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