第三十一話 「兄の下の名前って、『盾』?」
朝早い並木通りに誰もいないのをいいことに、乳白色の刃を持った手とともにこちらへ歩み寄ってくる白髪の少年。目を閉じ、含みのある笑みを見せるその姿で、心なしか朝日が暗く感じられた。
ここから逃げなければ。
なのに、脚は銅像になったかのようで、一歩も動かせない。頭をショートさせてでも「動け」と思っているにも関わらず、だ。
ならば、何とか助けを呼ばなくては。
しかし、どんなに声を上げようとしても、うまく喉も動かせない。
体の自由が、それも内部の自由までもが奪われたことで、動こうとする焦燥感に駆られた。
「それも白の柄の能力だよ、お姉さん。 『他人の心の独白を読める』だけじゃなくて、他人の独白も操れるんだよ。 しかも心だけでなく『身体の独白』もね」
こちらが戸惑う反応を楽しんでいるのか、閉ざされた瞼と共に私の顔を見つめ、よりじんわりと口角を上げていく。敢えて心を操らず、体の自由の身を操っているのは、人が苦しむさまを味わいたいからだろう。なんて悪辣なのだろうか。
さらに、思っていることが顔のみならず態度にも表れ始めたのか、向かってくる様子が湿ったアスファルトを撫でる優雅なものになっていた。彼のゆったりとした白甚兵衛が作る歪んだ黒い影により、妖艶さを併せ持つ怪異が迫って来るようにも見える。
身体が動かない以上、逃げることはおろか、少年が言っていた「赤の柄」を鞄の中から取り出し、今朝のように矛に変化させて対抗することもできない。しかし、この少年のおどろおどろしい様子から、柄を差し出すのは絶対に駄目だ。
一方の少年は歩みを止めず、遂に目の前にやってきてしまった。
そのまま私の顔を舐めるように覗くしぐさをしつつ、彼の細く小さい腕が、背中に背負った横長の通学鞄に入り込もうとする。少年に似つかわしくない、這うような気色悪い動きで。
こんなところで、柄を取られるわけにはいかない。命の恩人である盾に何があったのかを知り、これ以上盾が傷つかないようにするために。
「やめろ!」
想いを振り絞って叫んだと同時に、少年は面食らって怯み、情けなく後ずさりした。それが引き金となったのか、体の自由が奪われていたはずなのに自らの右腕を動かし、鞄から柄を取り出すことができた。
柄の割れた刀身部分が赤くパッと光り、両者の目を眩ませると、次に目を開けたときには紅の小さな刀身ができていた。矢じりというのだろうか。
矢じりは、柄が矛のように伸びるのに合わせてこちらから遠ざかっていき、遂には地面に尻もちついていた少年の目の前にまで迫る。
少年は、ぼんやり光る矢じりの気配を感じ取ると驚いたのか、下半身を引きずりながら腕で後ろに下がりつつ、どこか諦めたような笑顔を作り始めた。
「……あの時と同じだな」
「あの時?」
深い意味がある言葉に、思わず聞き返してしまう。
「うん。 十年位前だったかな、川底に刺さる赤の柄を抜いた少年が居たんだ。 それで同じように『あたしのなんだけど』って脅して身体の独白を操ったんだけど、その少年が誰かの悲鳴を聞いた途端、いきなり近くで叫んだんだ。 『ホコ』って」
たまたまなのか、彼の口から私の下の名前が出てきた。少し驚いたが、きっと武器などの矛のことだろう。しかし、彼と会った少年はなぜ「ホコ」なんて叫んだのだろうか。
「へえ、お姉さんの下の名前も『ホコ』かあ。 確かになんで『ホコ』って叫んだんだろう」
しまった、彼にまた心を読まれてしまった。
「あの時はびっくりしたせいで、少年から赤の柄を奪えなかったうえに、その少年のせいでもう一回封印されたなぁ」
矛を向けられているにも関わらず、懐かしむような落ち着いた口ぶりに変化していた少年。閉じたまぶたで、再び私の顔を覗くしぐさをする。すると何か気づいたのか、首を少し傾げた。
