第1話 静かなる航路
朝霧が運河を覆う中、老人・大吉はゆっくりと歩を進め、いつものように船着場へと向かっていた。彼の仕事は、毎朝この運河を渡り、荷物を運ぶこと。もう何十年も続けてきたこの日常は、大吉にとっては生活そのものだった。
「今日も良い風だ」と、大吉は穏やかな表情でつぶやく。誰に聞かせるわけでもない、自分だけの言葉。それはいつしか、運河と船と彼だけの静かな対話のようなものになっていた。
船は古く、何度も修理された跡があるが、大吉の手によって丁寧に保たれ、今でもしっかりと運航している。かつてはこの運河を多くの船が行き交い、町の繁栄を支えていたが、今ではほとんどの人が車やトラックで荷物を運ぶようになり、運河は忘れられた存在となっていた。
大吉は黙々と船に荷物を積み込み、ゆっくりと櫂を漕ぎ始める。船が静かに水を切る音が、朝の冷えた空気に響く。水面は穏やかで、波一つ立たない。時折、風が木々を揺らし、川沿いの草がささやくような音を立てるだけだ。
「この川も、昔はにぎやかだったんだがな…」大吉はふと、昔を思い出してつぶやく。
若かりし頃、この運河は大動脈だった。人々が集い、笑い声が絶えず、船乗りたちは互いに競い合いながら荷物を運んだ。あの頃の活気と比べると、今の運河はまるで違う。だが、大吉にとってはこの静けさこそが、運河が語りかけてくれる時間だった。
彼は黙々と櫂を漕ぎながら、流れる水をじっと見つめる。水面には、自分の顔がぼんやりと映っていた。深く刻まれたしわ、白くなった髪、それでもしっかりとした腕の動き。老いても、彼はまだこの運河で生きていた。
ふと、船が止まる。大吉は静かに櫂を置き、運河の中央に浮かぶ自分の船と周りの景色を見渡す。そこには、かつての仲間たちの姿が見える気がした。
「みんな、どこへ行ったんだろうな……」と、大吉は小さくつぶやく。
彼の目には、かつてこの運河で働いた仲間たちの笑顔が浮かぶ。彼らはもうここにはいない。それぞれの道を選び、去っていった。大吉だけが、まだこの運河に残っていた。
だが、大吉は寂しさを感じてはいなかった。この静寂が、彼の心を落ち着かせていた。運ぶ荷物が誰かの元に届く限り、自分の役割は続いていると信じていた。
船が再びゆっくりと動き出し、風が少しずつ霧を吹き払う。大吉の視線の先に、対岸の町の輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。今日もまた、大吉は荷物を届ける。たとえその荷物が小さなものであっても、誰かの生活を支えているのだと彼は感じていた。
静かな運河を進みながら、大吉は思った。時代が変わり、人々の生活も変わっていくが、変わらないものもある。自分がこの運河で生きている限り、運河は忘れられた存在にはならない。
「この運河は、俺の人生そのものだ……」
船は、ゆっくりと対岸へと向かって進んでいく。大吉は風を感じながら、心の中で次の世代に何かを残せるだろうかと、静かに考えていた。
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