「お姉さん、兄妹かってくらい、少年と雰囲気が似てる。 こういう人って、柄の能力で操れそうもないや」
少年はゆっくり体勢を持ち直すと、白の柄から霧のようなものを自分の後ろに作り出し始めた。
この霧で何かをするのだろうか。
そう察知した私は、すかさず自分の矛を構え直し、少年の首元へ矛先を近づける。
「別に君を倒すための霧じゃないよ。 体格差もあるから、正々堂々戦っても負けるのが目に見えるし。 けど、次はそうもいかないよ」
そう答えると、少年は小さな腕や脚をめいっぱい動かしながら背面の霧の中へ逃げて行った。途端に、霧は少年と共に消え、いつもの並木通りが現れる。
「……なんだったんだろ」
ただ、警戒をこれ以上する必要がなくなった安堵感で、少年を追う気にはなれなかった。
その後、学校へ向かってやり残した宿題を進め、何にも疑問を持たず普通に授業を受けて、普通に友達と楽しくおしゃべりして、いつの間にか放課後になった。
最近は特に、小学校の頃と比べて時の進み方が早く感じられ、戸惑ってしまう。
さて、本当は今度こそ駅で張り込み、柄で盾を傷つけたであろう三人を待ち伏せするべきなのかもしれない。しかし今日は所属している陸上部の練習があるうえに地域の大会も近いため、そうもいかない。
いつも通り体操服に着替え、グラウンドへ向かったその時。フェンス脇のベンチでタイマーを手に持ち、すでに来ていた他の部員のタイムを計っている人がいた。制服はうちの中学校のと違い、高校生っぽいセーラー服。
「いいね! ペースキープできてるからその調子!」
やる気を盛り上げてくれる熱いエールに、特徴的な外ハネの黒髪、腰に巻いた青緑の甚兵衛で、思い出すにはそう時間がかからなかった。
「青海先輩! 今日もありがとうございます! たしかもう、高校二年生で……」
「お、ほこちゃん! そうそう、ちゃんと進級できたわ」
青海先輩だった。私が中学一年の時から、こんなふうに陸上部のOBとして手伝ってくれており、仲良くさせてもらっている。前に先生から聞いた話だと、長距離短距離関わらず、走らせると凄いのだとか。
先輩がこちらへ走って向かおうとしたその時、拍子で先輩の手がベンチの手提げカバンに当たり、地面に落ちてしまった。
カバンから飛び出した中身には、あろうことか妙な柄も混ざってあった。刀身が割れて無くなり、柄の先端には金色のレリーフ。私が持っている柄と共通点が多い。日本刀にありそうな鍔があれについているのが唯一の違いだが、何かの関係があるのだろうか。
「あ、あたしのカバンが」
「青海先輩、その柄って先輩のですか?」
「ええ、って! まっず!」
グラウンドの灰色の土で汚れたカバンや散らばったプリント類に目もくれず、先輩はすぐさま跪いて柄を拾い、大切そうに抱えた。
「いや先輩、実は私もこういうの、持ってるんです。 ちょっと来てください」
そう言うと、先輩を連れてプレハブ小屋にある部室へ向かい、自分の通学鞄から例の銀色の柄を取り出した。
「教えてください。 この『赤の柄』について」
「うそ……」
柄を見るや否や、先輩は開いた口を両手で塞いだ。先輩にとってかなり驚きの物だったみたいだ。
「……確かほこちゃんって、苗字は赤山だったよね」
「そう、ですね」
呆気にとられた様子で、確認してきた先輩。
「もしかして、兄が居たりする?」
「いますけど」
この答えに、先輩はだんだん顔をこわばらせ、背筋をまっすぐにし始めた。その様子につられて私も、肩が上がってきた。まさか先輩は、兄の盾と知り合いなのか。
「……じゃあ、兄の下の名前って、『盾』?」
その時、部室の空気は本当に息ができないほど張りつめたのだった。
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